2019-02-10

2019年1月,東京松涛,「廃墟の美術史」展/読んだ本,「廃墟の美学」(谷川渥)

   「廃墟の美学」(谷川渥著 集英社新書,2003)を読了。この本は随分前に京都の恵文社一乗寺店で買って書棚に眠っていたもの。この書店が話題になったころ,一度行ってみたくて出かけたものの,「私を呼ぶ本に出会う」という感覚を味わえないまま,何か買わなくちゃという焦燥感だけでこの本を選んだのだった。そういう感覚は妙に覚えていて,書棚には他にも積ん読が溢れているのに,この本は折にふれて気になっていた1冊だった。
  
  で,なぜ今なのかというと,松涛美術館で1月31日まで開催されていた「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」を見たのがきっかけ。図録は購入しなかったが,谷川氏が論考を寄せていた。展覧会は2階の展示はこの本の内容を具現化したような構成で,ユベール・ロベール,ピラネージ,コンスタブルなどなど。地下1階に,それ以後を引き継ぐシュールレアリスムや日本人の画家たちの作品が並ぶ。
  
  難波田龍起の「廃墟(最後の審判より)」の前で足がすくむ。そして展示の最後は野又護だった。地下の展示は3.11を経験した日本人にとってはあまりに重い。「廃墟」について何かを語ることはとても辛く,哀しみを呼び起こす行為だ。展覧会場はたくさんの観客で混んでいた。それぞれがそれぞれの仕方で「終わりのむこう」を探していたのだと思う。
 
 谷川氏がアンリ・ベルクソンの「創造的進化」(1907)を引用してこう書いている。「ベルクソンは,要するに「無」は「存在」よりも内容が乏しいどころか内容が多いと主張しているわけだが,重要なのは,ここで彼が記憶の能力なしには無あるいは空虚という観念ないし表象は成立しえないと指摘していることである。言葉を換えれば,想い出と期待の能力をもつ存在者にとってしか不在は成立しないのだ。私たちが「無」や「空虚」を表象するのも,あるものとあったもの,あるものとありえたであろうものとの対照をなしうるかぎりにおいてだからである。」(pp.148-149)

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