J・M・クッツェーの「遅い男」(鴻巣友季子訳,早川書房 2011)を読了。クッツェーは一時マイブームがあって,「マイケル・K」「
夷狄を待ちながら」「恥辱」を読んだことがある。この「遅い男」Slow Manは「恥辱」と同じ系統の,知的職業の中高年男性の失墜と絶望が描かれた小説と思って読み始めると,小説家の企んだ過激な仕掛けに面食らうことになる。
なによりも,エリザベス・コステロという女性の突然の登場に驚く。彼女は「エリザベス・コステロ」(邦訳は2005年出版)の主人公にして,作者自身のオルター・エゴ(分身)に他ならない。
彼女は登場していきなり,主人公のポールの前で本書の冒頭を読み上げたり,創作講義まで始める。訳者あとがきによれば,「それまでそこそこふつうのリアリズム小説と見えていたものはあっさりと様相を一変(表層的にはそうとは見えないが,とんでもない「侵入」が起きる)」するのだ(あとがきp.329より)。ポストモダン文学における「作品への作者の侵入」というわけだが,コステロは作中,何度もポールに向かって「あなたのほうから来たのよ」と嘯く。
読者は,クッツェーの「剛腕」ぶりにねじふせられるかといえばそうではなく,とにかく最初から最後まで面白い,の一言。さまざまな要素がいちいち刺激的で(中でも,ポールが自身のコレクションした写真について「オリジナルとは何か」を滔々と語るくだりは独立した写真論といえそう),「老いや死生観」というわかりやすいテーマだけでなく,身体への暴力と他者の苦痛へのまなざし,移民問題,贈与と交換などなどが盛り込まれたページをただただ夢中で繰っていく体験をした。
同じ早川書房から出ている「エリザベス・コステロ」も急いで入手。クッツェーの創作論でもある。第6章「門前にて」はカフカの「掟の門前」を下敷きにしている。クッツェーの分身である作家コステロは審判の男に向かってこういうのだ。「わたしは作家なんです。(略)わたしの専門は,信じることではなく,ただ書くことにあります。信じることをわが務めとはしません。わたしは模倣するのです。アリストテレス流に言えば」(同著p.169より)。