「緑閃光」とは平出隆の文章にしばしば登場するイメージです。随筆集「ウィリアム・ブレイクのバット」(幻戯書房,2004)の「緑の光」(pp.46-48)によると,その光は「太陽が水平線にあらわれる瞬間,または消えてしまう瞬間に,その一点から緑の光が発せられるという稀れな現象」のこと。そしてその現象を見てみたいというオブセッションが結実したのがこの「家の緑閃光」という詩集であり,「それは,果てしない水平線のひろがりの上にではなくて,疲れきった生活のひとつの果て,つまりは自分の家の中に緑の光を見つける話である」と言及しています。
この詩集を読み通すことは,読者もまた人生のどこかで「緑の光」に巡り合うその一瞬を想像する/記憶するという行為にほかならないのだろう。もちろん,詩人がその瞬間を言葉で表す断編は美しく,忘れがたいのだけれど,「疲れきった生活」を詠んだ詩編の幾つかもまた強く印象に残ります。「追悼のピアノ、」と題された一遍を引用します。
「ヴェランダに日曝しの,擦り傷がちの両脚で挟めるくらいの,たったひとつところ黒鍵を狂わされていたあの安つぽい玩具のピアノこそ,ありうべかりし最高に美しい散文を叩き出すのに。」(pp.28-29)
平出隆の詩と「緑閃光」を持ち出しておいて「葉書でドナルド・エヴァンズに」(作品社, 2001)に触れないわけにいかないのだけれど,手際よくまとめることなどおよそできそうにないので,また日をあらためてゆっくりと。
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