2019-12-01

読んだ本,「ダブリンの緑」(建畠晢)

  あっという間にカレンダーも残り1枚になってしまった。もう少し落ち着いて日々を振り返りながら過ごしたいのだけれど,次から次へと追い立てられて動く歩道をつんのめりながら歩いているような毎日だ。

 11月の神保町古書まつりで手に入れた建畠晢のエッセー集「ダブリンの緑」(五柳書院 2005)を読了。こんなエッセー集が出てるなんてまったく知らなかった。偏愛する詩人が語るつぶやきに耳を傾けるには,静かな部屋の中よりも,静かな苛立ちに満ちた満員電車の中がうってつけだった。

 どの短文もちょっと変人(?)ぽい詩人の頭の中をのぞくようで愉快千万,しいて挙げればという感じで「回文」の天才女性とのやり取りが面白かった。(ただし,「私,いまめまいしたわ」はその人の発明ということになってるけど,古典じゃないのかなあ,とは思いました。)

 回文の定義の妄想は引用すると長くなるので,その結論部分だけ。「(略)とすれば回文とは,時間の中に不意に挿入された鏡,言葉(時間)を反射する鏡とは言えまいか。(すべてを回文にしてしまうあの少女の天才とは,その鏡のきらめきなのだ。)線形に継起する日常的な言語が,突然,その鏡によって逆転される時,私たちは一種の快感を味わうが,それはおそらく時間を空間として体験することの快感なのである。」(p.95より)

 この少女とは詩人のお見合いの相手だったらしいが,同席した田村隆一と共に酩酊した詩人に,「建畠,果てた」と冷たく言い放ったのだとか。抱腹絶倒とはこのこと!

 ところで本のタイトルの「ダブリンの緑」はあとがきのタイトル。ジョイスの「ユリシーズ」を読まないことには,到底理解できない世界がそこにある。(酒井忠康の未読のエッセイにも「スティーブン・ディーダラスの帽子」というのがある。)人生の残り時間は短いというのに,宿題はどんどん増えるばかりだ。

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