20の章立てのうち,私が行ったことがあるのは国内の上田と上野と中軽井沢だけ。イポー,ニャウンシュエ,長春,トラステヴェレ,ペスカーラなど,洋の東西を問わずその響きだけでも旅心が掻き立てられる。
今一番行ってみたい奄美の名瀬の章も食い入るように読む。名瀬の古書店で見かけた男がもしかしたら吉増剛造だったのかもしれない,という記述には思わずぐらりとする。私はその時,古書の匂いに充ちた書棚の陰で吉増剛造らしき男を見かけた松浦寿輝をじっと見つめている。
記憶と忘却。一人であっても道連れがあっても,身軽になることで「さびしさ」に向き合うのが旅なのだ。「さびしい町というのは結局,どうということもないふつうの町のことらしいと改めて思い当たる。逆に言うなら,ふつうの町はどれもこれも多かれ少なかれさびしいもので,それはこのうつし世での生それじたいが本質的にさびしいからだろう。」(p.44「名瀬」より)
台南の章では,「ここなら幸福な余生をおくれそうだと感じる町」を探しにまた台湾へ行きたい,と書いて吉田健一のエッセイ「余生の文学」が引かれる。読者である私が受け取る悦びはまさに二重の悦びである。
「吉田健一にとって余生とは,何かが終わった後の時間である以上に,むしろ何かが始まる時間のことだった。『余生があってそこに文学の境地が開け,人間にいつから文学の仕事が出来るかはその余生がいつから始るかに掛っている』(余生の文学)。「文学の境地」がわたしの前に開けるのはこれからだと信じたい」(p.152「台南」より)
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