2025-01-30

読んだ本,「聖域」(カルロス・フエンテス)

 

 国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書8「聖域」(カルロス・フエンテス 木村栄一訳 1978)読了。犬に変身する青年ギリェルモの物語だ。その変身は,母である大女優クラウディアへの異様な愛と憎悪の果てに起こる。この物語を青年の狂気の物語と読むのはあまりにも単純だ,と訳者あとがきにある(p.203)。

 ではどう読むか。母親の愛人ジャンカルロの運転で暴走する車の中でギリェルモは「ぼくだって生きのびたいんだ! 車を止めろ! 降ろしてくれ!」と叫ぶ。ジャンカルロの答えは「…生きのびるにはこうするよりほかにないんだ。たえず,べつの存在に変身してゆくことだ。グリェルモ,時間につかまれば,きみは殺されるんだぞ。時間には始まりがあり,発展があり,終わりがある。」(pp.155-156)

   犬に変身したことは「初めと終わりのある時間」を否定して,「新しい浄化された生存へ再生した」ことを意味するのだ…と,これは訳者あとがきの受け売りだと白状しよう。この小説の枠組みであるユリシーズの物語や,ユダヤ教が生み出しキリスト教が受け継ぎ,今もヨーロッパやイスパノアメリカで脈々と生きる「初めと終わりのある時間」の概念を理解していないと,「あまりにも単純な」読みしかできないのだ。

 しかし,単純にも「狂気の物語」として読んだ(としてしか読めない)私には,こんなフレーズがささったりする。「草原は何も知らずに,樹液をもとの土ぼこりに返そうとして注ぎこんでいる。土ぼこりはその樹液を受けてはじめて,同じように生殖を続け,太陽の表面に砂を返すことができるのだ。この砂の返却は,永遠を啓示しているのだろう。亡くなった祖父から,生きている父と生まれたばかりのぼくに相続された蔵書の場合も事情は同じだ。本を開くのは迷路の中に踏みこむことであり,出口を見つけたければ,本を投げ出すこと―つまり,それを閉じ,忘れるーことだ。」(pp.76-77)

 蛇足ながら,この国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書は装幀がとてもカッコよくて,古書市や古書店で見つけると購入している。見返しのドローイングは中西夏之によるもの。たまりませんな。

0 件のコメント: