2025-08-16

2025年8月,東京表参道,三島由紀夫・読んだ本「近代能楽集」・「奔馬」など

 表参道GYRE GALLERYで「永劫回帰に横たわる虚無 三島由紀夫生誕100年=昭和100年」を見てきた。どこから書き起こせよいだろうか。

 今年の春から,某私大のオープンカレッジで「能と文学」という講座を受講している。能を見始めてかれこれ10年近くなるけれど,その都度ネットで詞章を検索して現代語訳を予習して,ということの繰り返しで,一度きちんと「文学としての能」を学んでみたいと思っていたのだった。まだ前期の数回しか受講していないが,すばらしい内容の講義に学ぶ喜び!を感じているところ。

 で,「卒塔婆小町」の謡曲の精読の回に,立ち寄った図書館で「三島由紀夫研究」(鼎書房」という雑誌に三島由紀夫と卒塔婆小町に関する論考が掲載されているのを発見。おや,そうか,三島由紀夫の「近代能楽集」(1968)は未読だった。「卒塔婆小町」を含む8つの戯曲が含まれている。早速新潮文庫版を読了。

 で,件の「三島由紀夫研究」の第7集(2009)は近代能楽集の特集である。巻頭の「能と三島由紀夫」という座談会(松岡心平・松本徹・井上隆史・山中剛史)の記述がとても興味深く,浅学の身に大変勉強になった。

 松岡氏「(略)ただ,三島自身も言っていると思いますが,強度だとか身体の問題を考えたときに,死の場所から生への照り返しということが非常に大きい。能舞台というのは一種の二重構造なんですね。(略)つまり二つトポスがあって,演者は「鏡の間」という死の場所から「主舞台」という生の場所に出て来る。(略)三島の『奔馬』に「松風」が出てきますが,「松風」のような亡霊劇ではこうした舞台の二重性が生きてきますね。(略)」(p.5)

 というわけで,ここで「豊穣の海」が導き出されてきた。通読したのは随分前なので,「奔馬」の新潮文庫版を「松風」が出てくる19節を中心に再読。本多が「松風」の謡いを耳にして輪廻転生に思いをめぐらせる場面。「仏教では,こういう輪廻の主体はみとめるが,常住不変の中心の主体というものをみとめない。我の存在を否定してしまうから,霊魂の存在をも決して認めない。ただみとめるのは,輪廻によって生々滅々して流転する現象法の核,いわば心識の中のもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり,唯識論にいう阿頼耶識である。」(p.226)

 うなされる(?)ように読み進めていたところ,ちょうど新聞の文化欄に表参道の展覧会の紹介記事が掲載されたのが今回のきっかけというわけ。今展は「三島の遺作となった小説「豊穣の海」は,三島にとって一世一代の「反小説」的実験であった。国内外の現代美術家によって三島由紀夫のこの壮大な小説のテーマ「阿頼耶識=相関主義」の一端を浮かび上がらせることが,本展覧会の趣旨である」ということ(チラシより)。

 新聞記事には平野啓一郎の作品(自著「三島由紀夫論」を暴力でねじ伏せている)写真も掲載されていて,その異様な書物の姿にかなり動揺する。会場でも異彩を放っていた。他には中西夏之,ジェフ・ウォールほか。それぞれに作家自身の解説が付されているので,理解の手引きになる。炎暑の一日,実に刺激的な体験だった。

 

0 件のコメント: