2012-09-27

読んだ本,「他者の苦しみへの責任」(A.クラインマン他)

 「他者の苦しみへの責任 ソーシャル・サファリングを知る」(A.クラインマン他著;坂川雅子訳 みすず書房)を読みました。これはSocial Suffering; edited by Arthur Kleinman, Veena Das, Margaret Lock(University of California Press, 1997)の抄訳で,原著に収録されている15編の論文のうち6編が訳出されています。

 訳者あとがきによれば,sufferingは「苦しむ人間と,その苦しみを与える原因の存在を暗示する言葉」であり,social sufferingとは「社会に起因する苦しみ」ということだとあります。

 最初のA.クラインマン,J.クラインマンの論文「苦しむ人々・衝撃的な映像 現代における苦しみの文化的流用」は眼を覚まされる思いで読みました。

 その論文で扱っている,スーダン南部で飢えのためにうずくまる小さな女児とそのそばで彼女を狙うハゲタカをとらえたケヴィン・カーターの写真は,1994年にピューリツァー賞を受賞したときに新聞などで見ていたし,その後,撮影したケヴィン・カーター自らが命を絶ったこともショッキングな事件として知ってはいました。しかし,はるか遠くで起きたこのできごとは私にはまったく無関係のできごとでした。


 「この写真を1枚の報道写真として見,一般的な解釈をするとき,われわれは,この国の内戦の被害者である無力な子どもと,それを写真に撮った外国人カメラマンとのあいだに,大きな溝があることを感じる。しかし,そのカメラマンが自殺したことによって,主体と客体を二分していた壁は崩れおち,事態は複雑なものになる。(略)われわれは人間に課せられた冷厳な限界-一見,意味も救いもない沈黙-を突きつけられるのである。そして世界は,あいかわらず映像を求めつづける。」(本書p9より引用)

 そして,この本には池澤夏樹が解説を書いています。彼は,世に流布している多くの苦しみの映像についてこのように言います。「自分はこの人たちに同情する善良で誠実な人間であるという意識を人々は楽しんでいないだろうか?しかし実際には何もしない。しかもこの種の写真を見ることには『このアフリカの社会よりはわれわれの方がましだ』(本書p11)という自己満足がつきまとう。」(本書p258より引用)

 では,いったい自分に何ができるのか,何をすればよいのか。言葉にならない無力感に襲われますが,本書のタイトルが示唆してくれること,すなわち「ソーシャル・サファリングを知ること」,そして遠い地の他者の苦しみに対して「責任」を感じて日々を送ることが大切なのではないだろうか。
 
 「イラクの小さな橋を渡って」(池澤夏樹(文),本橋成一(写真) 光文社 2003)も,遠い中東で起こった/起こっている出来事に無関心でいてはいけないと心に訴えかけてくる本です。
 

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