「廃墟の美学」と「廃墟の美術史」展をきっかけに,前から読んでみたかったマルグリット・ユリスナールの「ピラネージの黒い脳髄」を読了。ジャケ買いならぬタイトル買いみたいなものである。
美術でも読書でも,およそ個人的な記憶と結び付けてしまいがちなのだけれど,私にとってのピラネージはロンドンでドキドキしながら訪れたジョン・ソーンズ・ミュージアムの記憶であり,ヨーヨー・マの無伴奏バッハの映画の舞台であったりする。
それをユルスナールという孤高の(これも私のイメージ)作家の眼と文章を通して反芻し確認した,というのがこの読書体験だったかと思う。
ピラネージの《牢獄》と《風景》。その廃墟への詩情がどこか冷めた視線で語られていく。読者はピラネージの誇大妄想に「意味」を与えられて,書物の後半に収められた図版を自らの脳で感じていく。
「建築する情熱,これは終生銅板という二次元の作品に限定されていたこの男にとって,抑圧された情熱だったが,この情念こそが,かつて大建築に着工した古代人の精神の躍動を,廃墟のなかに再発見するのにすぐれて適した人間に彼を仕立てあげたように思われる。おそらくこうもいえるだろう。《古代遺跡》においては建築資材がそれ自身のために表現されている,と。」(p.24より)
美術でも読書でも,およそ個人的な記憶と結び付けてしまいがちなのだけれど,私にとってのピラネージはロンドンでドキドキしながら訪れたジョン・ソーンズ・ミュージアムの記憶であり,ヨーヨー・マの無伴奏バッハの映画の舞台であったりする。
それをユルスナールという孤高の(これも私のイメージ)作家の眼と文章を通して反芻し確認した,というのがこの読書体験だったかと思う。
ピラネージの《牢獄》と《風景》。その廃墟への詩情がどこか冷めた視線で語られていく。読者はピラネージの誇大妄想に「意味」を与えられて,書物の後半に収められた図版を自らの脳で感じていく。
「建築する情熱,これは終生銅板という二次元の作品に限定されていたこの男にとって,抑圧された情熱だったが,この情念こそが,かつて大建築に着工した古代人の精神の躍動を,廃墟のなかに再発見するのにすぐれて適した人間に彼を仕立てあげたように思われる。おそらくこうもいえるだろう。《古代遺跡》においては建築資材がそれ自身のために表現されている,と。」(p.24より)
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