昨年4月から某私大で同様の講座を受講していて,「源氏物語」や「平家物語」などの先行文学をいかに能作者が「能」という舞台芸術に昇華していくかという視点で詞章を読むことの楽しさを実感している。本書でも「女」という切り口で著者が選んだ八曲を精読する楽しさを味わえた。
なぜ「女」が切り口なのか。序文にこうある(抜粋)。「能は一般的には「男の世界」であった。しかし,それゆえにどうやって男の能役者が「女」を表現するか,またその能役者が作者を兼ねる世界ゆえ,どのように能作者が「女」を描くことに智慧を絞ったか,ということでは,古来先人たちも並々ならぬ努力を重ねてきたにちがいない。/いや,そもそも,女を描くことは即ち男を描くことでもある。その意味で,能は,男女関係はもとより,親子の情,人と神の交感,怨みと癒やし,信仰と諦念,などなど人情の自然を深く考察し描いてきた芸能で,表面上の「難解さ」を腑分けして理解してみれば,そこに驚くほど自然な人情の機微が現れてくる。」(pp.4-5)
こういう視点で描かれた八曲の解説はどれも興味深いが,特に最後の「姥捨」が個人的に印象に残った。日々「老い」を実感する年齢になったからだろうか。「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月をみて」の歌は,「大和物語」では伯母を捨てた甥が詠んだとされ,「俊頼髄脳」では捨てられた伯母自身が詠んだとされる。
ここで著者は,「その捨てられた伯母が,絶望的な孤独のなかで悄然と詠んだとするほうが,この歌の思いははるかに切実にながめられる」とし,「作者世阿弥が,老いの孤独ということを,どこまで切実に考えたかということを,こういう作劇のありようが物語っているように思われる」と述べている(p221)。
「姨捨」の舞台は見たことがある気がするが,はっきりと記憶にない。近いうちに,どこかの能楽堂で演じられるのをぜひ見に行きたいものだと思う。きっと,無限の孤独のうちに取り残される老女の切実な思いを,理解できるような気がするから。