2026-01-07

読んだ本,「怖くて美しい能の女たち」(林望)

 年末年始にかけて「怖くて美しい能の女たち」(林望 草思社, 2025)読了。林氏の能の解説書を読むのは初めて。初心者向けとあるが,「葵上」「野宮」「紅葉狩」「巴」「隅田川」「道成寺」「砧」「姨捨」の八曲を取り上げて,その原拠となった先行文学作品との詳しい比較や,民俗学的な考察なども含めた解説は深く,示唆に富む内容でとても勉強になった。

 昨年4月から某私大で同様の講座を受講していて,「源氏物語」や「平家物語」などの先行文学をいかに能作者が「能」という舞台芸術に昇華していくかという視点で詞章を読むことの楽しさを実感している。本書でも「女」という切り口で著者が選んだ八曲を精読する楽しさを味わえた。

 なぜ「女」が切り口なのか。序文にこうある(抜粋)。「能は一般的には「男の世界」であった。しかし,それゆえにどうやって男の能役者が「女」を表現するか,またその能役者が作者を兼ねる世界ゆえ,どのように能作者が「女」を描くことに智慧を絞ったか,ということでは,古来先人たちも並々ならぬ努力を重ねてきたにちがいない。/いや,そもそも,女を描くことは即ち男を描くことでもある。その意味で,能は,男女関係はもとより,親子の情,人と神の交感,怨みと癒やし,信仰と諦念,などなど人情の自然を深く考察し描いてきた芸能で,表面上の「難解さ」を腑分けして理解してみれば,そこに驚くほど自然な人情の機微が現れてくる。」(pp.4-5)

 こういう視点で描かれた八曲の解説はどれも興味深いが,特に最後の「姥捨」が個人的に印象に残った。日々「老い」を実感する年齢になったからだろうか。「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月をみて」の歌は,「大和物語」では伯母を捨てた甥が詠んだとされ,「俊頼髄脳」では捨てられた伯母自身が詠んだとされる。

 ここで著者は,「その捨てられた伯母が,絶望的な孤独のなかで悄然と詠んだとするほうが,この歌の思いははるかに切実にながめられる」とし,「作者世阿弥が,老いの孤独ということを,どこまで切実に考えたかということを,こういう作劇のありようが物語っているように思われる」と述べている(p221)。

 「姨捨」の舞台は見たことがある気がするが,はっきりと記憶にない。近いうちに,どこかの能楽堂で演じられるのをぜひ見に行きたいものだと思う。きっと,無限の孤独のうちに取り残される老女の切実な思いを,理解できるような気がするから。

2026年1月,東京東銀座,「寿初春大歌舞伎」

 新しい年の初めは歌舞伎座から。何と言っても右近の八変化が楽しみな「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」がお目当て。見事な八役早替わりで,それぞれの役が魅力たっぷり(どの役も同じに見えない!)で,とにかくエネルギッシュな舞台がお正月気分を盛り上げます。隼人と巳之助と三人の舞踊シーンもあって,この三人はほんとに絵になります。これぞ歌舞伎の芸の世界をつないでいく若手の活躍!って感じ。

 音楽は常磐津と長唄の掛け合い。そのそれぞれの魅力も楽しめる演目でした。昼の部はほかに,お目出たい3つのプログラムの「當午歳歌舞伎賑」と勘九郎が斎藤別当実盛を演じる「源平布引滝 実盛物語」。勘九郎は貫禄たっぷり。とってもかわいい子役の守田緒兜くんは巳之助の息子。

 実盛が後に髪を染めて戦って首を討ち取られるという後日譚は,子どものころ加賀の「首洗池」が小学校のバス遠足の定番コースで,毎年のようにバスガイドさんの説明を聞くたびに哀しい武士のお話だなあと子ども心に思ったものでした。こういうのって何十年たっても思い出すものだな,とそんなことをしみじみ思ったお正月。