第二の書物がきっとこの本の眼目なのだろうと思いつつも,未練なく放り出してよい,というならここでギブアップか,まだ迷っている。コルタサルは短編だな,というのが実感。アルゼンチンを離れてパリに留学したオリベイラとラ・マーガの恋模様が「向こう側から」で描かれ,ブエノスアイレスに戻ったオリベイラと友人たちの日々が「こちら側から」に描かれる。
終盤になって,日常生活の舞台がいつしか精神病院に移っている不可思議さ。これを不条理という言葉で片づけてよいのだろうか。読者は「石けり遊び」の枡目を右往左往しながら,どこへ向かってどの頁を繰るのだろうか。オリベイラの独白から。
「しかし別の生き方をする必要がありそうだ。それでは別の生き方をするとはどういう意味か? たぶん不条理を切り捨てるために不条理に生きること,勢い余って他者の腕の中に飛びこむ結果になるほどの激しさで自分自身の中に飛びこむことだろう。そうだ,たぶん愛だ,でもその他者性(otherness)は、一人の女が持続している間しか,それもただその女に関わりのあることにおいてしか,持続しない。根本においては他者性なるものは存在せず,せいぜい心地よい共存性(togetherness)があるだけだ。確かにそれだけでもちょっとしたものではあるが…」愛,実在化のための儀式,存在の譲渡者。そしてそれゆえにこそ彼は,おそらく最初に考えておくべきだったことをいま考えていたのだ―自己を所有せずして他者性の所有はない,とすれば誰が真に自己を所有し得るのか? (p.94)
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