京都国際写真祭のHPを見ていたら,メイプルソープのチューリップの写真がアップされていて,おや,と思ったところ,銀座のシャネルネクサスで開催された「Memento Mori」展が京都に巡回するということでした。
4月9日まで開催されていたシャネルの会場は,ピーター・マリーノの設計であって,この展覧会のメイプルソープの写真はすべて彼のプライベートコレクションなのだそう。会場で配られるパンフレットの紹介文(シャネル社社長の手による)は,この会場のことを「胎内」という言葉で紹介していて,なるほどと思う一方,メイプルソープの写真を胎児に喩えることなどできるものだろうか,などとも思ってしまう。
コレクションはWHITE GALLERYとBLACK GALLERYに配置され,どの写真も既知のイメージばかりではあるものの,やはりその不穏な空気をまとった存在として,見ていて心音が高くなってきます。そして,タイトルの通り,私は銀座のこの美しい建物の中でずっと「死」を思っていたのでした。
現在進行形で身近な人の老いと,病と,そして遠からぬであろう死に直面していて,ついセンチメンタルな感情が溢れてしまうのだけれど,冷静に立ち止まって1冊の本をゆっくりと繙いてみることにしました。
「写真の誘惑」(多木浩二著 岩波書店,1990)は随分前に購入した本。自分の中でメイプルソープが第一次(?)ブームだったころ。今展には展示はなかったけれど,例の(と言ってしまおう)髑髏を手にした死の直前の自画像写真についての150余頁の考察です。一読して手に負えず,ずっと書棚に眠っていました。
イメージとは,レフェランとは,と立ち止まりながら読み進める。「自己の死」がキーワードであり,どこかの一節を引用してみようと思うものの,それは不可能だとも思えてくる。
「メイプルソープの写真がなんらかの思考をかきたてるものであるのは,たんに死の問題であるより,その写真では,人間が写真をつくるというより,写真が人間(というイメージ)を生みだすようになってしまうからかもしれない。そこには,人間に属さない視線が含まれており,比喩的に純粋な視線といいたくなるようなものがあらわれているように思える。その視線でしかメープルソープは自己の死が言説化されないことを知っていたかのようである」(pp.73-73)
そして,著者の思考が辿り着いた最後の章のタイトルは「未完のテクスト」。「メープルソープの写真では死についての物語が消滅したのだ。それが現代の死の相貌なのである。だが,このメープルソープの写真は,写真というもののひとつの極限なのだ。(略)メープルソープが写真によって結局なにを伝えようとしたかも,不明のままにおわるのだ。しかもその空虚がこの写真の不気味な魅力なのだ。(略)メープルソープの写真は,それ自体が未完のテクストであると同時に,世界を未完のテクストの状態で発見することを促すのである」(pp151-152)
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