川村美術館も,なかなか足を運べずにいた美術館の一つ。沿革を見ると,開館は1990年,延床面積が1.5倍になったリニューアル開館が2008年とのこと。そのたびに,「川村美術館に行った?」といろんな人と言葉を交わした気がするけれど,結局今ごろになって初めて訪れた次第。
8月最終の週末までサイ・トゥオンブリーCy Twomblyの写真展が開催されていて,これもいろんな人と「もう行った?」という言葉を交わしました。「サイ・トゥオンブリーの写真」というのはとても新鮮な響き。今までまとめて発表されることがなかったそう。この作家の名前は, ART TRACEから2003年に出版された「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」(林道郎著)で初めて知りました。先鋭の美術評論家が講義とディスカッションという形で行うレクチャーの最初に取り上げた作家,という知識がまず刷り込まれ,作品そのものにはほとんど触れた記憶がありません。2015年の原美術館の展示にも行けなかったし。
なので,彼のドローイングやコラージュ作品,そして彫刻などと今回の展覧会の写真をどのように関連付けて見ればよいのかがよくわからないまま,展示室に足を踏み入れてしまいました。副タイトルになっている「変奏のリリシズム」Lyrical Variationsの意味も最後まで理解できないまま。
「何が写っているのかよくわからない」画像が多い写真そのものはどれも魅力的で,それら1枚1枚は確かにlyricalだし,イメージが連なるシークエンスは見事です(「彫刻の細部」から「キャベツ」への流れなど)。では,こうした写真作品相互の関係をもってvariationsと言っているのだろうか。そうではないはず。
作家はこれらの写真を,あたかも作家が創作メモを取るように,詩人が浮かんだ言葉を紙片に書きつけるように,ポラロイドを撮り続けたのではないだろうか。つまりは作者の「イメージのメモ」みたいなものとしての写真。
堀江敏幸は「仰向けの言葉」(平凡社,2008)所収の「深海魚の瞳 -サイ・トゥオンブリー」の中で,「彫刻の細部」と「キャベツ」について次のように書いています。
「表面の肌理に観応しつつ,その向こうにある厚みと奥行きをぼやけた光で照らし出す一連の写真では,しばしばとまどいに喜びがまさる。1990年に撮影された「彫刻の細部」の,幾層かの薄い黄色の光も同様だ。なにが写っているのか不明のままであったとしても,色彩と光が輪郭をぼかし,色のグラデーションが世界の皮膚になって,世の中のすべては真実の擬態にすぎないことをそれらは明確に示してくれる。/とりわけ,内側でこっそり息をし,じつは血液が激しく体内をめぐっている生きものの擬態であるかのような「キャベツ」。緑の塊のなかに嵌め込まれた黒の絶妙な配分は,闇に溶け込むための完璧な擬態だ。」(中略)「畑で獲れたゴーレムとくずれたふたつの紡錘にトゥオンブリーの絵画作品すべてが吸着されていくさまには,驚くほかない。」(pp.74-75より)
やはり,サイ・トゥオンブリーの写真は,作家の仕事の全体を俯瞰し,把握した上で見るべきなのかもしれません。もちろん,写真展として存分に楽しめましたが,作家から大きな宿題を与えられたような気もしています。