2015-10-26

2015年10月,読んだ本,「イザベルに ある曼荼羅」(アントニオ・タブッキ)

  「イザベルに ある曼荼羅」(アントニオ・タブッキ著 和田忠彦訳,河出書房新社 2015)を読了。「著者が遺した最後のミステリ」という帯の惹句に惹かれて手にとった。作者没後初めて世に出た未刊行小説ということ。
  語り手の「私」=タデウシュはイザベルという女性の痕跡を訪ねて,時空を超えて無限の旅をする。ポルトガル,マカオ,スイス,ナポリ。おおいぬ座シリウスからやってきた死者である「私」が探すイザベルもまた黄泉の世界の住人である。

 タデウシュとイザベルが「レクイエム」(1992)に登場した人物だということには訳者あとがきを読むまで気付かなかった。読後,書棚のタブッキを読み返してみることにした。何冊も並べているのに,内容は忘れてしまっているものばかりだ。「レクイエム」「インド夜想曲」などなど。

 タブッキの小説世界そのものが色彩豊かな曼荼羅のようだ。「イザベルに」は9つの章のそれぞれ一つの円となり,イザベルの謎めいた生涯が鮮やかな曼荼羅のなかに再現されていく。どの円も深く魅力的だが,第五の円,イザベルの写真を撮った写真家ティアゴとタデウシュとのやり取りが私の中に鮮烈な印象を残し,何気ない日常にさざ波を起こす。

 「誰かの言葉がふと浮かびましてね,写真とは死だ,二度と訪れない瞬間を捉えるからである,という。(略)でももし逆に,生だったとしたら?そこに自然に,揺るぎなくある生。一瞬の内に捉えられたそれは,皮肉な眼差しで我々をみつめてくる。なぜって,写真はそこでじっと動かないままなのに,我々は変化のなかに生きているからです。つまり写真は,音楽みたいに,我々には捉えられない瞬間を捉えているということです。我々がかつてそうであったもの,そうであったかもしれないもの,こうした瞬間にたいしてはどうすることもできない,だって我々よりそっちに道理があるのだから。」(p.97より引用) 

2015-10-12

2015年10月,東京日比谷,「躍動と回帰」展

 会期終了直前の金曜夜,出光美術館で「躍動と回帰-桃山の美術」展を見てきました。展示室には仕事帰りの人たちがたくさん。仕事を終えてゆっくりと日本の美を堪能するのにぴったりの秋の宵です。ビルの1階からエレベーターで運ばれて展示室の入口へ。
  「豪奢で躍動的な」(展覧会チラシより)桃山時代の美術を,日本古来の美術造形とのつながりに注目しながら検証するという趣旨の展示です。美が「革新的」であるとはどういう意味なのか,ということを観る者に問いかける仕掛けがとても刺激的。

 6つの章立てには「『うしろ向き』の創造-歪み・割れ・平らかさ」,「瞬間と永遠の発見」など,なるほど!というタイトルがついています。長谷川等伯の水墨画「竹鶴図屏風」の竹の描写を「平らかさ」というキーワードで見る面白さにはちょっと興奮。

 南宋時代の禾目天目の完璧な姿を導入に,織部や朝鮮唐津の茶碗や水差を見ると,「躍動」という言葉がそのまま具現化されているよう。そして最後の南蛮蒔絵の特集コーナーの前では,日本古来の伝統美が変容して海を渡り,そして今また時を超えて目の前にあるという幸せに思わず時を忘れてしまう。

2015-10-04

2015年4月~9月,東京・京都,お能の公演

 今年は春から案件が立て込んでしまい,合間合間に息抜きと称してあちこち出掛けた記録をほとんど残していなかったので,まとめて忘備録としてアップしています(怒涛の勢い)。仕事もこれくらい精力的にこなせればストレスもたまらないんだけど。
 
 4月以降に見たお能の公演を順番に。まず,4月櫻間会例会で仕舞「小塩」と能「葵上」。「葵上」は般若物の一つで,御息所の怨霊が怖ろしい。(4月・6月セルリタンタワー能楽堂)
 
 6月櫻間会例会では仕舞「胡蝶」と右陣さんのシテで能「弱法師」。親子の情愛というと美しいけれど,盲目となった息子である弱法師の物狂いの有様があまりに哀しい。右陣さんの美しい所作に涙ぐむ観客の姿もむべなるかな。
 
 7月櫻間右陣之会では右陣さんのシテで「海人」,伊藤真也さんのシテで「道成寺」。「海人」は「懐中之舞」という,母である龍女が経巻を懐に収めて舞う形。「道成寺」は舞台上に鐘が運び込まれ,白拍子が落下してくるその鐘の真下に飛び込む場面に思わず興奮。蛇体から発せられる暗い怨念は水底にたまるそれのようでもあり,ただただ恐ろしい。狂言は万作・萬斎で「簸屑」。(国立能楽堂)
 8月京都にて大文字送り火能として「海人 変成男子」。「変成男子」では後シテ(金剛永謹)が通常は龍女のところ,男の龍王になる。宝珠を命がけで奪い取る場面が名高いらしいが,ワキ方(従臣)の福王和幸さんがあまりに素敵で,ほかのことはそっちのけになる。イケメン・ミーハー魂に火がつく。(金剛能楽堂)
 
 9月「平家物語の世界」で右陣さんシテ「景清」。盲目の父と娘の別れの場面が切ない。地謡の「さらばよ止る行くぞとのただ一声を聞き残す,これぞ親子の形見なる」にウルっとくる。狂言は萬斎で「三人片輪」。(横浜能楽堂)
 
 9月金春会定期能の番組のうち,最後の「融」にぎりぎり間に合う。シテ桜間右陣,ワキ福王和幸という最高(独断)の組み合わせ。福王さんの旅僧姿があまりに美しく,ほかのことはそっちのけになる。(国立能楽堂)
 
 9月新作再演の会で「紅天女」。シテ梅若玄祥・ワキ福王和幸。およそ少女マンガとは数十年縁がなく,美内すずえ「ガラスの仮面」はタイトルを聞いたことがある,というくらいの知識しかない。劇中劇が新作能として上演されたものの再演ということ。いかにも能の世界として楽しめた。間狂言はメッセージがストレートすぎて,ちょっときつい印象。(国立能楽堂)
 
 9月に雑司ヶ谷の古本市で「お能の見方」(白洲正子著,新潮社 1993)を発見して購入しました。

2015年9月,東京六本木,「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展

 もう一つ,展覧会の忘備録として。9月最終週には六本木にでかけ,サントリー美術館で「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(9月27日まで開催)を見てきました。藤田美術館の至宝がずらりと並びます。
 日本に三つ現存する曜変天目茶碗のうち,これで二つを見ることができました。静嘉堂文庫のものより落ち着いた印象を受けたのだけれど,同行の友人は静嘉堂のよりずっと派手だ,と言います。ものを見ることはまったく個人的な体験なのだ,という自明の事実にあらために気づきました。

 もう一つの大徳寺龍光院蔵のものはなかなか見ることができないようなので,いつかその機会に巡り合えるとよいのだけれど。他に玄奘三蔵絵巻の前では思わず,あ,玄奘さん,またお目にかかることができました,という気分。

2015年9月,東京西新宿,鈴木理策写真展

 9月に訪れた展覧会の忘備録として。まず,東京オペラシティアートギャラリーで開催されていた鈴木理策写真展「意識の流れ」(9月23日まで開催)。美術館の広いスペースで鈴木理策の写真を見るのは東京都写真美術館で開催された「熊野 雪 桜」展(2007)以来。そういえばあの展覧会は黒と白の思い切った展示が印象的だった,と記憶が甦りました。
  写真を「見ること」で記憶や意識の流れがもたらされる,という写真家の思想がダイレクトに伝わり,体感できます。吉野の桜の展示コーナーには「来年咲く桜を思い描く時,過去に出会った桜の記憶によるものなのに,私にはそれが未だ見ぬものに思われる」というメッセージが添えられています。

 写真とは記憶そのものなのか,記憶の媒体なのか。自分の目で見たわけではない吉野の桜の写真を見ながら,これを見るのは移転前のギャラリー小柳と写真美術館以来だから3回目だなあ,と思いを巡らす。その思いには,銀座と恵比寿と新宿という私にとっての「体験の場所」の記憶が伴う。 

2015年10月,読んだ本,「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ)

 カズオ・イシグロの最新作「忘れられた巨人 The Buried Giant」(土屋政雄訳,早川書房)。かなり前に読み終えて,なかなかここに書くことができないでいた。今もどのように書けばよいかわからないままだ。ならばスルーしてしまおうかとも思ったけれど,それでは前に進めない,という気もしている。
  「わたしを離さないで」以来,新作をずっと待ち望んでいたのだが,この「ファンタジー」にはびっくりして少し後ろへ引いた。訳者あとがきではこの小説の設定について「不意打ち」と表現している。

 アーサー王伝説と地続きのファンタジーはあくまで「道具立て」であり,この小説のテーマは「記憶」にほかならず,人は何を記憶して何を忘れるのか,いつまで記憶していつ忘れるのか,と読むものに考えさせる。しかし,とちょっとため息をつく。この設定には私はどうしても入り込めない。

 ラストは美しく衝撃的でもある。そうか,老夫婦の愛の物語と読めばよいんだ,と思ったものの,もう一度最初から読み直そうという気が起こらない。カズオ・イシグロの愛読者のつもりだったのに,この本を大好きな「わたしたちが孤児だったころ」や「充たされざる者」の隣に並べることを躊躇する自分の感覚にこそ驚いている。