2025-10-27

2025年10月,展覧会・観劇・読書など

 10月の忘備録。歌舞伎座では通し狂言義経千本桜のBプロ第三部を3階席1列目で見ました。やっぱり気持ちのいい席だな。お目あては右近の狐忠信。「川連法眼館」は今までに見た中で一番の興奮です。狐も素晴らしかったし,本物の忠信も,隼人と巳之助の駿河・亀井に囲まれたスリーショットが決まった時は,見てるこちらが爽快感に包まれました。

 展覧会は五島美術館で19日まで開催されていた秋の優品展「武士の雅遊」展を。「サムライ」をキーワードにとにかく「名品」がこれでもかと並びます。「紫式部日記」の特別展示もあるし,特集展示は蔦谷重三郎だし。頭の中は「真田丸」,「鎌倉殿」,「光る君へ」,「べらぼう」と大河ドラマの名場面がフラッシュバック! 楽しい時間でした。

 展覧会はもう一つ,國學院大學博物館で「中世日本の神々」展を。謎と魅力に満ちた中世日本の神々の様子が生き生きと展示されていて,まだ会期は長いので再訪の予定。「春日社鹿曼荼羅」は理屈を超えて大好きな図像。

 10月は武蔵野大学能楽資料センター主催の公開講座にも参加。「生誕100年記念 三島由紀夫と能楽・歌舞伎」の「『熊野』を巡って 三島と六世歌右衛門」を聴講しました。『熊野』は三島歌舞伎と近代能楽集の両方で扱う唯一の演目なので,興味深く拝聴しました。講師は織田紘二氏。学びが多かったので,またいずれ稿を改めて。

 読書は何冊かノンフィクションを。「香薬師像の右手 失われたみほとけの行方」(貴田正子 講談社 2016)、「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹 中央公論新社 2020)。いずれもNHKの番組を見て読んでみました(どれだけテレビ漬けの生活。。)。どちらも映像は面白かったけど,活字を追うのはちょっと時間がかかりました。反動でとびきり面白い小説が読みたくなっている今日この頃。 

2025-10-24

2025年10月,埼玉北浦和,Nerhol展

  10月に入っていろいろ活動中です。記録を残してなかったいくつかを忘備録として。久しぶりの埼玉県立近代美術館で13日まで開催されていたNerhol(ネルホル)の「種蒔きと烏 Misreading Righteousness」展を見ました。昨年,千葉市美術館の個展が話題になっていたときに初めてその名を知って興味を持ったアーティスト。作品を見てみたいというのと,謎かけのような展覧会のタイトルが気になったのでした。

 会場の最後にタイトルそのものの作品が展示されています。10,000枚の白と黒の手漉き和紙のポストカードが床に積み上げられていて,鑑賞者はそれを1枚,持ち帰ることができます。そしてその謎解きは作品リストの解説を読めばわかる仕組み。カードにはポピーの種が一粒漉き込まれているとのこと。

 このタイトルについて展覧会チラシには「蒔かれた種がその場で育つことと,掘り返されて運ばれてどこか別の地で芽吹くこと」という「両義的な世界のあり様をその複雑さのまま掬い上げようとする制作の営為」とあります。

 なるほど,そう言われるとわかりやすい。なにしろ彼らの作品も言葉も,鑑賞者の挑戦を受けて立とう,みたいな壁を感じてしまう強度があります。作品リストの最後の彼らの言葉をしめくくるのはこんな一節。「烏も種を食べた後,お腹の中の種のことは考えない。見えないことは考えない事と同じように。」

 私は黒のポストカードを1枚もらって,庭先のプランターにそのまま埋めることにしました。誰かに送った方がよかったかな。「誤読」の主体は一体誰なんだ?

2025-10-09

読んだ本,「文学は何の役に立つのか?」(平野啓一郎)

 平野啓一郎の新刊「文学は何の役に立つのか?」(岩波書店 2025)読了。この一冊が丸ごと文学の意義を思索する書だと思って心して手にとったのだが,冒頭の一篇「文学は何の役に立つのか」という講演録の後はさまざまなエッセイや書評,講演などで構成されている。大きな三つの章立てはⅠ.文学の現代性,Ⅱ.過去との対話,Ⅲ.文学と美。

 どの一つ一つも深い思索の沃野を堪能できる。タイトル通りの深い命題を著者の導きで学ぶというより,平野啓一郎の思考の断片を辿って楽しく読み通した,というのが正直な読後感だ。

 とりわけ今年はあちこちで三島由紀夫について考える場面が多いので,「文学は何の役に立つのか」の中で「共感できない作者について考える」として三島について語っている部分はとても興味深く読んだ。「ああいう小説,ああいう登場人物を書いた小説家が,なんでああいう最期に至ったのか,それが無くて最初から拒絶反応だと,俺とは考え方が違う,というだけになってしまうんですが,むしろ文学というのは作品を通じて,共感できない作者のことを考える,という一つの手立てにもなっている。」(p.31)この後に「金閣寺」の「認識か,行動か」という二者択一が「何か変」と続けるくだりにはなるほどと深く共感する。

 「Ⅲ.文学と美」は著者の「カッコいい」という審美的判断基準に関する言説がとても面白く,とりわけ森山大道の写真という「カッコいい」の最上級のようなアートについて論じる「二度目の『さようなら』はなかった」から。「何故,何が,『カッコいい』と感じられているのか? それは全体的に黒くて,何となくニヒリスティックな雰囲気だから,というだけではないはずである。/なるほど,すべての被写体を『等価』に眺める森山氏の写真に,ある種のニヒリズムを認めるのは,必ずしも見当違いではないだろう。被写体は,色彩を剥奪されて,光と影だけの姿に裸にされている。(略)しかし,その作品を魅力的にしているのは,やはり森山氏自身の意図に反して,そこはかとなく漂う情緒であろうと思う。それは甘く融け入っている情緒というより,自責的な矛盾として,何かが引っかかっているという風な現れ方の情緒である。」(p.269-270)

 

2025-10-07

2025年9月,京都(4),「朝鮮の文字図とかわいい絵」展

 京都3日目,久しぶりの高麗美術館へ。市バス9番は堀川通をひたすら北上します。バス停「賀茂川中学前」で下車してびっくり。美術館の隣の敷地に忽然とコンビニが現れた! 確か竹林だったような。景色ってこんなに変わるものなんだ,としばし呆然となりましたが気を取り直して秋季展の「朝鮮の文字図とかわいい絵」展を観賞。

 朝鮮の文字図はこれまで「民画」というくくりの中で見ていました。改めて「文字図」というくくりで,その道徳的意味から,庶民への普及と装飾性の重視による生活美として定着していく流れがよくわかり,今も古びないその魅力を再認識したのでした。

 「かわいい絵」の代表は何といってもこの「虎鵲図」かな。いつ来ても何回来ても,美しい朝鮮に感動して,韓国に行きたくなってしまう美術館。短い京都への旅はこれでおしまい。


2025年9月,京都(3),京都南座,「流白浪燦星」

 京都で歌舞伎を見るのは2回目。南座は改築前の歌舞伎座みたいで,何だか懐かしいと感じてしまいます。演目は「流白浪燦星」、ルパン三世と読むのです! 片岡愛之助のルパン,尾上右近の石川五右衛門。弾ける舞台は傑作としか言いようがない盛り上がりです。全体的に「白波五人男」風の伝統的な歌舞伎の世界観だったかな。楽しい夜を過ごしました。 

2025年9月,京都(2),「宋元仏画」展

 今にも雨が降り出しそうな朝。荷物に小さな傘を入れておけばよかったな,と後悔しつつコンビニで小さく軽い傘を買う。その小ささと軽さが嬉しくて,これで雨が降っても大丈夫と一安心する。宿泊先からバスを乗り継いで東山七条の京都国立博物館へ。

 今年の春から楽しみにしていた「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち」展を見る。開幕してまだ日が浅い時期だったので,朝一の会場は人もまばらで静かに名画に向き合える,と思いきや。観光バス2台分くらい?の団体さんがどっと会場に。ちょっと(かなり)がっかり。

 係の人が「お静かに」とか「撮影禁止」とか書かれた札を差し出して何となくは落ち着くけど,気が散ってしまってじっくり鑑賞する環境ではなかったかも。途中で,会場が落ち着くまで図録を読みながら椅子に座って過ごすことにした。

 こちらも気を落ち着けて会場を見渡すと,鎌倉時代や室町時代に「海を越えて」やってきた仏画の数々を国の宝や重要文化財として敬い,今なおこんなにも大切に美しく保存していることがとても誇らしく思えてくる。

 展覧会の内容の素晴らしさや充実ぶりは日曜美術館でも紹介されたし,あちこちで大評判なので私ごときが改めてここに記すことではないかな。「孔雀明王像」の美しさ。「老子図」(牧谿)の荘厳さ。

 それから第一章の「宋元文化と日本」の展示もとても面白かった。大好きな屈輪文の器物がたくさん。そういえば,と思って帰宅後に2014年三井記念美術館の「東山御物の美 足利将軍家の至宝」の図録を再見。おお,徽宗皇帝や牧谿がこんなに出品されてたんだ。すでに忘却の彼方だったけど,すごい展覧会だったんだ。

 宋元仏画展は前期と後期ではかなり入れ替えがあるので,後期も見に行きたいなあ。正倉院展や大阪市立美術館の根来展も気になるし。

2025-10-04

2025年9月,京都(1),「どこ見る?どう見る?西洋絵画」・「民藝誕生100年」展

  9月末,2泊3日で京都へ行ってきました。展覧会と南座の歌舞伎見物が目的です。まずは初日はゆっくり移動して京都市京セラ美術館に。「どこ見る? どう見る? 西洋絵画」展は春に上野西洋美術館で開催されていたときに見逃して後悔していたのでした。やはりコターンの「マルメロ,キャベツ,メロンとキュウリのある静物」は見ておきたかった。

 モチーフが面白いのか,構図が面白いのか,陰翳が面白いのか,そのすべてなのか,とにかく面白い。数多のアーティストにインスピレーションを与えたのだろうな,とサイ・トゥオンブリーのキャベツの写真を思い出しながら何度も前を行ったり来たり。

 ファン・サンテス・コターンはもう1点,同じ部屋に「聖セバスティアヌス」が出品されていて,サイズが小さいので思わず欲しく(?)なる。自室の壁にかけて毎日眺めることができたらいいなあ,などと思って見ていたら,傍らの若いカップルの女性がこんなことを言う。 
 「金閣寺の人だよね?」…あ,そうか。篠山紀信が撮った三島由紀夫の写真のことだ。三段跳びみたいな発想だな,と思いつつ,彼氏さんがどんな返しをするのか興味シンシンで聴き耳を立てたけど,何のことかわからない様子だった。思わず彼女さんに話しかけたくなってしまったけど,そんな怪しいオバアサンにだけはならないでおこう。この旅で一番の衝撃的出来事ではありました。

 京セラ美術館ではもう一つ,「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展も。民藝の展覧会はいつどこで見ても,何かしら新鮮な悦びがある。黒田辰秋の螺鈿の函や鍵善良房のくずきり容器。