2013-10-27

番外編・お知らせ

  秋の夕暮の空。駅のホームでしばし空の向こうの世界を想像します。11月初にかけて,数日間アムステルダムに行ってきます。近郊の都市や,お隣のベルギー・ブルージュにも足を延ばす予定です。しばらく更新をお休みしますが,戻りましたら旅行記をアップします。また遊びにいらしてください。

2013-10-22

2013年10月,東京六本木,鈴木清写真展「流れの歌、夢の走り」

 暑くなったかと思うと,大雨のあと急に秋が深まってきました。体調がよくなったり悪くなったりを繰り返し,日々思うのは年間を通して気温が20度くらい,湿度が低くていつも気持ちのよい風がふくところで暮らしたいものだ,ということ(人間としてどうなんだ)。

 そんな願望が満たされるわけがないから,いつものようにもう一つの世界に逃避を決め込む。先日は鈴木清の写真を見に行きました。タカイシイギャラリー  フォトグラフィー/フィルムは六本木AXISビルの2階。久しぶりに夕暮れ時の六本木を歩いていると,行き交う人たちと言葉が通じるだろうか,と異国の路地にいるような心細さに囚われます。
  非の打ちどころがない佇まいのギャラリーを訪れて,鈴木清のヴィンテージ写真に向き合います。2010年に東京国立近代美術館で開催された「百の階梯,千の来歴」展は彼の「写真集」という「書物」への指向性が前面に押し出された展覧会でした。今回も「流れの歌」と「夢の走り」のなかから24点が展示され,それらが1冊の作品集「流れの歌、夢の走り」として同ギャラリーから刊行されています。

 しかし,壁に掛けられた写真のほかに余分な情報が何もないスペースで1枚ずつに向き合うと,たしかにシークエンスの妙は彼だけの世界だと思うものの,それぞれの写真が持つ強烈な磁力に引き込まれていきます。「流れの歌:沖縄の民謡歌手 ナハ」の女性たちには,この世のものとは思えない妖気が漂う。

 先の2010年の写真展では「デュラスの領土 DURASIA」(1998)という写真集にくぎづけになりました。今では入手が難しいその写真集には,倉石信乃氏が詩を寄せています。近代美術館の展示室でその詩の一節を夢中でメモした紙をどこへやってしまっただろう。

 失くしてしまった紙片/詩篇。「展示室では鉛筆しかお使いになれません」という乾いた声の記憶。カルカッタの早朝の喧騒。メコン川に浮かぶヴェトナミーズ・ボートの光景。

2013-10-16

読んだ本,「葉書でドナルド・エヴァンズに」(平出隆)

 「葉書でドナルド・エヴァンズに」(平出隆著, 作品社 2001)を手に入れたのはいつのことだっただろう。平出隆という詩人に強く関心を持つようになったのは,彼の詩作と,彼自身が版元として発行するvia wwalnuts叢書の名前が私の中で結びついた,ほんのここ数年の間のことだ。

 某マーケットプレイスなどでは稀少本としてかなり高価で流通しているこの本が,思いがけず私の所蔵するところとなった経緯は些か面映ゆいので省略するとして,なにしろそれ以来,幾度となく繰り返しページをめくりその世界を堪能している1冊。
   ドナルド・エヴァンズ(1945-1977)は架空の国の切手を発行し続けて,アムステルダムの友人のアパートメントに滞在中に火事で亡くなった画家。死後遠い東の島国で開かれた個展で彼の作品に出会った詩人は,画家の生涯とその作品を追い続けて,旅をする。アメリカへ。アムステルダムへ。この本には,詩人が「死後の友人」として1985年から1988年にかけて画家に宛てた葉書が日付順に並ぶ。
 
 「もうひとつの世界の切手に残る,ひとちぎりの跡。消印の香り。/ドナルド・エヴァンズ,あなたの場合,その「秩序」は切手というかたちそのものでした。あなたが切手という形式を自分のすべてとしたとき,その秩序は,現実の世界の秩序と似かよいながら別の秩序となったようです。しかもそれは,この世界から別の世界へと連なる秩序なのです。ぼくの詩はといえば,この世界の中にあってこの世界の筋をたがえさせようとするのに,あなたはぼくなどよりもはるかに自由に,別の世界へと連なる美しい筋を見つけ出し,それをさりげなくたがえさせていく。(後略)」(1986年1月17日の日付,p.44より引用)

 そして,旅の最後にランディ島へ渡った詩人は,奇蹟を目にする。そのドラマチックな場面は,「もうひとつの世界」にいる画家の魂と詩人の魂が邂逅する瞬間である。そしてその場に居合わせた読み手=私の魂もまた,書物という「もうひとつの世界」にいる詩人の魂と共振する瞬間なのだ,と勝手に思い込んでいる。

 さてさて,実は今月末から数日間,アムステルダムを訪れる予定です。私も詩人の顰にならい,エヴァンズを,そして平出隆の旅を辿ってみようと思っています。
 

2013-10-12

2013年10月,東京新宿,中村恩恵・首藤康之「シェイクスピア『ソネット』」

  新国立劇場中劇場にでかけて中村恩恵と首藤康之のダンス公演「Shakespeare: THE SONNETS」を見てきました。京王新線から国立劇場に直結する通路でポスターを見る。これは2011年の初演時のポスターと同じ写真を使っています。操上和美の撮影した二人の身体は,もはや神々しいまでに美しい。開演前からすっかりメロメロ状態です。
  公演プログラムの二人の言葉によれば,これは「人間の持つ暗闇に焦点を当て,その苦悩を乗り越えていく過程で,シェイクスピアのいう「真善美」を具現化したいという切実な希求に出会う作品」ということ。「真善美」は原詩105に「『美しく,優しく,真実の』がわが主題のすべて」である,という一節があります。(「ソネット集」高松雄一訳,岩波文庫,p.146)

 プログラムはそれぞれSONNETSの144, 127,  3番の一節を詩人(首藤康之)が語るところから始まる三場で構成されています。二人は一つの場面の中で詩人/ロメオ/美青年(首藤),美青年/ジュリエット/ダークレディ(中村)といったように変身(変容)しながら役を演じるのですが,その切り替えの印象が全編を通して実に鮮烈です。

 第二場,照明が美しいチェス盤を舞台に照らしだし,オセロ(首藤)とデズデモーナ(中村)が盤上で交り合わないダンスを踊る場面はあまりにもかっこいい。観ていて陶然としてきます。オセロとデズデモーナの「美しさと優しさと真実が決して共存しない愛の形」が,首藤康之と中村恩恵の身体/舞踊となってそこにある。それは観客にとっては真実そのものの体験です。

 そして第三場では首藤が詩人/美青年/男,中村が美青年/女を演じます。この場面ではいつしか詩人と美青年は一体化し,しかしそれは男のようでも女のようでもあり,舞台上の二人は両性具有の美を体現しているかのようです。

 約80分の舞台はあっという間でした。ほとんど呆然となって,暫く立ち上がれない。この日の観客席の多くの人が,静かな熱狂でこの祝祭への陶酔を表現していたと思います。
 

2013-10-09

青空古本祭で買った本,「ボマルツォの怪物」(マンディアルグ著,澁澤龍彦訳)など

 先週のこと,10月1~6日に東西線早稲田駅すぐ近くの穴八幡宮境内で開催されていた「早稲田青空古本祭」にでかけてきました。冷たい雨が降ったり,蒸し暑くなったり,奇妙な天候が続いて体力も落ちる日々,それでもテントをゆっくり回って,戦利品(!)一袋を肩にかついで帰って疲労困憊。なんだかなあと毎度思いながらも,袋から1冊取り出すたびに,おおお,と思わず歓喜の声を出しそうになるのです(わりかし単純にできている)。 
 丸三文庫の棚で2002年うらわ美術館の「融点 詩と彫刻による」の図録を発見しました。このすばらしく魅力的な展覧会と図録についてはまた後日。同じ棚で2000年松濤美術館ほかの「禅画展」図録も購入。帰宅してからよく見ると, 同じ人の蔵書印が押してあります。一見脈絡がないように見えるけれど,よく似た嗜好パターンを持つ人が存在して,その人の蔵書の一部を私が引き継いだ,というわけ。
 
 そして平野書店の棚でマンディアルグの「ボマルツォの怪物」(大和書房,1979)初版本を購入。1999年に澁澤龍彦コレクションとして河出文庫から再版された文庫本は持っているのだけれど,古色蒼然としたこの佇まいに惹かれました。なかなか衝撃的なビジュアルの左のカタログは,以前実際にボマルツォ公園に行った友人が買ってきてくれたもの。この組み合わせが書棚に並んでいる人はそうそういないんじゃないだろうか,と鼻高々(自分が行ったわけじゃないけど)。

2013-10-06

2013年10月,横浜みなとみらい,「横山大観展 良き師,良き友」

 横浜美術館で始まった「横山大観展 良き師,良き友」(11月24日まで)を見てきました。横浜美術館の展示室はガラスケースを用いた重厚な雰囲気になっています。天井の照明デザインがとてもかっこいい。ガラスへの映り込みがちょっと気になります。

 しかし,「屈原」(1898)の前に立つと,ぼんやりと映り込む自分の姿など視界から追い出されてしまうよう。「屈原」とは事実無根の誹謗によって追放され,川に身を投げて死んだ中国戦国時代の詩人であり,楚国の政治家でもあった人物。大観はこの詩人に,誹謗の怪文書で東京美術学校校長職を追われた(天心事件),師の岡倉天心の姿を重ねて描いたということ。(厳島神社の所蔵で,展示は10月16日まで。)

 屈原の手には「高潔」を象徴する蘭,そして背後には人を中傷する卑しい輩を象徴する黒い鳥と,小心を象徴する白い鳥が描かれています。この二羽の鳥の眼つきはいやらしく,おぞましい。そして蘭の花は生気を失い,毅然とした表情の詩人も,魂はもはや彼岸に在ることを暗示しているかのように見えます。ガラスに映り込む私の存在は,この絵の中のどの「生」の姿に似ているだろう。
夜間特別鑑賞会に際して特別に撮影許可されました)
  今回の展覧会はタイトル通り,大観の画業を「良き師」岡倉天心の影響と,「良き友」今村紫紅,小杉放菴,小川芋銭,富田渓仙との交流に焦点をあてながら辿る,というもの。なにしろ「大観」は大きすぎてつかみどころがない印象を持っていたので,「一つの見方」を提示してもらえて「わかりやすい」展覧会でした。ガンジスの美しい女性を描いた「流燈」,「東海道五十三次合作絵巻」,漱石が賞賛した「瀟湘八景」,「生々流転」の習作などなどが印象に残ります。

 ところで,先述の「天心事件」は美術界の一事件くらいの認識しかなかったので,調べてみると,おお,そんなスキャンダラスな出来事だったのか!とびっくり仰天。おもしろそうな本がたくさんあるようですが,「大観伝」(近藤啓太郎,講談社文芸文庫,2004)が読みやすそう。注文したものの,書棚は読みたい本であふれかえっているので,順番に(いつになることやら)。
 

2013-10-05

読んだ本/美しい本,「家の緑閃光」(平出隆)

   シュタイデルの映画を見たあと,イメージフォーラムのすぐ近く,宮益坂上の古書店「中村書店」で平出隆の詩集「家の緑閃光」(書肆山田,1987)を見つけて購入。平出氏は2010年以降,自ら「via wwalnuts叢書」という美しい書籍を発行している詩人で,日本一美しい本を作る人の一人です(独断)。この詩集はふわりと写真アルバムのような厚みがある白い表紙の上に緑色の文様だけが浮かんでいる装丁(装丁は菊池信義)。
  「緑閃光」とは平出隆の文章にしばしば登場するイメージです。随筆集「ウィリアム・ブレイクのバット」(幻戯書房,2004)の「緑の光」(pp.46-48)によると,その光は「太陽が水平線にあらわれる瞬間,または消えてしまう瞬間に,その一点から緑の光が発せられるという稀れな現象」のこと。そしてその現象を見てみたいというオブセッションが結実したのがこの「家の緑閃光」という詩集であり,「それは,果てしない水平線のひろがりの上にではなくて,疲れきった生活のひとつの果て,つまりは自分の家の中に緑の光を見つける話である」と言及しています。

 この詩集を読み通すことは,読者もまた人生のどこかで「緑の光」に巡り合うその一瞬を想像する/記憶するという行為にほかならないのだろう。もちろん,詩人がその瞬間を言葉で表す断編は美しく,忘れがたいのだけれど,「疲れきった生活」を詠んだ詩編の幾つかもまた強く印象に残ります。「追悼のピアノ、」と題された一遍を引用します。
 
 「ヴェランダに日曝しの,擦り傷がちの両脚で挟めるくらいの,たったひとつところ黒鍵を狂わされていたあの安つぽい玩具のピアノこそ,ありうべかりし最高に美しい散文を叩き出すのに。」(pp.28-29)
 
 平出隆の詩と「緑閃光」を持ち出しておいて「葉書でドナルド・エヴァンズに」(作品社, 2001)に触れないわけにいかないのだけれど,手際よくまとめることなどおよそできそうにないので,また日をあらためてゆっくりと。