多和田葉子の本を2冊,読む。「海に落とした名前」(新潮社,2006)はNYから東京に向かう飛行機が海に不時着し,助かったもののすべての記憶を失った「わたし」の話。手がかりはポケットのレシートの束。「わたし」はいったい誰なのか。
「後藤はいつの間にかわたしのことを過去形で話している。まるでわたしはもう死んでしまったとでも言うように。/自分を過去のものにしてしまってはどうだろうと思ってみた。思い出せない「わたし」のことはあきらめて過去に葬って,新しく始めてもいいのではないか。あの人はああいうひとだったと,お通夜に集まった人たちのような話をして,区切りをつけて,過去の自分を葬ってしまえばいいのではないか。(略)でも,身体はこの身体一つしかないのに,一体何を葬ればいいのか。この身体,と思って、右手で左の腕を触ってみる。それから左の手を右の腕に載せる。身体だけは確かにそこにある。逆の場合だってありえたのではないか。つまり,身体が不時着の時に砕け散ってしまって,羽の生えた意識だけがかもめのように太平洋の上を彷徨い始めるというような。」(pp126-127より引用)
他に3つの短編が収められている。「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」はNYのロシア式サウナとバーを訪れる話。a.b.c.とか(1)(2)(3)とテスト問題のような箇条書きで「わたし」の思いが挿入される。何が正解で何が間違い?
「わたしはサハリンにいた/わたしはサハリンにいる。過去形で語れることはすべて現在形でも語れる。だから,時制の問題は鼻紙でぬぐって終わりにしよう。」(p76より引用)
「道がないのにアレクセイは迷わずに,どんどん草をかき分けて進む。わたしはふうふう息を切らして,あとを追う。「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」とアレクセイが少年の声になって呼ぶのが聞こえる。それは一度死んでしまった少年の声なのだ。なぜここにいるのだろう。」(pp76-77より引用)
「容疑者の夜行列車」(青土社,2002)は旅人である「あなた」が夜行列車でいくつもの国境を超えて旅をする話。街の住人や列車の乗客たちとの奇妙なやりとり。旅の目的は読者にはよくわからない。そして旅は唐突に,必然性もなく,終わる。
「スカーフで頭を包んだ女が一人,身体を丸めて,しゃがんでいた。たらいの中で手を動かしている。洗濯でもしているのだろうか。女は人の気配を感じたのか,頭を上げて,道に突っ立っているあなたの顔を見たが,微笑みもせず,驚きもせず,まるでその場にあるはずのないものを見てしまったかのように,首を左右に振って,すぐに盥に目を戻した。自分はそこにいる理由がないので,いないも同然なのだ,とあなたは思った。」(『ベオグラードへ』 pp47-48より引用)
「眠りの中では,わたしたちは,みんな一人っきりではありませんか。夢のなかでは,窓から飛び下りてしまう人も,出発地に取り残されたままの人も,もう目的地に到着してしまった人もいます。わたしたちはもともと同じ空間にはいないのです。ほら,土地の名前が,寝台の下を物凄いスピードで走り過ぎていく音が聞こえるでしょう。一人一人違うんですよ,足の下から,土地を奪われていく速さが。誰も降りる必要なんかないんです。みんな,ここにいながら,ここにいないまま,それぞればらばらに走っていくんです。」(『どこでもない町へ』 p163より引用)
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