2026-03-31

2026年3月,東京目白ほか,展覧会の記録

  この3月はたくさんでかけて,頭の中がスクランブル交差点状態。まずは静嘉堂@丸の内で「たたかう仏像」展を見る。怒髪天を憑く三彩神将俑とか大迫力。高麗時代の預修十王生七経は海印寺に現存する版木を用いたもの,という解説に思わず韓国旅行を思い出して胸が高鳴る。この春,また韓国に行きたいんだ。

 目白の永青文庫では所蔵の東洋彫刻コレクション「アジアの仏たち」展を見る。数としては中国の石仏や金銅仏が多いけれど,インドの彫像の面白さに興奮。4階展示室で端正なヒンドゥー教神像や仏像をたっぷり楽しむ。パーラ時代(8~10世紀)の「弥勒菩薩坐像」の美しさ。2階展示室には小ぶりなチベットの金銅仏もあり,アジアの風を感じた午後。まだ桜には早い時期だった。白木蓮の花が美しい。

 後日,ふたたび目白にでかけて桜開花の学習院大学キャンパスを楽しみながら学習院ミュージアムで開催中の「Re:辻邦生ーいま,ふたたび作家に出会う」展(Part 1)を見る。パリ留学時代の日記や写真など,若き日の作家の文学への情熱にあらためて感動。読み返したくなる作品が多すぎて困る。夢中になった若き日の自分と向き合うことになるのか,いつしか離れてしまった理由を思い出すのか,年を重ねていろんなことを考える。Part 2の展示や「ことばと響きあう〈美〉と〈音〉」というタイトルの講座にも参加したい。
 上野の荘村清志のコンサートの前に東博で「韓国美術の玉手箱-国立中央博物館の所蔵品をむかえて」を見る。本館特別1室と2室を使った見ごたえたっぷりの特別企画。あの広大な国立中央博物館の展示室の一つ一つを思い出してドキドキしてくる。名品ばかりで,さっと見るつもりがほとんど凝視(?)する勢いで時間をかけて鑑賞。高麗青磁の美しさ。観音菩薩坐像の優雅さ。朝鮮国王国書の楷書と塗印にもうっとりする。その紙の艶と言ったら! 東洋館では書道博物館との連携企画「明末清初の書画」展もぎりぎりで見ることができた。
 3月はほかに,東洋文庫でリニューアル・オープン記念の「ニッポン再発見-異邦人のまなざし」展を。朝ドラを楽しく見ていたので「ラフカディオ・ハーン書簡集」などにドキドキ。この展覧会とは直接は関係ないけれど,神保町で京都大学人文科学研究所の漢籍セミナーで「外国人の見た近代中国 異境の探索者たち」という講演会に参加した。時間の都合で「イザベラ・バードの見た清末の長江ー三峡・チベット・アヘン」(村上衛教授)のみ聴講。イザベラ・バードの名前を初めて知ったのは東洋文庫なので,ちょうどのタイミング。イザベラ・バードという人物を知り,「制度」を考える意味について学ぶ貴重な機会だった。会場は満席。

 そして桜満開の週末,砧公園にでかけて世田谷美術館開館40周年記念のコレクション展「世田美のあしあと」を見る。コレクションのダイジェスト版という感じで懐かしい作品ばかり。用賀駅に万博出品作というジュリアン・オピーの作品が展示してあって,いい感じ。

2026-03-26

2026年3月,上野・狛江・渋谷,荘村清志のギター・川口成彦のフォルテピアノ・映画「ジョン・クランコ」

 箍が外れたままの3月後半,あちこちに出かけたのとPCが不調で買い替えたりしていて記録が溜まりに溜まってしまった。気が付くともう桜の便りに街が浮き立つ頃に。

 東京・春・音楽祭2026のプログラムで東京文化会館小ホールに荘村清志のギターを聴きに行く。「武満徹 没後30年に寄せて」というタイトルのコンサートはオール武満徹プログラム。前半は「フォリオス」「ギターのための12の歌」より5曲,「すべては薄明のなかでーギターのための4つの小品」,後半は「エキノクス」「ギターのための12の歌」より4曲,「森のなかでーギターのための3つの小品」。なんとも贅沢なギター1本の2時間だった。荘村清志の武満徹への敬慕の想いが溢れる美しい演奏に思わず涙ぐみそうになる。

 狛江の駅からすぐの狛江エコルマホールに川口成彦のフォルテピアノによる「開館30周年企画 ベートーヴェンをたたえてⅧ 大公/皇帝」を聴きに行く。ピアノソロ「エリーゼのために」,ピアノ三重奏曲「大公」,ピアノソロ「幻想曲ト短調」,最後のピアノ協奏曲「皇帝」は古楽器の弦楽アンサンブルとの共演。
  
 「皇帝」ってこんなに美しい曲だったのか,という驚き。使用ピアノの1825年ウィーン製ヨハン・クレーマーは機嫌が悪かった(?)らしい。べダルのトラブルのハプニングは,1回限りのライブでしか味わえない楽しみということにして,また別の楽器・プログラムで彼の演奏を聴いてみたい。 
 文化村ル・シネマに「ジョン・クランコ バレエの革命児」を見に行く。「その美しさに、世界がひれ伏す」とある通り,シュツットガルト・バレエ団のバレエシーンも彼の見る幻想も,そして彼自身もあまりに美しい。舞踊関係を楽しんだあとはいつもの(?)「バレエの現代」(三浦雅士著 文芸春秋)を紐解く。こんな記述になるほど!と興奮する。

 「物語を捨てて純粋な動きの美しさそのものを求めたバランシンの抽象主義が,カニングハムのモダンダンスに流れ,あくまでも意味に固執し,物語を失うまいとするグレアムの表現主義が,ヨーロッパのモダンバレエに影響を与えたというのは皮肉だが,クランコは両者の総合を企てていたということになる。」(p.171)

2026-03-18

読んだ本,「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ)

「死んでから俺にはいろんなことがあった」(リカルド・アドルフォ 木下眞穂訳 書肆侃侃房 2024)読了。スペイン語圏文学の棚に並んでいて,ジャケ買いならぬタイトル買いで手にした1冊。1人称の「俺」が饒舌に語る時間と空間は不条理に満ちている。

 「俺」は妻と幼い息子と一緒にただ家に帰りたいだけなのだ。言葉がまったくわからない異国の都会で夜中に道に迷ってしまったばかりに,恐怖の時間を過ごすことになる。

 読み進めるうち,「俺」は「くに」で罪を犯して妻と息子と「島」に不法入国した移民であることがわかる。タイトルの「死んでから」は肉体の死ではなく,社会的な「死」を意味していることがこんな一節から読み取れる。

 「俺はここの人間じゃないんだ。俺は存在していない。だが,死人のまま生きるのに慣れることなんでできやしない。」(p.29)

 2023年に翻訳された本作は2009年に発表されたという。日本でも移民問題の認知が進んで,この喜劇仕立ての小説が孕む貧困,移民,差別,家父長制などの問題が私たち日本人が身近に感じて読めるようになったということなのだろう。

 たしかに,ポリティカルに読んで考えるべき問題が詰め込まれてはいる。しかし,この「物語」が語るのは,「俺」は家に帰れるのかという一点だ。私は最後まで,「俺」は本当に生きているのか,妻と息子と同じ水平に存在しているのか,地下鉄を降りてバス停を探し,最後は飛行機に乗せられて結局行きつく場所は天国かそれとも地獄なのではないかと,ずっとハラハラしながら読み進めた。リカルド・アドルフォの語る「物語」は頗る面白かった。 

2026-03-14

2026年3月,東京・横浜,国立能楽堂定例公演・石田泰尚&石井琢磨リサイタル・ルパン歌舞伎

 寒さも緩み体調もよくなって,箍が外れたようにあちこち出かけているのでその記録を。まずは国立能楽堂で狂言「左近三郎」と能「須磨源氏」の番組で定例公演を拝見。行きたいと思ったときにはたいていチケットが完売してしまっているので,今回も譲ってもらったら,なんと正面席一列目。脇正面で見ることが多いので,こんな風に見えるんだ!という驚き。春の月明りのもと,光源氏がまさに目の前に現れて優雅に舞っているよう。能面とばっちり目が合って,雄弁に語りかけてくるような感覚は初めての,至福のひととき。資料展示室では「能面展」を見る。
 気持ちよい気候の一日,みなとみらいホールで石田泰尚&石井琢磨リサイタルを聴く。前半はモーツァルトとグリーグのヴァイオリン・ソナタ,後半はピアソラというプログラム。石井琢磨は寡聞にして知らなかったのだけど,今大変な人気のピアニストだそう。本プログラムは彼が希望したのだとか。前半も後半も二人の個性が響き合ってとてもよかった。アンコールのピアノ独奏「献呈」(シューマン)も美しく,若き才能に拍手喝采。アンコール最後のリベルタンゴがこの日のすべてを持っていったかも。

 そして新橋歌劇場でルパン歌舞伎「碧翠の麗城」を楽しく観劇。昨年の南座で見た第一作に続く二作目。前作では右近が演じた石川五右衛門を今作は片岡愛之助がルパンと二役を演じる。どうなのかな,と思っていたら,ルパンと五右衛門の早替わりが見せ場になってて面白い! そして今作はなんといっても中村米吉の瀬織姫が可愛く美しく,お見事というしかない舞台だった。理屈抜きに面白かった!

2026-03-01

2026年3月,2月のコンサート・映画の記録,「角野隼斗」・「黒の牛」

 2月は展覧会の他にコンサートと映画にもでかけました。忘備録として。

 水戸にでかけて角野隼斗ピアノリサイタルChopin Orbitを聴く。これだけの人気だと,もはや気恥ずかしさすら感じてしまうけれど,やはり好きなものは好きってことでいそいそと特急ひたちに乗り込む。グロービスホールの特徴的な内装は梅の花びら? こじんまりとしたホールで,演奏者との親密な距離感がよい感じ。アデスとかヒナステラとか,未知の作曲家との出会いは多幸感にあふれる。水戸は梅の満開には少し早かった。

 2月は楽しみにしていた映画「黒の牛」にもでかける。 「十牛図」に着想を得た映画っていったいどんな?と思いつつ,その圧倒的な映像美と深い物語に感動。つまりはこの映画の「物語」とは「十牛図」を生きるということなんだ。第八図「人牛倶忘」の真っ白な図はどうやって?とか,あれ,第九図で終わった?とかとにかく「十牛図」を辿る2時間だった。こういう映画にはやっぱり坂本龍一の音楽が欠かせないよね,という感じ。禅僧役の田中泯も聖と俗を生きる感じがよかった。第十図「入鄽垂手」についてはネタバレになるので内緒。

2026年3月,2月の展覧会の記録,「八大山人」・「デューラー」・「ここにいるから」・「ロックフェラー・コレクション」展

 2月の展覧会の記録を忘備録として時系列に。どれも楽しかったけれど,ゆっくり振り返る心身の余裕がなかった。参考に読みたい本が何冊もあるので,読み終えてからまた書き残すかも。とりあえずは鶯谷の書道博物館で「明末清初の書画 八大山人 生誕400年記念」から。生誕400年とはスケールが大きいな,とまず感心。泉屋博古館蔵の安晩帖の展示は期間が限定で,再会叶わず。蘭亭序の臨書が圧倒的だった。
 上野では西洋美術館ですばらしい特集展示を2つ。「物語る黒線たち―デューラー『三大書物』の木版画」はとにかくすごい熱量の展示。「黙示録」「大受難伝」「聖母伝」の活字印刷本の木版画群を「一挙にすべて公開」するという。美術館の意気込みと鑑賞者の感動が一直線!である。美術展鑑賞の醍醐味を味わう。前川誠郎著のデューラーの伝記を読みたい。同時に常設展内特集展示の「フルーニング美術館・国立西洋美術館所蔵フランドル聖人伝板絵―100年越しの”再会”」展も知的興奮にあふれる内容でお腹いっぱいに。
 横浜美術館では「いつもとなりにいるから 日本と韓国,アートの80年」展を。ソウルの現代美術館と共同企画ということ。80年を時系列にたどっているので,まさにいつもとなりにいる国とのつながりをアートという切り口で考えることができる貴重な体験だった。ナムジュンパイクのビデオアートなども充実していて,体調がよければじっくり時間をかけたかったのが本音。
 千葉市美術館の「ロックフェラー・コレクション 花鳥版画展 北斎・広重を中心に」展を最終週に駆け込んで見る。昨年は大河ドラマの関係で浮世絵展をあちこちで見たけれど,今展は花鳥画に絞ったコレクションなのでかなり新鮮。優しい気持ちで見ることができるというか。こういう感覚こそを「癒される」というのだろうなあと独り言ちる。写真撮影可の作品も点数が絞られていて,撮影合戦に巻き込まれることなく楽しめる。撮りましたが。この北斎「鷽 垂桜」を見たくて千葉まで行ったようなもの。イザベル・アジェンデ「日本人の恋びと」の装丁に使われているゴッホのアーモンドの花の絵は,この北斎作品をリスペクトしてるのじゃないかなあ。背景の藍の色も桜の枝と小禽の構図も理屈抜きに好きなんだ。

2026-02-22

2026年2月,シンビジウムの開花

 随分と間を空けてしまいました。ほんの短い期間でしたが入院していて,やはり身体の不調はメンタルにとっても辛いものですね,ようやく文字通りに心身ともに回復傾向です。病理検査の結果が出るまでは不安な日が続きますが,普段通りの生活で大丈夫ということで,少しずつ外出も。入院前に出かけたいくつかの展覧会もあるので近いうちに忘備録を残します。以前,旅先の上田で買い求めた蘭が昨年に続いて開花しました。ラベルがなかったのですが,たぶんシンビジウムの原種に近いのではと思います。美しくて,何だか泣きそうになる。

2026-01-30

2026年1月,展覧会・観劇・読書の記録,「サド侯爵夫人」ほか

 この1月,記録に残していないものがいくつかあって,まとめて忘備録として。紀伊国屋サザンシアターで宮本亜門演出の「サド侯爵夫人」を観る。6人の登場人物はオール男性キャストで,主演は成宮寛貴。舞台の評判はよいみたいけど,個人的には三島由紀夫の戯作世界とはちょっと違うなという感が否めない。新潮文庫を読み返す。
 谷崎由依「百日と無限の夜」(集英社 2025)読了。「出産幻想文学」なのだそう。「隅田川」と「班女」が重要なモチーフになっているというので読んでみた。確かに「出産幻想文学」だった。確信的に「隅田川」の物狂いの女と「班女」の花子が同一人物として描かれているけれど,あくまで「隅田川」のシテは物狂いの女であって,「花子」として登場しているわけではないのでは? 語りが一人称から三人称になったり時制が行ったり来たり,凝った小説だなあとは思う。では,この小説の「物語」とは何なのか,読み終えて何だかよくわからない疲労感。
 話題になってる映画「落下の王国」を観に行く。これは文句なし(?)に面白かった。ロケ地や衣装の美しさはもちろんのこと,この勇者たちの旅の「物語」が美しく,見終えて驚きと喜びに包まれる。ラダックはいつか行きたいとずっと想い続けているけれど,体力的に不安を覚える昨今,美しい映像は無上の喜び! タージ・マハルはもちろん,ファテブル・シクリの庭園やアグラ城などなど,楽しかったインド旅行を思い出して興奮! 
 六本木の泉屋博古館東京では鹿子木孟郎展を見る。近代の日本洋画に本格的な「写実」表現をもたらした画家の画業を堪能する。「木の幹」(制作年不詳),「加茂の競馬」(1913)などなど。

2026-01-23

読んだ本,「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ)

 「マルコヴァルドさんの四季」(イタロ・カルヴィーノ 関口英子訳  岩波少年文庫 2009)読了。きっかけは読み返した武満徹の「時間の園丁」の中で,ベルリンに滞在中の約1週間,音楽会に出かけるまでのホテルでの時間をほとんどこの本を読んで過ごしたという逸話を読んだこと。(彼が読んだのは英訳本だけど。)「カルヴィーノの記述にはユーモアが充溢し,読む間笑いが止まらず,時間が経つのを忘れてしまうほどだった。それでいて読後の余韻は長く,また深く重い。」(「時間の園丁」p.48)

 邦訳が出ているので嬉しい。岩波少年文庫に入っているけれど,大人が読んでこそ,マルコヴァルドさんという貧しい労働者の眼を通した自然への畏怖,荒廃した都会と人間への批判,それらの先にある人間存在を肯定する美しい魂の存在などなどに深く共感するのではないだろうか。

 20編のどの一つも美しい。とりわけ私の心には「まちがった停留所」のちょっと不穏でシュールな感じが面白く響いた。バス停を探し続けたマルコヴァルドさんが歩道から飛び降りて,乗り込んだのは,インドへ旅立つ飛行機だった。家に帰るための停留所をずっと探し続けて,運ばれていく先は見知らぬ世界だったのだ。でも彼はそのまま窓の外を眺めて飛び続ける。

2026-01-14

読んだ本,「根も葉もある植物のはなし」(塚谷裕一)

 「根も葉もある植物のはなし その多様なすがた・かたちについて」(塚谷裕一 山と渓谷社 2025)読了。とにかく楽しく美しい読書の時間だった。次々と息を呑むような写真が頁を彩り,「(略)自分が子どもだった頃にあったら読みたかった内容になるように書いてみた。何度も昔からコピー&ペーストの繰り返しで焼き直されてきたような,ありきたりの説明は,そもそも書く気になれない。読むほうだって飽き飽きするだろう」(まえがき pp.2-3)という説明が読む手を休ませない。

 「葉」「花」「果実、種子」「茎、枝、幹」「根」の六章から構成される。どの章のどの項も忘れ難いが,表紙にもなっている「ヒスイカズラ」の項「蒼に咲く」にすっかり魅了される。著者が園長を務めている小石川植物園の新温室にこの株の子孫が育っているとのこと。ぜひこの「蒼」の色を見に行かなくちゃ。

 「黒い花」や「タシロ氏」の項など,私には「花」の章がインパクトが大きかったかな。「色づく」の項では赤い大根の色彩の妙にもびっくり。中国大根の長安青丸紅芯の実物を是非見たい(食したい)と思ったけど,簡単には手に入らないみたい。そこで普通のというか,国産の市場に出回っている赤大根を買ってきた。サラダか漬物くらいしか思いつかないけど,本書によればおろしも美味らしい。早速試してみた。なるほど,甘みが濃い感じ。


2026-01-09

2026年1月,東京恵比寿,「作家の現在 これまでとこれから」

 ガラスに新春の街が写り込む。恵比寿にでかけて東京都写真美術館開館30周年記念展の「作家の現在 これまでとこれから State of the Artist: So Far and From Now On」展を見に行く。タイトルの英訳はそのまんまじゃん,という感じで,一ひねりあってもよかったのでは,などと生意気なことを考える。

 「作家」は石内都,志賀理恵子,金村修,藤岡亜弥,川田喜久治という錚々たる5人。フライヤーの金村修の写真が1993年撮影のものなので,とにかく彼の「現在」「これから」が知りたいとはやる気持ちで会場を進む。

 そして金村修の「現在」を目の当たりにしたとき,それは「衝撃」としか言いようがなかったのだ。作家のコーナーの最初は『System Crash for Hi-Fi』というタイトルの20枚組で,暗室のアクシデントの痕跡が写真を「破壊」している。近年取り組んでいるというコラージュやドローイングの,余白を埋め尽くして反復する細密な線は,何か狂気性を想起させるものに見えてしまう。

 解説を読むと,これらは「彼の写真作品に通底する衝動-すなわち,都市の構造とエネルギーを視覚化しようという欲望を思わせる。そこには,作家としての揺るぎない視点と,メディウムを超えて世界を構築する力がある。」とのこと。そうか,私が「これまで」見ていた写真作品にこそ彼の本質があり,「現在」の姿は決して「衝撃的」などではなく,必然の「これまでの未来」の姿なのか。

 とにかくも私の(やわな)マインドが衝撃を受けたことには変わりなく,ちょっとフラフラになりながら会場を進む。川田喜久治のコーナーでボマルツォの怪物公園の1枚を見る。悪趣味でありながらも,フラフラのマインドには「見たことがある」風景の写真として,寧ろほっと安心して眺めてしまう。

 写真美術館では,日本の新進作家シリーズvol.22「遠い窓へ」展も見る。寺田健人の「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」シリーズがおもしろかった。

2026-01-07

読んだ本,「怖くて美しい能の女たち」(林望)

 年末年始にかけて「怖くて美しい能の女たち」(林望 草思社, 2025)読了。林氏の能の解説書を読むのは初めて。初心者向けとあるが,「葵上」「野宮」「紅葉狩」「巴」「隅田川」「道成寺」「砧」「姨捨」の八曲を取り上げて,その原拠となった先行文学作品との詳しい比較や,民俗学的な考察なども含めた解説は深く,示唆に富む内容でとても勉強になった。

 昨年4月から某私大で同様の講座を受講していて,「源氏物語」や「平家物語」などの先行文学をいかに能作者が「能」という舞台芸術に昇華していくかという視点で詞章を読むことの楽しさを実感している。本書でも「女」という切り口で著者が選んだ八曲を精読する楽しさを味わえた。

 なぜ「女」が切り口なのか。序文にこうある(抜粋)。「能は一般的には「男の世界」であった。しかし,それゆえにどうやって男の能役者が「女」を表現するか,またその能役者が作者を兼ねる世界ゆえ,どのように能作者が「女」を描くことに智慧を絞ったか,ということでは,古来先人たちも並々ならぬ努力を重ねてきたにちがいない。/いや,そもそも,女を描くことは即ち男を描くことでもある。その意味で,能は,男女関係はもとより,親子の情,人と神の交感,怨みと癒やし,信仰と諦念,などなど人情の自然を深く考察し描いてきた芸能で,表面上の「難解さ」を腑分けして理解してみれば,そこに驚くほど自然な人情の機微が現れてくる。」(pp.4-5)

 こういう視点で描かれた八曲の解説はどれも興味深いが,特に最後の「姥捨」が個人的に印象に残った。日々「老い」を実感する年齢になったからだろうか。「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月をみて」の歌は,「大和物語」では伯母を捨てた甥が詠んだとされ,「俊頼髄脳」では捨てられた伯母自身が詠んだとされる。

 ここで著者は,「その捨てられた伯母が,絶望的な孤独のなかで悄然と詠んだとするほうが,この歌の思いははるかに切実にながめられる」とし,「作者世阿弥が,老いの孤独ということを,どこまで切実に考えたかということを,こういう作劇のありようが物語っているように思われる」と述べている(p221)。

 「姨捨」の舞台は見たことがある気がするが,はっきりと記憶にない。近いうちに,どこかの能楽堂で演じられるのをぜひ見に行きたいものだと思う。きっと,無限の孤独のうちに取り残される老女の切実な思いを,理解できるような気がするから。

2026年1月,東京東銀座,「寿初春大歌舞伎」

 新しい年の初めは歌舞伎座から。何と言っても右近の八変化が楽しみな「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」がお目当て。見事な八役早替わりで,それぞれの役が魅力たっぷり(どの役も同じに見えない!)で,とにかくエネルギッシュな舞台がお正月気分を盛り上げます。隼人と巳之助と三人の舞踊シーンもあって,この三人はほんとに絵になります。これぞ歌舞伎の芸の世界をつないでいく若手の活躍!って感じ。

 音楽は常磐津と長唄の掛け合い。そのそれぞれの魅力も楽しめる演目でした。昼の部はほかに,お目出たい3つのプログラムの「當午歳歌舞伎賑」と勘九郎が斎藤別当実盛を演じる「源平布引滝 実盛物語」。勘九郎は貫禄たっぷり。とってもかわいい子役の守田緒兜くんは巳之助の息子。

 実盛が後に髪を染めて戦って首を討ち取られるという後日譚は,子どものころ加賀の「首洗池」が小学校のバス遠足の定番コースで,毎年のようにバスガイドさんの説明を聞くたびに哀しい武士のお話だなあと子ども心に思ったものでした。こういうのって何十年たっても思い出すものだな,とそんなことをしみじみ思ったお正月。