2016-08-15

読み返した本,「安南・愛の王国」(クリストフ・バタイユ 辻邦生訳)

  クリストフ・バタイユという美しい響きの名前を持つ作家を知ったのは,訳者が辻邦生だから,というのが唯一のきっかけだった。シンプルな装幀の「安南」(集英社, 1995)は,扉頁にヴェトナム周辺の地図を配した120余頁の書。
  18世紀末にフランスからヴェトナムに派遣されてやがて故国から忘れ去られていった宣教師たちの物語であり,訳者解説の言葉を借りれば,「神の喪失と愛の発顕の物語」(後述)である。

 話題になった出版時に購入して読んだのだから,初読は20年も前のことになる。あっという間に読み終えて,あっという間に忘却の彼方だった。ベトナム旅行と,そして最近,辻邦生に回帰(というのも変な言い方だけど)していることもあり,再読してみた。

 この小説の文章は一つ一つが簡潔でとても短い。そのためだろう,何か禁欲的な印象を受けて,読後は緊張から解放されるような気分を味わう。「農民たちは,福音の教えに耳を傾けていたが,同時に,古くから伝わる彼らの神々を信じ続けていた。ヴェトナムはすべてを昔ながらに保っている。すべてがそこで永遠と混ざり合う。人間はだたそこを通り過ぎていくだけだ。」(p.85より)

 ところでこの物語は,冒頭部分から,ベトナム史に一見忠実なようで微妙に史実とは異なるのだが,この辺は,訳者解説に詳しい。「〈新しい世界〉を実在させるには,言葉がそれ自体で立ち,言葉の光を周囲に放射させることによって,その光が〈世界〉となるように努めなければならない。つまり言葉は対象世界に依存しつつ,それを描写するのではなく,言葉そのものが自立して〈世界〉となる。(略)こうした意味で『安南』はベトナム史にかかわる歴史的事実によって支えられた歴史小説でありながら,実は,歴史をいかに詳細に見ても発見することのできない,神の喪失と愛の発顕の物語へと変容している。」(p.132より)

0 件のコメント: