「わが悲しき娼婦たちの思い出」(G・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳 新潮社)を読む。「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの1冊。このシリーズはカバー装画が私のハートにドンピシャ(昭和っぽい)とくる。かなり前にワタリウムでグループ展を見た作家だが,Silvia Bachli(ワタリウムのHPでは,シルヴィア・ベッヒュリと表記されている)のシンプルなドローイングはまるで水墨画のようだ。日本のマルケス読者の好みに合うに違いない,と新潮社の装丁室が選んだのだろうか。まさに術中にはまったというか,読んだことのある本もこのシリーズで揃えたくなる。
この小説は90歳の主人公が,自分の誕生日に「うら若い処女を狂ったように愛して,自分の誕生祝いにしようと考え」るところから始まる。こんな怪しげな小説があるだろうかと思いながら,あきれるほど元気なこの主人公に振り回されるようにして一気に読み終えた。
物語の設定から想像される秘密めいた淫靡な世界とはまったく異質の,前向きでたくまざるユーモアにあふれた老人小説ではある。なぜガルシア=マルケスは77歳にしてこの小説を書いたのだろう?
と,読み終えて訳者あとがきを読んで愕然とする。1985年に書かれた「コレラの時代の愛」とこの作品に関する詳細な分析がある。私はこの長編は未読だ。そしてこの分析には、「コレラ...」の詳細なあらすじ(結末を含めて)が記述されている!
それはないだろう,と思う。同じ作家の他作品や,他の作家の作品と読み比べるのがラテンアメリカ小説を楽しむ愉悦のはず。「コレラ...」を読む楽しみが半減してしまったなあ,と一つ溜息をついた。それにしても,老人のこんな独白は,まるで自分に向けられているようで,いつまでも脳裏に残る。
「彼女のおかげで,九十年の人生ではじめて自分自身の真の姿と向き合うことになった。私は,事物には本来あるべき位置が決まっており,個々の問題には処理すべきときがあり,ひとつひとつの単語にはそれがぴったりはまる文体があると思い込んでいたが,そうした妄想(オブセッション)が,明晰な頭脳のもたらす褒賞などではなく,逆に自分の支離滅裂な性質を覆い隠すために考え出されたまやかしの体系であることに気がついた」(p.74より引用)
「五十代は,ほとんどの人が自分より年下だと気づいたという意味で,決定的であった。六十代は,自分にはもう誤りを犯すだけの時間が残されていないと考えたせいで,密度の高いものになった。七十代は,これが最後の十年になるかもしれないというので,不安な思いを抱いた」(p,119より引用」
2 件のコメント:
はじめまして。新潮社のこのガルシア=マルケスの装丁、とっても素敵ですよね。どんなアーティストなのだろうと検索していたらこちらへ辿り着きました。不勉強で存じ上げなかったのですが、ワタリウムで展覧会もされていたのですね。画集を探してみようと思います。
こんにちは、コメントの表示が変更になっているのに気付かず、今頃の返信になってしまいました。(2年近くたってるという。。穴があったら入りたいです。)本当にこの装丁素敵ですね。またどこかで展覧会があると嬉しいですね。
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