「スティーヴン…」を久しぶりに開いたら,ベケットの「いざ,最悪の方へ」をコピーした紙片を挟んであった。この詩集の口絵のルイ・ル・ブロッキーによるベケットのイメージは,一瞬フランシス・ベイコンの手によるものかと見まがうのだが,2021年に開催されたベイコン展と同時開催されたアイルランド美術展に彼の版画が出陳されていたらしい(神奈川県立近代美術館)。松涛美術館への巡回展を見に行こうとした矢先にコロナで途中閉幕となってしまい,二重三重に残念な思いをしたのである。
さて,「アイルランンド短編選」(橋本槇矩編訳 岩波文庫 2000)。ユリシーズはたっぷり時間のある老後(もう間もなくのことだ!)にとっておくとして,マライア・エッジワースからウィリアム・トレヴァーまでおよそ170年をカバーする15編の短編からなる文庫本はとても有難い。
歴史的背景の知識が必要なものもそうでないものもあるが,詳しい解説が読書を助けてくれる。やはり印象深かったのはジョイスの「二人の色男」だろうか。松本の古書店で買った「ダブリンの市民」(高松雄一訳 1987)所収の「二人の伊達男」と読み比べてみるのも一興だった。原題はTwo Gallants(Dubliners所収)。
ハープや日傘や月光と金貨などが暗喩として機能してダブリンの姿が浮かび上がる。行ったこともないその街角に繰り広げられる二人の男と品のない女中とのやり取りを,街灯の影からじっと見つめているような気がしてくる。灰色の夕暮れを背にして。
「彼はもうだいぶ永いこと男友達や女たちと町をぶらついて暮らしてきた。友人がどんな値打ちのものか分かったし,女たちのことも分かった。にがい経験から彼は世間に背中を向けた。しかし希望がまったくなくなったわけじゃない。食べ終えると気分が良くなった。厭世観も薄らいで元気が出てきた。小金を持った純朴な娘と出会えさえすれば,どこかの居心地の良い片隅で幸せに暮らせないとも限らない。」(pp.139-140)
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