2025-04-25

2025年3月・4月,東京丸の内・東京成増,「歌舞伎を描く」・「エド・イン・ブラック」

 記録に残してなかった展覧会を2つ(どちらも会期終了してます)。静嘉堂@丸の内には初めて出かけました。岡本の静嘉堂に結構思い入れがあったので,丸の内に移転というのはちょっともやもやしていたもので。明治生命館のビルの中の展示スペースは素晴らしい雰囲気ですが,何だか動線が不思議。ロッカーに荷物を入れたあと,洗面所に行こうとしたら一度退場する必要あり。

 肝心の展覧会は「豊原国周生誕190年 歌舞伎を描く」展。今年も大河ドラマを楽しみに見てるので,解説は版元を確認しながら。蔦屋重三郎だけでなく,鱗形屋や西村屋とか思わずテンションが上がります。ちょうど観能したばかりの「景清」の團十郎絵も発見。「景清」は歌舞伎では歌舞伎十八番のうちの一つで,これは五世市川団十郎を三代歌川豊国が描いたもの(1860)。

  ああ,江戸は面白いなあというわけで,ちょうどお花見の頃にこれも初めての板橋区立美術館へ。評判の「エド・イン・ブラック」は会期終了間近で会場はたくさんの観客。江戸絵画の「黒」を堪能する内容がとても面白かった! 

 「夜」を描いたもの,黒を基調とする浮世絵版画,中国版画の影響を受けて絵や文字が白抜きの黒い背景の絵画などなど。どれも魅力的な作品ばかりでしたが,伊藤若冲の「玄圃瑤華」の黒と白が作る景色には釘付けに。金屏風を暗闇の展示室で見せる趣向も面白く,これは「陰翳礼賛」を体感させる狙いなのだそう。

 美術館の外には満開の桜が咲き誇り,まさに春爛漫。


2025年3月・4月 「景清」・「組踊と宗廟祭礼楽」

 体調がだいぶ恢復して,ちょくちょく出歩いています。ついつい記録は後回しになってしまってますが,忘れないようにちゃんと残しておこう。舞台関係は3月に国立能楽堂の定例公演で狂言「名取川」と能「景清」を拝見。久しぶりに萬斎さんの狂言を見たかったのです。やっぱり凄い迫力。息子の裕基くんが,「くん」なんて失礼と思えるほど立派な舞台を務めていて,感激しきり。こうやって受け継がれていくことの尊さに何だか涙が出そうでした。「景清」も親子の情に思わずホロリ。シテは本田光洋師,ワキは福王和幸師。

 4月は閉場している国立劇場の特別企画公演を文京シビックホールに見に行きました。演目は「組踊と宗廟祭礼楽」。「日韓宮中芸能の共演」という副タイトルの公演です。琉球舞踊と組踊をちゃんと見るのは初めて。「万歳敵討」は兄弟が親の仇を討つという,曽我兄弟ものに似たストーリーが興味深い。

 そして楽しみにしていた「宗廟祭礼楽」。詳しい事前講座も受講したので演奏曲の順序や内容は大体理解できましたが,何よりも2015年に宗廟を訪れたときに,いつか是非,大祭で舞踊や儀式を見てみたいと思ったのがこうして日本で見ることができたのが嬉しくてソワソワすることしきり。2016年のリウム美術館訪問時の映像も思い出します。演目は「保太平」11曲,「定大業」11曲など。詳しいプログラムも配布されてとにかく楽しかった! やっぱり,いつか是非現地で見てみたいと決心。4月から取り組んでいる(二度目なんですが)韓国語学習,頑張ります!

2025-04-16

これから読む本,「世界終末戦争」(マリオ・バルガス=リョサ)



 マリオ・バルガス=リョサの訃報を知る。書棚のリョサの未読の本たち。と思ったが「子犬たち/ボスたち」は既読だった。記録に残しておいてよかった。「世界終末戦争」(旦敬介訳 新潮社,2010)を読むことにしよう。とはいえ,カサーレスに苦戦中なので,手をつけるのは少し先になりそう。

 既読の中では「悪い娘の悪戯」がダントツで面白かった。ロンドン旅行では主人公が滞在したHotel Russelも見たのだった。2011年6月のリョサの来日時には,東京大学での講演を聴講することもできて,同時代の偉人という雰囲気の堂々たる体躯の作家の姿が今も目に焼き付いている。文学の力を強い言葉で語っていたのを思い出す。
 
 他にも「誰がパロミノ・モレーロを殺したか」も強い印象の1冊。2014年に既読。記録を振り返って,ちょうど読了のころにガルシア=マルケスが亡くなっていたことを思い出す。あまりにも遠く偉大な人たちだが,もう自分の存在するこの世界にはいないのだと思うとひどく辛く切ない。私はどんどん残されていく。

2025-04-10

2025年4月,東京用賀,「緑の惑星」・「1980年代のイギリス美術」

 桜満開の砧公園へ。世田谷美術館で「緑の惑星 セタビの森の植物たち」展と「1980年代のイギリス美術 展覧会の記憶とともに」展を見ました。どちらもいかにもセタビというコレクション展で,私的な意味でとにかく懐かしい。

 「緑の惑星」展は趣向を凝らした展示が楽しくて,おお,カミーユ・ボンボワ!とかアンドレ・ボーシャン!とかちょっと興奮しながら歩を進めます。そして久しぶりの荒木経惟「花曲」には言葉を失う。こんなにも美しく妖しくグロテスクな花の写真が目の前にある,という悦び。アラーキーの花の写真はもう十分見たと思ってたけれど,やはりこの大きさでオリジナルプリントを見ると震えます。

 窓の外には満開の桜。2階展示室ではこれまた懐かしい「1980年代のイギリス美術」展(4月6日で終了)。大学時代の恩師が,イギリス美術を見によく世田谷美術館に足を運んだ,と仰っていて,まさにその年代と時間がピタリと符合します。そんな記憶もあって,デイヴィッド・ナッシュとかベン・ニコルソンとか,作家名を見るだけでも鼻の奥がツンとする感じ。丁寧な作家解説と出品リストがうれしい。

2025-04-02

2025年4月,9年ぶりのシンビジウムの開花

 購入したとき,ラベルがなくて「蘭原種」という値札だけがついていたもの。2016年に開花株を入手して,花後に鉢を大きくしたり,数年後に株分けをしてみたりしたものの一向に花芽がつかず,ほとんど観葉植物状態だったのが,突然!開花したのです。嬉しいのはもちろんのこと,ちょっとびっくり状態。シンビジウムの一種だとは思います。

 2016年とはっきり覚えているのは,購入したのが大河ドラマ「真田丸」のトークショーで訪れた上田の駅前の生花店だったからなのです。入場の可否は現地に行ってからの抽選という,昨今のNHKイベントに比べるとアバウトな感じで大泉洋のトークを楽しんだのでした。それ以来,不思議な魅力に惹かれて何度か訪れた上田の記憶にまた一つ,不思議な出来事が書き加えられた,という感じ。 

読んだ本,「富士山」(平野啓一郎)

 久しぶりに平野啓一郎を読む。短編集「富士山」(新潮社 2024)を読了。ここのところ,ラテンアメリカ文学全集をせっせと(?)読んでいたので,あまりに現実的な小説世界がものすごく新鮮に思える。「マッチング・アプリ」や今風の「かき氷」が,小説家の言葉を通して眼前に立ち上がるのに戸惑いさえ覚えてしまうのは,なぜだろう。読書浦島状態? 青年が犬に変身したり,大統領が横暴なふるまいをする世界に脳というよりは身体が馴染んでしまっていたということだろうか。そんな自分の日々こそ小説になりそうだ。

 そんなことはともかく,「富士山」「息吹」「鏡と自画像」「手先が器用」「ストレス・リレー」の5編をどれも至極面白く読んだ。なかでも「息吹」は衝撃的でさえある。平野啓一郎の分人主義が進化すると登場人物はこういう風に描かれるのか,というのが最初に抱いた印象。自らの身体のうちに備えられた複数の人格が,複数の世界に分散している? SFは世読まないので,パラレルワールドの論理が破綻していないのか気になるけれど,小説のラストは私には不可解だった。思わず作家本人の解説を探して,解釈は読者に委ねる,みたいなコメントにそりゃそうだろう,と思いつつやや呆然としてしまった。

 「鏡と自画像」は重いテーマの中でドガの自画像をめぐる考察に惹きこまれた。「僕はまた,ドガの自画像を見た。画家はだれのために,自画像を描いているのだろう? それを見る人間は『誰でもいい』のだろうか?/他人と現実の世界で接する時,僕は彼らの自画像と向き合っているのだと考えた。僕も,鏡に映った自分の姿を,他人の前で再現しようとしている。僕は,鏡に映る僕は,僕が微笑むから微笑み,顔を顰めるから顰めるのだと,当たり前に信じていた。しかし,本当は逆なのだろうか? 鏡の中の僕が微笑むから,他人である僕も微笑むのだろうか? それは同時なのだろうか?...(略)」(p.138)

  「ストレス・リレー」はここまでの読書の心苦しさを痛快に吹き飛ばす面白さ。ちょっと救われた気もしないではない。