2012-09-29

2012年9月,東京外苑前,「歴史の天使」展

 ワタリウム美術館でアイ・ラブ・アート12 写真展「歴史の天使」展を見てきました。2011年に亡くなった美術評論家の多木浩二氏が1996年に監修した同じ名前の展覧会に寄せた文章をもとにして,2012年版として再構成された展覧会です。12人(組)の作家の作品が多木浩二の7つの断章に導かれて展示されています。ダイアン・アーバス,アウグスト・ザンダー,ロバート・メイプルソープ,ロバート・フランク,鈴木理策など。


 新鮮だったのは,ルネ・マグリットとアレン・ギンズバーグの写真。小さな画面に不思議な光景をおさめたマグリットの写真は,この作家には写真作品もあるんだという驚き以上に,その画面の強度にひきつけられます。中でも「報われた美徳」という謎めいたタイトルの1枚は,その「言葉」の「意味」も知りたくなります。
 
 アレン・ギンズバーグのコーナーでは1988年に開催された本人によるポエトリー・リディングのビデオが流れています。観世栄夫の能管とのコラボで,今見てもなんともかっこいい。同世代の詩人との日常の場面をとらえた写真にはすっきりとした文章が添えられていて,その筆跡もまた作品の一部になっていてとても魅力的です。
 
 ワタリウムの展覧会はパスポート制なので,またゆっくり映像も含めて見に行きたい。それまでに読み返したい本。多木浩二の「写真の誘惑」(岩波書店)はメープルソープの写真と死を論じた本。「ヌード写真」(岩波新書)はもはや古典と言われています(中身は忘却の彼方)。
 

2012-09-27

読んだ本,「他者の苦しみへの責任」(A.クラインマン他)

 「他者の苦しみへの責任 ソーシャル・サファリングを知る」(A.クラインマン他著;坂川雅子訳 みすず書房)を読みました。これはSocial Suffering; edited by Arthur Kleinman, Veena Das, Margaret Lock(University of California Press, 1997)の抄訳で,原著に収録されている15編の論文のうち6編が訳出されています。

 訳者あとがきによれば,sufferingは「苦しむ人間と,その苦しみを与える原因の存在を暗示する言葉」であり,social sufferingとは「社会に起因する苦しみ」ということだとあります。

 最初のA.クラインマン,J.クラインマンの論文「苦しむ人々・衝撃的な映像 現代における苦しみの文化的流用」は眼を覚まされる思いで読みました。

 その論文で扱っている,スーダン南部で飢えのためにうずくまる小さな女児とそのそばで彼女を狙うハゲタカをとらえたケヴィン・カーターの写真は,1994年にピューリツァー賞を受賞したときに新聞などで見ていたし,その後,撮影したケヴィン・カーター自らが命を絶ったこともショッキングな事件として知ってはいました。しかし,はるか遠くで起きたこのできごとは私にはまったく無関係のできごとでした。


 「この写真を1枚の報道写真として見,一般的な解釈をするとき,われわれは,この国の内戦の被害者である無力な子どもと,それを写真に撮った外国人カメラマンとのあいだに,大きな溝があることを感じる。しかし,そのカメラマンが自殺したことによって,主体と客体を二分していた壁は崩れおち,事態は複雑なものになる。(略)われわれは人間に課せられた冷厳な限界-一見,意味も救いもない沈黙-を突きつけられるのである。そして世界は,あいかわらず映像を求めつづける。」(本書p9より引用)

 そして,この本には池澤夏樹が解説を書いています。彼は,世に流布している多くの苦しみの映像についてこのように言います。「自分はこの人たちに同情する善良で誠実な人間であるという意識を人々は楽しんでいないだろうか?しかし実際には何もしない。しかもこの種の写真を見ることには『このアフリカの社会よりはわれわれの方がましだ』(本書p11)という自己満足がつきまとう。」(本書p258より引用)

 では,いったい自分に何ができるのか,何をすればよいのか。言葉にならない無力感に襲われますが,本書のタイトルが示唆してくれること,すなわち「ソーシャル・サファリングを知ること」,そして遠い地の他者の苦しみに対して「責任」を感じて日々を送ることが大切なのではないだろうか。
 
 「イラクの小さな橋を渡って」(池澤夏樹(文),本橋成一(写真) 光文社 2003)も,遠い中東で起こった/起こっている出来事に無関心でいてはいけないと心に訴えかけてくる本です。
 

2012-09-23

2010年5月,パリ追想,回転木馬

 パリ, サーカスと連想して2010年の旅行をまた思い出しました。ロンドンからユーロスターに乗って日帰りでパリに行き,ルーブル美術館でSainte Russie展を見てきました。

 ルーブルをあとにしてパリ市立歴史図書館ギャラリーのRimbau Mania展に向かう途中,地下鉄の駅を出たところに回転木馬があって,これぞパリ!と感激したのですが,よく見るとぐるぐる回っているのは馬ではなくて,バイクとか飛行機とか。
(LUMIX DMC-F32で撮影)


 あれえ,と思いながらも,突然出現した回転木馬がシックな街並みに奇妙にマッチしてやはりパリならではの風景なのでした。

 この週末は無茶な予定を立てて頭を悩ませたり,過去の思い出に浸ったり。動く歩道の上でつんのめったり,後ろに向かってあたふた走ったりした気分です。
 

2012年秋,見たい展覧会,ルオー,アンソール,デルヴォー

 空気が入れ替わって急に秋めいてきた週末,警報が出るほどの大雨になって外出も憂鬱です。あちこちの美術館でもらってきたこの秋の展覧会のチラシを整理しながら,ぜひ出かけたい展覧会をいくつかピックアップしてみました。

 まず,ワタリウムの写真展「歴史の天使」展は近いうちに。ここのところアフリカづいているので神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「ビーズインアフリカ」展にもできれば行きたい。埼玉県立近代美術館の「日本の70年代 1968-1982」展(9/15~11/11)も面白そうです。

 それから,パナソニック汐留ミュージアムで10/6(土)~12/16(日)開催の「ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス」展。ルオーはキリストのイメージが強いのだけれど,道化師やピエロを描いたものも多く,全作品の3分の1がサーカスをテーマにしたものだそう。ルオーが実際に見た当時のパリのサーカスのポスターや絵葉書も展示されるそうなので,それも楽しみ。

http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/12/121006/

 
 府中市美術館の「夢に,デルヴォー」(9/12~11/11)と損保ジャパン東郷青児美術館の「ジェームズ・アンソール 写実と幻想の系譜」展(9/8~11/11)も,作家の全体像を知ることができそうで,ぜひ見に行きたい。

 とここまで書いて,これだけ本当に行けるのかと我ながら疑心暗鬼。本を積ん読するがごとく,いつか行きたいなあと思ってるだけでは会期は過ぎ去ってしまいます。この秋は気合を入れて(?)楽しむことにしよう。


2012-09-22

古いもの,フェルメールで買ったもの,木製写真立て

 数年前に金沢のアンティーク・フェルメールで買った古い写真立てです。手にとってよく見るとほこりが目立っていたので,亜麻仁油で磨いてみることにしました。

 まずはそっと水拭き,乾拭きをして完全に乾くのを待ち,それから亜麻仁油を小さな入れ物に少しとり,フェルメールの店主がしていたように麺棒の先を浸します。縁の細かい装飾部分も丁寧に磨いてきれいになりました。


 この写真立てにぴったりのイメージがどうにも思いつかず,ガラス板の下には黒い布を入れています。光がよい具合で反射してぼんやりした鏡のようです。

 いつごろのものか,どこのものか,ちゃんと聞いたはずなのにすっかり忘れてしまいました。やはり,「きれい」とか「好き」だけではなくきちんと情報を整理しておきたいもの。

 引用の引用ですが,ウラジミール・ナボコフが1959年のSports Illustlated誌にこんなコメントを寄せているそうです。 I cannot separate the aesthetic pleasure of seeing a butterfly and the scientific pleasure of knowing what it is.「私は,蝶を見ることの審美的な喜びと,それがどういう種かを知ることの科学的な喜びとを区別できない。」

 これから「美しい」と思うものを眼にしたときにはこの言葉を思い出すことにしよう,と静かな艶をたたえるようになった写真立てを見ながら心に決めました。

2012-09-19

2010年5月,ロンドン追想,大英博物館

 「冗談」(ミラン・クンデラ)の表紙カバー写真「ザンビアのロツィ族の竪琴」の全体の形や大きさが気になってきました。[個人蔵]とあるのでこの竪琴そのものを探すのはまず無理そう。

 調べてみるとロツィLoziは現在では「ロジ族」と表記されるのが一般的のようですが,竪琴や木彫などの情報は見当たりません。国立民族学博物館(大阪)の収蔵品データベースをあたってみると,「ロジ族の木琴」なるものは見つかったのですが残念ながら「画像データなし」。

 書棚でアフリカ美術関係の本を探したら「異文化へのまなざし」展(世田谷美術館, 1998年)の図録が見つかりました。大英博物館と国立民族学博物館のアフリカ,オセアニア関係のコレクションが中心ですが,やはりページをめくれどLozi族に関連するものは見当たらず。

 がっかりしていたら「イフェ王国の王『オニ』の真鍮製頭像の複製」のページが目に留まりました。そういえば,2010年に大英博物館を訪れたときにThe Kingdom of IFEという特別展でこの頭像を見た!イフェ IFEはナイジェリアの内陸部にある町の名前です。
(LUMIX DMC-F32で撮影)

 何しろ広大な館内を歩き回って,この特別展はあまり印象にも残らず,解説もよく読んでいませんでした。今回この図録を読んで,この頭像が大英博物館に収蔵されるまでのまるでミステリーのような経緯をはじめて知って,得した気分。

 Lozi族の竪琴は謎のままですが,2年前の楽しかった旅を思い出して,ご機嫌です。これもクンデラの小説のおかげ,と考えたところで,やはり私も動く歩道を逆走しているなあと思い至ったのでした。

2012-09-16

読んだ本,「冗談」(ミラン・クンデラ)

 ミラン・クンデラの「冗談」(関根日出男・中村猛訳,みすず書房,1992年版)を読みました。二段組み400ページ近い大部ですが,ぐいぐい引き込まれて一気に読み終え,ここしばらく読んだ小説の中で最高の1冊となりました。

 共産党体制下のチェコスロバキアを舞台に,主人公ルドヴィークが女友達にあてた葉書に書いた「冗談」が物語の発端となります。ルドヴィークが語り手になる章と,彼の人生と交錯する登場人物たちが語る章が交互に展開され,重層的な物語はやがて喜劇的な結末を迎える復讐劇へと収斂していきます。「冗談」と「忘却」がテーマのラヴ・ストーリー(著者まえがきより)です。

 「そう,きっとこうなんだ,と不意に思いあたった。大部分の人たちは二重に間違った信念によってだまされている。彼らは(人間,事物,行為,民族の)永続的な追憶とか,(行為,過失,犯罪,不正の)贖罪を信じている。これはどちらも虚偽の信念なのだ。真実はまさにその逆で,すべては忘れ去られ,何一つとして償われないだろう。贖罪(復讐さらには容赦)の課題を代行するのは忘却なのだ。だれ一人としてなされた不正の償いをする者はなく,すべての不正が忘れられてしまうのだ。」(本文p.338より引用。表紙裏カバーにも同部分が引用されている。)

 この独白の前には「時間」と「自分(ルドヴィーク)」の関係を「動いている歩道」と「その上を反対方向に向かって走っている人間」に例える場面があって,彼は「後ろにある奇妙なゴール」とは過去であり,自分は「眼は過去に向け,まったく無駄に走っている」と語るのです。自分より速く動く歩道の上を必死に逆走する姿を想像するとおかしくて,しかしそれは私自身の姿でもあると気付いてやがて哀しい。 

 ところで,紙をかけて読んでいたので,読み終えて表紙カバーのキャプションを見ておや,と思いました。装丁に使われているこの奇妙な鳥のつがいは「ロツィ族(ザンビア)の竪琴の頭部装飾」だそうです。面白い形。どのくらいの大きさなのだろう。ちなみにこの1992年版は絶版です。2002年にみすず書房のLettresシリーズとして刊行された版は装丁が変わっています。

 
 

2012-09-14

2012年9月,東京六本木(3),アラブ・エクスプレス展

 森美術館でアラブ・エクスプレス展を見てきました。「日本で初めてアラブの現代美術に焦点を当てる」(チラシより)というこの展覧会。「1.日々の生活と環境」「2.「アラブ」というイメージ:外からの視線,内からの声」「3.記憶と記録,歴史と未来」という構成です。

 先入観にとらわれないで,と言われても,作品が扱うテーマはやはり紛争・戦争や国境線などなど。想像力の及ばない現実がつきつけられてきます。

 最後の部屋のスハ・ショーマン「神の御名において止めよ」という映像作品のバックにはモーツァルトのレクイエムが響いていて,哀しい旋律が痛ましい映像に被さって涙腺は決壊寸前。

 しかし,会場を歩いて感じたのは,たとえば「世界報道写真展」(東京都写真美術館で年1回開催)を見るときのような,「世界の現実と自分の無知に打ちのめされる」感覚とはちょっと違う印象でした。

 アトファール・アハダース「私をここに連れて行って:想い出を作りたいから」のように陽気でポップな作品は見ているだけで楽しい。絵葉書やキャンディーを持ち帰ることのできる作品もあります。もっとアラブのことを知ってもう一度見に来たい,と感じた展覧会でした。

 マハ・ムスタファ(カナダ在住)の「ブラック・ファウンテン」Black Fountainは文字通り黒い噴水。原油がモチーフになっているとのことですが,白い壁を背に黒い水が噴出する様子は,不気味ではあるのだけれど,どこか水墨画のような静けさも感じます。後ろの窓が夜景になるとまた表情が変わるのかもしれません。
マハ・ムスタファ「ブラック・ファウンテン」
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

2012-09-12

2012年9月,東京六本木(2),二科展

 国立新美術館では二科展も見ました。公募展を見る機会はほとんどないのですが,今回は旧友の一人から入選のお便りと招待券を受け取ったので出かけた次第。絵画,彫刻,写真,デザインの4部門で新美術館の展示室10室(と野外も)を埋め尽くす作品群に呆然。これは全部見ると大変なことになる,と絵画部門出品者の「早見表」(本当にこう書いてあった)で確かめて,目指す友人の出品場所の3階A室へ。80号(たぶん)の大変な力作です。

 活躍中の作家はもちろんのこと,生活の中で趣味以上の比重で「洋画」を描いている人がこんなにたくさんいるんだと驚いたり,権威ある公募展で入選を果たすというのは大変なことなんだろうなあと感心したり。
 
 写真の部屋も,どこまでも続くかのように見えるパネルに力作が並び,くらくらしてきました。すごすごと退室して「具体」展の会場へと向かったのでした。

 

2012-09-10

2012年9月,東京六本木(1),「具体-ニッポンの前衛18年の軌跡」展

 会期終了間際になって,国立新美術館の「具体-ニッポンの前衛18年の軌跡」展を見てきました。1954年に関西で結成され,1972年に解散した前衛美術家グループである具体美術協会の全容を紹介する東京では初めての展覧会とのこと。当時から評価の高かった海外や再評価の進んだ関西では紹介される機会が多かったそうですが,東京で初めてというのは意外な感じです。リーダーの吉原治良の展覧会(東京国立近代美術館,2006年)は記憶に新しいし,メンバーの白髪一雄や田中敦子の回顧展なども近年開催されていたはず。

 それほど新鮮な発見は期待せずに展示室に足を踏み入れると,「また具体の展覧会?」という先入観は,なんと断片的な知識だったかと思い知らされたのでした。「これまでになかったものを造り出せ」というリーダーのもと制作された熱気あふれる絵画作品やインスタレーションの再現,パフォーマンスの記録映像などが続いて,「熱き抽象」から「冷たい抽象」へと変化していった運動の全体と軌跡が丁寧な解説文に導かれて示されています。

 たくさんの作家の作品が並びますが,吉原治良の「黒地に赤い円」(1965)はやはり圧巻。印刷やデジタル画像では体感できない迫力です。展示室の外にはガラスの壁面に元永定正の「作品《水》」(再製作)が設営されています。何色もの色水が吊り下げられた様子は,窓からふりそそぐ陽の光をうけて,「カラフル」という言葉がそのまま具体的な形になったようです。
 

2012-09-09

読み返した本,「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ)

 「存在の耐えられない軽さ」(千野栄一訳 集英社文庫)を読みました。ダニエル・デイ・ルイスとジュリエット・ビノシュが主演で1987年に映画化もされています。この本を読み返そうと思ったのは5月に亡くなった吉田秀和氏の「新・音楽展望 1991-1993」(朝日新聞社)を読んだのがきっかけです。

 「クンデラの《存在の耐えられない軽さ》を読んでいる。」で始まる「『軽さ』と『重さ』の変容」を読んで,映画を見たし原作も読んだ,と思っていた作品なのに,私は何を読んでいたのだろうと唖然としました。氏が印象に残ったというペトシーンの丘の場面(そこには生に耐えられなくなった者の望みを音もなくかなえるために射殺する3人の男がいる)など,そんなシーンがあったことすら覚えていない。そしてベートーヴェンの最後の四重奏曲のモットー《そうでなければならないのか。そうでなければならない。》が作中に引用されているということも。
「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば,われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れるのである。/だが重さは本当に恐ろしいことで,軽さは素晴らしいことであろうか?」(pp8-9から引用)という作家の問いかけを,トマーシュとテレザの人生をたどりながら時間をかけて考え続けました。

 「新・音楽展望」では音楽における重さと軽さの《変容》へと話題は展開し,R・シュトラウスの弦楽合奏曲《変容》とカラヤンの演奏する同曲のCDの存在が読者の前に差し出されます。ベートーヴェンの四重奏曲と合わせてぜひ,これから聞いてみたい。1冊の本を読んだのがきっかけで,豊かな時間が長く,そして深く続きます。

2012-09-07

2012年8月,東京の夏,ジオラマ写真

 この夏,建物の高層階に上がる機会があって,ジオラマふうの写真を撮影してみました。難しいことは何もなく,愛用カメラに搭載された「アートフィルター」の「ジオラマ」ボタンを押して撮影するとこうなります。

 本物の風景がミニチュア模型のように見えるこの手法は,2007年に木村伊兵衛賞を受賞した本城直希さんの写真で一時期ブームだったけれど,最近は一つの表現として定着しているようです。受賞当時は,写真の面白さ=技法のもの珍しさのように扱われることも多かったようですが,私はこの写真家のカメラがまるで魔法の箱のように思えて(現実世界が一瞬で作り物になってしまう!人間までも!),とても魅かれるものを感じました。

 出版された写真集はSmall Planet(リトルモア 2006)とTreasure Box(講談社 2010)の2冊。前者はジオラマ写真です。後者は未見ですが,写真家のHPの小さな写真を見るとジオラマではなさそうです。近いうちに書店で確かめてみます。HPにはindustryやkenyaなどのジオラマシリーズもアップされていて,見ている自分自身が模型の人形になっていくような。

2012-09-05

2012年9月,東京恵比寿,田村彰英写真展「夢の光」

 恵比寿の東京都写真美術館で「田村彰英 夢の光」展を見てきました。名前しか知らない写真家の展覧会を見に行くと,その「写真家」が好きになるときと,その写真家が撮った「この1枚」が好きになるときがあります。今回は忘れがたい1枚と出会いました。

 チラシにも使われているジェット戦闘機をとらえた写真がその1枚。1960年代後半から1970年代前半にかけて米軍基地を撮影したBASEシリーズから始まるこの写真展。「家」「午後」「湾岸」など詩的で美しい写真も多いシリーズが続き,ラストのコーナーは「BASE 2005-2012」。その中の1枚Atsugi 2009です。
 
 テーマの重たさから,政治的な解釈を加えられることは避けられないのでしょうけれども,40年を経て再び同じテーマに取り組み,このアングルでこのシャッタースピードでこの美しい瞬間を切り取った写真家の「眼」に,圧倒される想いでした。

 東京都写真美術館は木・金曜日は夜8時まで開館していて,5時半以降に展覧会に入場すると「トワイライト・カード」に1ポイント押印してくれます。6ポイントためると1展覧会にご招待!花金(=死語?)の楽しみが増えました。
 

2012-09-03

古いもの,祖父の小箱,木の人形

 長生きをした祖父が亡くなってから20年以上。忙しい生活を送り,引退してからはたくさんの本に囲まれて過ごしていました。祖父が晩年暮らした実家の部屋には,ガラス入りの扉のどっしりした本棚のほかには,もう祖父の面影を思い出すものはほとんど残っていません。その本棚がとても欲しいのだけれど,私の生活のサイズにはちょっと大きすぎます。

 でもすてきだなあ,こんな本棚に大好きな本を並べたらさぞ幸せだろうなあと思いながら下段の扉を開いてみたら,いくつかの黄ばんだ紙の小箱を見つけました。わりとこまごましたものが好きだった祖父らしく,「ペンギン」と書かれた小箱には5センチほどのガラス製の2体のペンギン。毎年,干支の置物を飾っていたので「丑」とか「寅」とか書かれた箱には陶器の置物だったり,張子の寅だったり。

 とりわけ古びた箱には「雑品」と書いてあって,各地の民芸品に混ざって和紙でくるんだ15センチほどの小さな木の人形が2体入っていました。台座の裏には判読できないアルファベットと数字が鉛筆で書かれています。どう見ても日本のものではありません。微妙に大きさが違うので,もともと一対ではなさそうですが,若い娘と父親のようにも,夫婦のようにも見えます。

 祖父は若いころ,一時期ドイツに滞在していたらしいので,そのときのものかもしれません。遠い異郷の地の自室にこの人形を飾って,何を想ったのでしょう。そしてこの人形たちは今,はるか東の国で何を想っていることでしょう。


2012-09-02

2012年8月,東京渋谷,ロバート・メイプルソープflowers写真展

 夏の終わりとはいえ,まだまだ暑い日の午後,渋谷西武で開催中の「ロバート・メイプルソープflowers写真展」を見てきました。駅前のスクランブル交差点は眩暈がするような人の波。会場はデパート上階の催事場の一角ですが,端正なモノクロの空間は原色のシブヤとは別世界のようです。

 「今再びヴェールを脱ぐ『完全なる瞬間』」とチラシにあるように,メイプルソープの名前を目にするのは久しぶりな気がします。1946年生まれ,1989年に42歳でエイズで亡くなった写真家。国内では10年ぶりの写真展ということで,書棚から作品集や過去の展覧会の図録を探し出して気分も上がり,楽しみに出かけました。


 展覧会のタイトルから,写真集Flowers(Bulfinch Press, 1990)で構成された展覧会と思っていたら,2006年にThe Complete Flowers(Te Neues Pub Group, 2006)という写真集も出版されていて,今回はこの写真集のイメージで構成されていたようです。というのも,前者はすべてカラー写真で構成されていますが,後者は同じイメージでもカラー写真のものも,モノクロのものもあります。今展の写真はすべてモノクロイメージで,ずらりと並んだモノクロの花たちは息を呑む美しさです。

 ただ,カラー写真で見慣れたイメージがモノクロで続くと,少しずつ違和感を感じました。チラシには「輝かしき生と美しき死に手向けられた弔いの花たち。」とあるので,「モノクロの花」=「弔いの花」というのが主催者の意図なのかもしれません。確かに死の直前に友人たちに贈られたチューリップは「死」のイメージが強いけれど,彼のflowersを「弔いの花たち」とくくってしまうのはどうなんだろう。せめて最後のコーナーthe last worksは,生の衝動やエロスそのものを感じさせる「色」がまぶしいカラー写真の蘭や薔薇を見たかったなあ,と思いつつエスカレーターでデパートのフロアを1階ずつ,光あふれる地上へと降りていきました。