2013-07-31

2013年7月,東京新宿,金村修の写真

 夜の帳が降りるころには,一人で歩くのはちょっと勇気がいる新宿二丁目界隈。この街の雑居ビル4階にあるphotographers' galleryで「金村修展 ヒンデンブルク・オーメン」が開催中です。先週末,金村氏と写真批評の倉石信乃氏によるトークイベントを聞いてきました。タイトルの「ヒンデンブルク・オーメン」は株価暴落の前兆を表すテクニカル分析パターンのことを指すらしい。

 トーク開始前のわずかな時間しか肝心の写真は見ていないのですが,決して広くないギャラリーの壁を埋め尽くす強烈なコントラストの写真はいつ見ても圧倒的な力をたたえ,どうだ,これが俺の東京だ,と言わんばかりです。私の手元にあるのは2000年にワイズ出版から出た「Happiness is a Red before Exploding」だけですが,彼の写真のスタイルはずっと一貫していて,変化はほとんど感じられません。
 
  金村氏本人を間近で見るのは初めて。サングラスの奥の眼は何を見ているのか,後ろの方の客席でこちらが緊張します。倉石氏は金村氏の生い立ちを尋ねるところから始め(実家はテイラーだという),やがて写真家にとって写真とは何か,というところへ話は進む。「無名性」への欲求は意外な感じでした。写真とは「ドキュメント」なのか,「芸術」なのか,一体「何」であるのか,という話題の中で,金村氏が中平卓馬の「Circulation」が自分の理想に近い,と言及したことに理屈を超えて納得,感動すら覚える。

 金村氏のHPには体幹からあふれ出るような言葉が連なる文章も掲載されていて,モニターに浮かぶその言葉の洪水と,壁一面の写真とが,私という写真を「見る/読む」人の頭の中で奇妙にリンクして,胸がざわつく。会場で配られた金村修ワークショップ2013年第4期のDMの見本プリントには「写真は点の爆発によるさらなる点の断片化であり,写した世界のなにかを定着したりはしない」と書いてある。私は「ならば写真を見るとは何か」を考え続けるしかない。 

2013-07-24

2013年7月,東京ドイツ文化センター,「ヨーゼフ・ボイスの足型」を読む

 東京ドイツ文化センター図書館で開催された「『ヨーゼフ・ボイスの足型』を読む」というイベントを聴講してきました。みすず書房から出版された同書の著者の若江漢字氏と酒井忠康氏の対談です。休憩をはさんで約2時間,ドイツ語書籍や関連する日本語書籍に囲まれた美しい空間で繰り広げられた対話にじっと耳を傾ける。

 ヨーゼフ・ボイスにはこれまで強い思い入れはなかったのだけれど,昨年11月に訪れたミュンヘンのピナコテーク・モデルネで見たThe End of the 20th Century(20世紀の終焉:独タイトルDas Ende des 20. Jahrhunderts)は圧倒的な迫力でした。そして5月に国立国際美術館のフルクサス展で見た小さな木箱。Intution「直観」と鉛筆で書かれたその作品は不思議な磁力をたたえ,一体この作品にはどんな意味が込められているのか,ボイスはフルクサスのメンバーだったのか,という驚きとともにずっと心の片隅にひっかかっていたのです。

 みすず書房の新刊案内とイベント案内を見て,これはボイスを知る絶好の機会と,すぐに申し込んだ次第。対談が始まると,飄々とした雰囲気のお二人がボイスの人と作品を,その思想とともに縦横無尽に語ります。若江氏が「ヨーゼフ・ボイスの足型」を取るまでの過程とその後のいきさつは一遍の映画を見ているよう。ボイス邸の中庭で撮影された写真はまるで聖人と使徒みたい。
  会場で買い求めた「ヨーゼフ・ボイスの足型」は,ボイスの基本原理ともいえる「膏(あぶら)注がれし者」のエピソードや「社会彫刻」の意味など,ボイス理解への深い示唆に富む1冊です。「ボイスの作品は社会改革のツールであるばかりか,神のごとき人間へ人を進化させる促進剤でもあった。ボイスは直観を研ぎ澄ますことで,錬金術の本質である『汝ら自らを生ける賢者の石に変えよ』に,人々を誘うのである」(略)「ボイスの業績をあらためて分析すると,芸術家(=社会思想家)→作品(社会改革の道具)→直観(常民の覚醒)→進化(の促進)→オメガ点到達の図式が浮かびあがってくる」(p.123より引用)という若江氏の一節を読んで,あの「直観」と書かれた木箱を思い出す。あれは「覚醒せよ」というメッセージだったのだろうか。

 まだまだ刺激を受けた内容が盛りだくさんで,きりがないのでこの辺で。ドイツ文化センターはシンプルで頑丈でとても気持ちのいい建物でした。休憩時間にはよく冷えたドイツワインも振る舞われて(無料のイベントなのに),これまたいい気分に。ワインの勢い(!)で酒井氏に署名をお願いするわ,会場でボイスのカードも数枚頂くわ,もはや夢心地で帰路につきました。若江氏が運営する「カスヤの森現代美術館」はこの夏ぜひ訪ねてみたい。
 

2013-07-20

2013年7月19日,東京青山,東京ドイツ文化センター図書館へ向かう

 
7月19日の夕暮どき,地下鉄青山一丁目駅から,『「ヨーゼフ・ボイスの足型」を読む』というイベントを聴講するために東京ドイツ文化センター図書館へ向かう。この日の記録として歩いた場所の写真を撮る。そしてこの日記めいた場所にそれを残しておこうと思い立つ。

2013-07-15

読んだ本,「ロル・V・ステーンの歓喜」(マルグリット・デュラス著,白井浩司訳)

 古書店特集の雑誌を見て,渋谷のFlying Booksにでかけてみました。1階に古書サンエーが入る渋谷古書センターの2階にあります。1階と2階は別の経営かと思ったら系列店のようです。
 
  まずは1階の古書サンエーを物色していたら,外国文学の棚に北園克衛装幀の白水社「新しい世界の文学」シリーズがずらりと並んでいるのを発見。おお,これは期待度大。マルグリット・デュラス「ロル・V・ステーンの歓喜」(白井浩司訳, 1976)を購入。難解と評されている小説です。河出書房新社から1997年に平岡篤頼による改訳版が出ています。
  ロル・V・ステーンはT海岸での舞踏会の夜,婚約者のマイケル・リチャードソンをアンヌ=マリ・ストレッテルに奪われ錯乱し,狂気の世界へ足を踏み入れます。10年後,故郷に戻り旧友のタチアナとその愛人ジャック・ホールドに出会い,3人の奇妙な関係が続く中,人間の孤独が浮き彫りになる…というのが物語の流れではあるのですが,そもそも語り手の「私」が一体だれなのか,男なのか女なのか,ようやく明らかになるのはかなり読み進めてから。そしてこの「私」は物語を語るばかりでなく,ロル・V・ステーンの心の中をも自由自在に語ります。そしてle ravissement=「歓喜」の意味は?

 「私は彼女に反対しない。彼女には私が誰であるか認められない,もうぜんぜん認められない。『この人は誰なの,もうわからなくなったわ。』それから彼女は私を認めない。」(p.276より引用)

 たしかに難解ではあるのだけれど,三角関係とか嫉妬という言葉には収まらないデュラスの狂気の世界にどっぷりと身をゆだねるのもまた,亜熱帯の夜を思わせる夏の一夜の気分としては心地よいものです。

 2階のFlying Booksではイザベル・アジェンデの短編集と吉田秀和「調和の幻想」を購入。

2013-07-13

読んだ本,「薤露行」(夏目漱石)/「漱石とアーサー王伝説」(江藤淳)

 「夏目漱石と美術世界」展でJ. W. Waterhouseの「シャロットの女」を見て,明治38年(1905)に発表された「薤露行(かいろこう)」を読んでみました。青空文庫で原文を読めることに気付いて,それをプリントアウトして読む。どうしても紙で読みたいのです。

 「薤露行」は「吾輩は猫である」と同時期に1週間で書き上げられたという旧仮名遣い・雅文体の短編で,タイトルの意味は「挽歌」ということ。マロリー「アーサー王の死」とテニスン「シャロットの女」,『国王牧歌』中の一篇「ランスロットとエレーン」を典拠にしているものの,まったく別の物語である,と序文でわざわざ前置きをしています。ここではあくまで「シャロットの女」の世界をたどることにして,物語の筋やマロリー,テニスンとの関連はまた機会をあらためて。
 
  この短編は5章からなり,「シャロットの女」が登場するのは第2章です。高塔の中で鏡を通してしか世界を見ることが許されないシャロットがランスロットの姿を直接見てしまい,呪いのかかった彼女は塔の中で息絶えてしまいます。

 展示されていたWaterhouseの「シャロットの女」はこの場面を描いたもの。「シャロットの女は眼深く額広く,唇さえも女には似で薄からず」(「薤露行」より引用)という描写はまさにラファエル前派の描く女の姿そのもの。「『…わが末期の呪を負うて北の方へ走れ』と女は両手を高く天に挙げて,朽ちたる木の野分を受けたる如く,五色の糸と氷を欺く破片の乱るる中にと仆れる」(「薤露行」より)というシャロットの最期の姿は「宿命の女」を暗示するかのようです。

 「『薤露行』の比較文学的研究」という副タイトルの「漱石とアーサー王伝説」(江藤淳著,講談社学術文庫)を繙くと,第7・8章「漱石と英国世紀末藝術」でまさにロンドン滞在中の漱石とラファエル前派の作品との出会いが詳述されています。ただ,「シャロットの女」について,漱石が強く影響を受けた塔の場面の図版はホルマン・ハントやロセッティの作品を挙げていて,展示されていたリーズ市立美術館蔵のWaterhouseの作品には触れていません。

 (別の場面(テニスンの詩による,シャロットの女が舟に乗ってキャメロットに向かい,歌いながら息絶える場面)を描いたTate所蔵のWaterhouse「シャロットの女」については,実際にTateで見たであろうという論拠とともに図版が掲載されています。)

 このあたり,「漱石と美術世界」展にリーズ市立美術館蔵のWaterhouseの塔の場面が展示されていた経緯は江藤淳以後の研究の成果なのか,不明です。図録を購入すればよかった。芸大図書館など行く機会があれば調べてみたいです。

 ところで蛇足ながら,この江藤淳著の「漱石とアーサー王伝説」は学位請求論文(1975)の復刻版で,旧仮名遣いのために写真製版によって文庫化されたもの。文庫サイズで読むには活字がとにかく小さい。もともとの漱石の短編も,手引きとなるべきこの本も読むのに一苦労でした。

 暑い暑い日が続く中,脳みそフル回転で,寝苦しい夜にも取りつかれたようにページを開いて,かなりぐったり。展覧会で見たWaterhouseの1枚は,どうやら私にとっても「魔性の女」だったみたい。

2013-07-10

2013年7月,横浜みなとみらい,プーシキン美術館展


 横浜美術館で始まったプーシキン美術館展(9月16日まで)の夜間特別観覧会招待に当選,いそいそと桜木町へ。美術館の正面に大きな商業施設ができて周辺は着実に変化しているのだけれど,いつもの通り桜木町駅から右手に日本丸や観覧車を眺めながら美術館へ向います。
 
 今回の展覧会のプーシキン美術館は「知る人ぞ知るフランス絵画の宝庫」(展覧会資料より)なのだとか。ミニレクチャーで歴代皇帝や19世紀の大商人によるコレクションの形成と,エルミタージュ美術館と並ぶ規模の国立美術館への足取りや展覧会の見どころなどをコンパクトに聞いてから会場へ。(担当の主任学芸員の松永氏は,キャパ展のブログによればロバート・キャパ似と書いてあったけど,ほんとに似てる。あ,これは脱線。)
 
 17世紀古典主義から20世紀のピカソやマチスへという編年体のシンプルな構成で,人物表現にスポットがあたっています。傑作ばかりですが印象が強かったものを,忘備録的に。神話を題材にしたダヴィッドの「ヘクトルの死を嘆くアンドロマケ」(習作)は,のちの「マラーの死」を連想する。ヴェルネ「マムルーク」を見て「マムルーク朝」の意味とイメージを映像として認識する。アングル「聖杯の前の聖母」の前では言葉を失う。ゴーギャン「エイアハ・オヒパ(働くなかれ)」は美しい男性が寛ぐ姿。解説文には「両性具有的な」魅力と書いてあり,なるほどと思う。
(夜間特別観覧会に際して特別に撮影許可されました)
 ところで展覧会のHPには島田雅彦の書き下ろした「名画のたどり着く先」という4つのストーリーの映像がアップされています。さすがロシアの美術館ときたら島田雅彦だね,という内容にわくわく。ドラクロワ「難破して」は,バイロンの叙事詩「ドン・ジュアン」に着想を得た「アタッシュケースほどの大きさ」のこの1枚の魅力を語る5分ほどのストーリー。島田ファンにはたまりません。ナンパ師が難破する,なんてくだりにも決して脱力したり(!)しないのである。
 ゆっくり楽しんで美術館の外に出ると外はすっかり夏の夜。入口外壁のポスター。ルノワール「ジャンヌ・サマリーの肖像」がにっこりと見送ってくれます。幸せな笑顔にこちらもつい顔がほころびます。

2013-07-04

2013年6月,東京上野,夏目漱石の美術世界展(芸大美術館)・魔性の女 挿絵展(弥生美術館)

 暑くなった一日,上野にでかけて芸大美術館で開催中の「夏目漱石の美術世界」展を見てきました。NHK日曜美術館やBSの番組でも大きく取り上げられていて,会場は大変な混雑。
 
 「漱石の文学作品や美術批評に登場する画家,作品を可能な限り集めてみることを試みます」(展覧会チラシより)というこの展覧会。それぞれの作品が漱石のどの作品にどのように引用されていたのか,展示されている説明文を丁寧に読みながら会場を廻ります。
 
 展示されているのは「伊藤若冲,渡辺崋山,ターナー,ミレイ,青木繁,黒田清輝,横山大観といった古今東西の画家たち」(展覧会チラシより)です。酒井抱一の「月に秋草図屏風」は短い展示期間で,さすがに存在感たっぷり。「門」に登場するということですが,一体いつ読んだのだったか,そんな場面があったことなどはるか忘却の彼方。
 そして今回ぜひ見たかったのがウォーターハウスJ.W. Waterhouseの「シャロットの女」と「人魚」の2点。「人魚」は「三四郎」に登場します。顔を寄せ合って画帳の「人魚」を覗きこむ三四郎と美禰子。二人の身体の距離感が絶妙に伝わって,とても肉感的な場面に思えます。そうか,二人はこの絵を見ていたのかと,Waterhouseの作品の前で明治時代にタイムスリップした気分に。
 
 もう一つのアーサー王伝説の「シャロットの女」は,漱石の「薤露行(かいろこう)」の関連作品としての展示。このリーズ市立美術館所蔵の「シャロットの女」そのものが作品に登場するわけではないようです。そもそも「薤露行」とは聞いたことがない。これはこのまま通り過ぎるわけにはいきませぬ,というわけで早速「薤露行」とその関連書籍を読むことに。詳細についてはまた後日あらためて。
 
 さて,芸大美術館のレストランも学食も大変な混雑。遅めの昼食は谷中方面に少し歩いてカヤバコーヒーに立ち寄る。店の前のネムノキの花。そして根津方面にまた少し歩いて弥生美術館で6月30日まで開催されていた「魔性の女 挿絵展」に向かいました。明治末から大正,昭和初期にかけて日本の文学に登場した「魔性の女」を取り上げた展覧会。漱石展を見たあとだし,三四郎池にもすぐ近いことだし,すっかり気分は明治の女である(?)。
 少し前にテレビ東京の「お宝鑑定団」で取り上げられていた橘小夢(たちばなさゆめ)の原画展示に興奮。谷崎潤一郎の「刺青」の挿絵である「刺青」の妖しい美しさに足がくぎ付けになりました。濃密な一日を堪能して,最後は根津の古書店タナカホンヤに立ち寄って帰路につきました。タナカホンヤで買った本についてもまた後日。

2013-07-02

2013年6月,東京渋谷,「熊坂」

 渋谷のセルリアンタワー能楽堂に櫻間会例会「熊坂」を見にでかけました。ほかに連吟「半蔀」,仕舞「二人静」という番組。開演ぎりぎりに到着すると,正面自由席はほぼ埋まっていて,脇正面に座ることに。橋掛かりのすぐ横は,揚幕がさっと揚がる音や,役者のすっすっという足音を間近で聴くことができるので,好んで陣取ります。(正面で居眠りするより目立たないし。)
  「熊坂」は熊坂長範という盗賊が,「かつて都から奥州へ下る三条吉次一行を襲うものの,無念にも吉次に伴われる牛若に斬られた件りを物語る」というもの(「鑑賞のしおり」より)。

 それにしても,斬られた無念さはわかるけど,盗みはいけませんな,と思わずつっこみたくなりますが,長刀を華麗に振り回して,牛若との戦いを再現してみせる舞台は迫力満点。地謡の詞を目で追いながら見ていると,「はっし」とか「ひらり」とかの身体の動きが面白い。

 ところで熊坂に使う能面は「長霊べしみ」というのだそう。「べしみ物」という分類があるそうです。「面」にはとても惹かれます。ちょうど今,早稲田大学演劇博物館で館蔵コレクションの「アジア演劇仮面」展が開催中なので,近いうちにでかけよう。