2022-02-25
2022年2月,横浜みなとみらい,横浜美術館やどかりプログラム
2022-02-22
2022年2月,東京恵比寿,石川直樹「DENALI IN THE MIDNIGHT SUN」
恵比寿で石川直樹の写真展「DENALI IN THE MIDNIGHT SUN」を見ました。サイアノタイプのプリント。サイアノタイプは2年くらい前に横浜美術館のワークショップで体験したことがあります。青と白の世界が静かにしかし雄弁にデナリを語ります。
恵比寿映像祭の地域連携プログラムということで,東京都写真美術館の学芸員との対談が配信されていて,写真家の声が聴けてうれしい。デナリの空の青と雪の白という世界が,サイアノタイプと親和性があると思った,というくだりには思わず納得。
さらにデナリでは光に当たり続ける白夜を過ごすということで,これも紫外線に反応して定着するサイアノタイプと共通するものがあるのだと言います。「登山」という行為と「写真」が分かちがたく結びつくことで,この稀有な写真家の魅力が倍増しているのだと思えます。「極北へ」も読んでみよう。
コロナ禍の活動について,渋谷のネズミや自宅のオブスキュラ撮影などを発表したことを「置かれた場所で未知の世界に出会う」と語っていたのが印象的。3月にはタカイシイギャラリーのトークに申し込んであるので,生の話を聞けるのが楽しみ。
2022年2月,東京渋谷,「モンク・イン・ヨーロッパ」
短い間に立て続けてセロニアス・モンクについて熱く語られる場面に遭遇し,よし,これはちゃんと(?)聴いてみよう。と思い立つ。まずは「5 by Monk by 5」を繰り返し聴いてから,渋谷で公開されていた「モンク・イン・ヨーロッパ」を観る。
大きな手に驚く。吉増剛造は「詩とは何か」でこんな風に語る。「アファナシエフでも,あるいはマイルス・デイヴィスでもセロニアス・モンクでもそうですけども,このひとたちはとてもゆっくりと演奏することが多いのですけれど,そのときに出てくる音と音とがほんのわずかに純粋に隣り合わせているんですね。そしてそうしたとき,ささやかだけれども思いがけない「純粋な声」が聞こえるような気がするのです。サッチモ,ルイ・アームストロングの濁声がその典型でしょう。これが「詩」というものの本当のありからしい。」(pp.182-183)
音楽を視覚で捉えることができて,埼玉県美で見た「ボイス+パレルモ」展の最後の部屋にあったパレルモの「無題(セロニアス・モンクに捧げる)」という美しい美しい作品がまざまざと甦る。アンティークフェルメールのブログで紹介されていた「Thelonious Himself」もダウンロードして聴いている。
ところで,アンチ春樹としては複雑なんだけど,「セロニアス・モンクのいた風景」(村上春樹 編・訳」(新潮社 2014)はとても便利な1冊。著名なジャズ評論家が語ったセロニアス・モンクが読みやすい訳でまとめられている。
「いちばん孤独な修道僧(モンク)」(バリー・ファレル)のこんな一節が面白い。「40年代の半ばに,モンクの評判はようやくジャズのアンダーグラウンドに地歩を築いた。彼の名前とその謎めいたいくつかの発言(「いつも夜だ。でなければ我々は光を必要としないだろう」)のおかげで,先端を行くジャズ・ファンの目には彼は「ダルマ行者」のように見えた。中国人の苦力帽をかぶり,そんな名前を持った人間なら,クールでないわけがないじゃないか。」(p.184)
2022-02-13
2022年1月,松本(2),松本民藝館,民藝の街
冷たい空気に信州の冬の朝の匂いを感じながら,松本城のほとりのバス停から松本民藝館へ。松本民藝館と言えば,というこの部屋にテンションが上がります。朝鮮のものをはじめ,アジア諸国の美しい手仕事の数々も充実の展示でした。おお,私が持ってる安南の小壺にそっくりだぞ。特集展示は「藍 染・織物展」。
町全体が民藝の街,という松本を堪能してきました。宿泊したホテル花月のロビーはそのまま民藝館みたいなものだし,近くの居酒屋しづかは佇まいそのものが民藝だ。加えて,ホテルの向かいにひっそりとある古書喫茶の想雲堂もいい雰囲気。こんなお店が近所にあったらいいなあとおいしい紅茶を頂きました。
仙台から松本へ。大満足の旅でした。帰ってきてから一月も経っていないというのに,ああ,また旅にでかけたい!
2022年1月,松本(1),石川直樹 8848/8611
松本駅から徒歩で石川直樹の写真展「8848/8611」の会場へ向かいます。信毎メディアガーデンのホールというのは,アートの展示会場というわけではなく,カーテンというか黒幕で仕切った正方形に近いホールの一角。天井から吊るされた写真が隙間なく並んでいて,観客は通路を辿るように見ていくのですが,写真の支持体の色でエベレストかK2かわかるようになっている。…なんだか,かっこいいんだかお手軽なんだかよくわからない展示だった。
入場料はしっかり取るので,オペラシティの個展とまでは言わないまでも,ちゃんとした写真展かと思っていたのでちょっと肩すかしだったな。写真は期待通りでしたが。
いかにもというエベレストやK2の姿も,石川直樹という稀有な人の目を通した美そのものとしてそこにあるのだ,と思えてきます。オペラシティで展示されていた彼の蔵書のル・クレジオに挟まれていた無数の付箋が映像として鮮明に蘇ってくる,そんな不思議な体験をしました。
古書市で買った2011年のユリイカ石川直樹特集号。彼の写真と冒険に関する様々な言質をすべて読み込むのは難しいけれど,倉石信乃氏の「時と形 石川直樹の『CORONA』」から特に印象に残った一節を。石川直樹への関心の在処として,「一つは,この写真家が個々の旅において必ず「死」の接線に触れてから帰還しており,その誘引力に対する複合的な感情を,写真イメージのマージンにいわば「稀薄な剰余」として抱え込んでいると思えることだ。」(p.103)
2022-02-11
2022年1月,仙台(3),ニッカウィスキー宮城峡蒸溜所
余市で味をしめた蒸溜所めぐり。海外旅行ままならない間は,日本中のいろんな蒸溜所に行ってみたい。となりました。試飲コーナーでは宮城峡のシングルモルトを。販売コーナーでは余市も買えたよ!
2022年1月,仙台(2),角野隼斗コンサートツァー
1月某日,角野隼斗コンサートツァーの仙台公演に。熱心というほどではないので,おや,全国ツァーがあるんだ,と気付いたときには東京公演は完売だったのでした。(それで仙台まででかけたのだから,熱心なファンということになるのかも。。)若い人ばかりだと何となく気恥しいなあ,と思いつつ会場へ向かうと,観客席は幅広い世代で埋まっていて人気のほどがわかります。
プログラムはショパンとガーシュインと自作が並びます。新聞のインタビューで,クラシックやジャズ,ポップスなどいろいろなジャンルに関わる活動について,「いろんな世界を生きられる人生の方が面白い」と語っていた(うろ覚えです)のが印象的でした。そうか,この人は一つの世界に生きている人じゃないんだ(私がインタビューするなら平野啓一郎を読んでるのか?と聞いてみたいです)。
演奏はショパンもガーシュインも面白かった。ホールで聴いた限りでは好みで言えばショパンかも。「葬送」付きソナタ第2番に感動。ガーシュインはブルーノートで聴いてみたい。アンコールは英雄ポロネーズを含めて3曲! いやあ,堪能しました。
2022年1月,仙台(1),東北歴史博物館
1月に仙台と松本に行ってきました。何でまた東北と信州に,と我ながらぽかんとしてしまいそうです。仙台にはピアノのコンサートという目的があって,ちょうどJR東日本の新幹線も使えるフリー切符が使えたので,石川直樹の写真展をやってる松本へも行こう!となったのでした。東北新幹線と北陸新幹線の両方に乗れる!
すぐに記録できなかったのですが,慌ただしい日々の中で旅の詳細を忘れてしまいそう。忘備として簡単に。
まずは東北新幹線で仙台へ。ちょうど県立美術館も仙台市博物館も休館中だったので,国府多賀城駅の東北歴史博物館へ向かいました。東北の歴史を旧石器時代の発掘品から昭和の暮らしまで通観できます。びっくりするほど立派で美しい博物館です。
テーマ展示室の「カマ神」様の展示が面白かった。カマドを守ることから火の神として,さらに家全体の守り神として信仰されている神様たち。やはりこういう民俗資料はその土地で見るに限るなあ,と。
総合展示室では7世紀の「城柵とエミシ」の迫力満点の展示に圧倒されます。中央と東北の関係を,東北という場所で確認することの意味を考えながらゆっくり展示室を回りました。あっという間に時間がたって,仙台駅へと戻ります。
読んだ本,「歓待する文学」(小野正嗣)
「まるで自分に読まれるのをずっと待っていたかのようだ。まるで自分に向けて,自分のために書かれているかのようだ」と感じる読書体験はないか,という問いかけから本書は始まる。それこそが「文学があなたを歓待している」体験なのだと。そして,この本そのものが私を歓待してくれた。
イーユン・リー,ハン・ガン,J.M.クッツェー,カズオ・イシグロ,多和田葉子,マリー・ンディアイ…などなど,心震える経験をした作家が並ぶので(小野正嗣の書評がきっかけで読んだ作家もいるので,当たり前のことなんだけど),自らの体験と照らし合わせるようにして読むことができた。そうだったのか,と思う読み方もあれば,私はそうは読まなかった,と思う読み方もありスリリングな読書会に参加しているかのようだ。
未読のアキール・シャルマやW.G.ゼーバルトなどはぜひ読んでみたいと思うものの,唯一村上春樹だけは相変わらずパスかな,というところ。へそ曲がりはへそ曲がりを貫く。
多和田葉子の「雪の練習生」を語る章にこんな一節があり,深く共感する。「書くことによって,僕たちは『他なるもの』-他の人間でもいいですし,他の動物でもいいのです-になることができる。あるいはそうやって,自分ではない他なるものになるために書かれたものが『文学』と呼ばれるのかもしれません。」(pp.151-152)
蛇足ながら,この2月から多和田葉子が朝日新聞の連載小説を書いていて毎日の楽しみが増えた。明日も生きてこの続きを読もう,と大げさでなく思ってしまう。