昨年末から憑りつかれたしまったルネ・シャールの言葉「われらの獲物は一滴の光」。瀧口修造の詩篇から始まって,田村隆一の著作,高梨豊/吉増剛造の写真集,そして高梨豊の随筆集「われらの獲物は一滴の光」(蒼洋社刊)へと辿り着いた。
1987年刊のこの本は今では入手が難しく,古書検索をするとごく少数がヒットするだけ。図書館に予約してしばし待つこと数日,手元に届いた本は四六判のソフトカバーで意外なほど「身軽」な印象を持つ本。勝手に彼の古い写真集を連想して,大判で骨太い書籍を想像していたので面食らう。
目次でタイトルを見ただけで震えがくる。「『仮面』そのものの分析」,「『非条理』にあふれた時間」,「地続きでない風景」,「シュルレアリスムとの出会いと『私』の発見」…などなど。写真展や写真集を漫然と眺めていただけでは感得できなかった,写真家の内なる声と思索に引き込まれていく。写真集「東京人」や「都市へ」の1カットが浮かんだり,のちの「地名論」「囲市」へと発展していく思考の萌芽のようなものを活字の中に見出したり。
そしてやはりPROVOKEの日々を振り返る稿はexcitingの一言だ。“N”と語られる中平卓馬が,同人の解散を強力に主張し,解散を決めた集まりの帰り道に高梨豊にさしだしたのは吉本隆明の詩集だったという。中平が傍線を引いたという箇所を引用するくだりを孫引きする。
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる/ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる/ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる/もたれあうことをきらった犯行がたおれる(p.27より引用,原文は吉本隆明詩集(現代詩文庫)からの引用)
この詩句に高梨豊は「読むことが出来ても,ときに声にすることが出来ない詩行もある」とコメントを添えている。PROVOKEの写真家たちの,ひりひりとした日が目に浮かぶようで,その後のストーリーを含め,どんな映画やドラマよりもドラマチックに思えてくる。
ところで,高梨豊はどの稿にもこの本を「われらの獲物は一滴の光」と名付けた所以は語っていないのだが,巻末に近づいて「歩く詩人」,「タムラさんの『詩至』」という稿があり,そこには雑誌の仕事でともに東京の町を歩いた詩人への深い敬愛の情が綴られている。
もしかしたら,田村隆一その人が,「『一滴の光』を獲ようじゃないか,タカナシくん」と言って二人して東京の町を歩いたのではないだろうか。その情景もまた,目に浮かんでくるようだ。
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