アントニオ・タブッキ「夢のなかの夢」(和田忠彦訳 岩波文庫)を読む。訳者あとがきによれば,この二十の連作短編断章はタブッキが愛娘から贈られた手帖に綴ったものだという。本書の扉には作家のこんな言葉が静かにたたずんでいる。「わが娘テレーザに きみが贈ってくれた手帖からこの書物は生まれた」。このエピソードにまず,ぐっときてしまう。
タブッキは他人の夢を3人称で語る。しかもひとりの芸術家のある特定の夜を選んで,その精神世界を物語にするという行為。タブッキの批評家としての深い仕事の一つなのだろう。
カラヴァッジョ,ゴヤ,ランボー,そしてペソア。テレーザの手帖に描かれた,タブッキが夢見た彼らの夢,という幾重にも層を成す物語をなぞっていく。何といってもおもしろかったのがフェルナンド・ペソアの夢。
タブッキは彼を「詩人にして変装の人」と呼ぶ。南アフリカにカエイロを訪ねていくペソア。「カエイロはため息をもらし,それから微笑んだ。長い話になるが,とかれは切り出した。(略)きみなら理解してくれるだろう。これだけは知っておいてほしい,わたしはきみだということを。/わかりやすく話してください,とペソアは言った。/わたしはきみの心の一番奥深い部分なのだ,とカエイロが言った。きみの闇の部分なのだよ。」(p.103より引用)
カエイロはペソアが造り出した多重人格者のなかで大きな比重を占める人物で,訳者あとがきによると,カエイロがペソアのなかに誕生した日が1914年3月8日。そしてこの夢の物語の書き出しはこんな一行だ。「1914年3月7日の夜のこと,詩人にして変装の人,フェルナンド・ペソアは目覚めの夢を見た」(p.101)。
タブッキが描いたペソアの「その日の夢」に誘われ,読者である私は,自分が今どこにいて何を見て何を読んでいるのか,もはや判然としない感覚に陥る。
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