2013-02-27

読んだ本,「雲をつかむ話」(多和田葉子)

 多和田葉子の「雲をつかむ話」(講談社, 2012)を読む。「人は一生のうち何度くらい犯人と出逢うのだろう」という一文で始まる。「犯罪人」ではなく「犯人」。作家自身を思わせる語り手の「わたし」の人生での「犯人」との交錯が描かれる全12章からなる小説。
 

 物語の通底奏音となるのは,1987年秋にはじめての本を出版した「わたし」がエルベ川沿いの窓に「ここで直接購入できます」という紙を貼っていたところ,プレゼント用に購入したいと訪ねてきた一人の男の存在。リボンを探している間,家の中に招き入れたその男は,財布を忘れたと言って本を受け取らずに立ち去るのだが,1年後に「わたし」はその男からの手紙を受け取る。そこにはあの日,殺人を犯した自分は警察に追われていて窓の貼り紙を見て身を隠そうとした,今は刑務所で日本語を学んでいる,「わたし」の返事を待つと書かれている。

 さまざまな罪を犯した人々と「わたし」とのやりとりの記録=記憶をたどりながら,作家が読者を最後に導くのは,「犯人」と「被害者」と「語り手」と「読み手」の境界がぼんやりとした,曖昧な輪郭の「雲」のような世界。後半のマヤとベニータという女性と「わたし」の話は本当に怖い。読み終えて,読者である「私」は一体どこにいるのか,と呆然と立ち尽くす。

 「それにしても体験話というものが何度も繰り返し話しているうちに嘘になって熟していくのはなぜだろう。嘘をつくつもりなど全くなくても,語りの滑走路を躓かないように走るには,まばたきするくらい短い時間内で「記憶の穴」を埋めていかなければならない。(略)我を忘れて埋めていく嘘の部分。ひょっとしたら,そこにこそ,わたしの「わたし」が隠されているのかもしれない。事件を起こしたのはわたしではないが,穴を埋めるのはわたしだからだ。」(p.6より引用)

2013-02-24

2013年2月,東京上野,「飛騨の円空」展/東洋館リニューアル

  東博平成館で王羲之展を見たあと,本館へ移動して「飛騨の円空展」を見ました。これは本館1階の特別5室で開催されている特別展。広い一室に46体が展示されています。円空仏は「小さめの仏像」というイメージを持っていたら,2メートルを超す大きなものも神像もあり。秘仏の「歓喜天立像」はインドの神様です。鑿の跡もそのまま,無彩色の木彫群の素朴な迫力を楽しみました。

 さて,この日は東洋館リニューアルオープンも楽しみにしていたので,本館の特集展示はパスすることに。ところが,帰宅してからHPを確認すると本館特別1室でエジプトのコプティック・テキスタイルの特集展示があったらしいのに,気付かなくてとても残念。3月31日までなので,また桜の季節の楽しみにとっておこう。

 そして,東洋館。展示デザインが一新されたということでわくわくして建物の中に。新しい展示ケースや照明デザインがとてもしゃれているのと,「東洋美術をめぐる旅」というコンセプトを打ち出していることで,旧来よりもぐんと魅力的になりました。

 展示スペースも広くなったということで,「クメールの彫刻」,「インドの細密画」,「アジアの民族文化」の常設展示コーナーが新設されています。クメール彫刻のコーナーではガネーシャのお出迎えに思わず脱力。
 

 アジアの染織の特集展示ではインドの美しいカシミア・ショールにうっとりする。繊細で緻密なペイズリー文様や,こんな楽しい刺繍文様も。この日はカメラを手に回りましたが,低反射のガラスや照明の位置のおかげなのか,映り込みのないきれいな写真ばかり。展示室ではことさら意識することはありませんでしたが,快適な鑑賞空間の裏を支える工夫や最新の技術に感心しきりです。
 

2013-02-23

2013年2月,東京上野,「書聖 王羲之」展

 東京国立博物館で3月3日まで開催中の「書聖 王羲之」展を見てきました。「世界で十指に満たない精巧な唐時代の摸本から,選りすぐりの作品」(展覧会チラシより)が展示されているとあって,入場待ちができるほどではないけれど,会場内はかなりの混雑でした。
 
 展覧会は「第一章 王羲之の書の実像」,「第2章 さまざまな蘭亭序」,「第3章 王羲之書法の受容と展開」という構成です。「書聖」と称される王羲之の美しい筆跡を眺めるだけで眼福を味わえるわけですが,書道は中学の習字の時間までという浅学の身には,だんだん集中力も落ちてきて,むしろその作品の背景を知ることが面白くなってきます。

 唐の太宗皇帝が彼の作品を愛好するあまり,「蘭亭序」を墓の中に持っていってしまったという逸話とか,清の乾隆帝が紫禁城の「三希堂」で眺めた「三希」のうちの一つが王羲之の「快雪時晴帖」だとか,広大な中国大陸ばかりか彼岸にまで話が広がるのだから,スケールが大きすぎます。

 そして第2章の終わりには「蘭亭序」の文字を任意に選んで作る対句が展示されているのですが,その一つ,「楷書七言聯」の作者名を見て声をあげそうになりました。その名は宣統帝(=ラストエンペラー溥儀)!その後の人生を知っているからそう感じてしまうのかもしれないけれど,数奇な運命をたどるその人の,凛としながらもどこかはかなげな筆運びにじっと見入ってしまう。
 
 「書とはどういう芸術か」(石川九楊著,中公新書)は書の展覧会を見たときには必ず繙くようにしているのですが,今回も「日本と中国の書」などとても参考になりました。この本にはたびたび「政治的」という単語が出てきます。「毛筆は刻具性を失ってはいない。それゆえ,毛筆について言えば,中国書史は,毛筆を鑿とのあやの中にどのような刻具の比喩と化すかという歴史でもあった。飛躍をおそれず言えば,それはまた政治の国の宿命であったとも言える。」(p.142より引用)

 難しいので,いったん本を閉じてお茶で一服します。台北故宮博物院の四階にある茶芸館の名前は「三希堂」だったなあ,鉄漢音もお菓子もおいしかったなあ,とおよそ政治的ではないことを思い出す。

2013-02-20

2013年2月,横浜みなとみらい,「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」

  横浜美術館で開催中の「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展を見てきました。キャパについては横浜美術館の常設展示室でも有名な写真を何度か目にしてきたし,なんとなく「知っている」気分でいたけれど,実は何も「知らなかった」のだ,と認識した展覧会。

 そもそも「ロバート・キャパ」は本名ではなく,アンドレ・フリードマンとゲルダ・タローが作品を売り出すために考え出した,いわば架空の写真家の名前だったということ。この展覧会は二人のそれぞれの「個展」という形で構成されています。

 私が訪れた週末は,直前にNHKで沢木耕太郎氏がキャパの「崩れ落ちる兵士」についての新説を紹介する番組が放送された影響もあったのか,会場は大変な混雑でした。

  ゲルダの展示はヴィンテージ・プリントが多く,やはり時間がそのまま止まったようなヴィンテージの質感は感情移入しやすい。この時代,重いカメラを手に,戦場を駆け回って,兵士を,戦いを,そして遺体を撮影した女性の生と死に胸がしめつけられます。

 キャパのコーナーは展示されている写真の数も多く(193点),会場の熱気にのまれてしまい,足を前に運ぶのがやっと。購入した2冊セットの図録には,キャパにはネガが7万点近く残されているとあります。すべてが写真家キャパ/フリードマンの人生なのだと思うと,ゲルダが撮影したという説のある「崩れ落ちる兵士」にしても,現像助手のミスでネガの大半が失われたという「Dデイ」にしても,1点ずつのドラマチックなストーリーはあくまで断片的なものに思えてきました。

 ずいぶん前に読んだ「ちょっとピンぼけ」(ロバート・キャパ著,文春文庫 1979)も読み返してみよう。

2013-02-16

2013年2月,東京駿河台,明治大学博物館

 御茶ノ水駅からすぐ,明治大学アカデミーコモンの地階に明治大学博物館があります。「前場幸治コレクション2 中国・朝鮮の瓦」展のポスターを目にして,高麗美術館の塀の瓦がきれいだったのを思い出し,立ち寄ってみました。

 「中国・朝鮮の瓦」は1コーナーに二十数点が並ぶ小規模な展示ですが,なかなか日本では目にする機会がないものばかりということ。高句麗の「蓮蕾文」軒丸瓦をとても興味深く見ました。百済や新羅のものは蓮の花を表すそうですが,のちの高麗時代でもよく似た蕾文が用いられていて,高句麗と高麗が同族であることを傍証するものと言えるのだそう。なんというか,歴史のロマン(!)を感じて一人で瓦の前で感激。

 「鬼龍子」は屋根に置かれる魔除けの神獣です。宋,明,清のものが展示されています。そういえば,北京を訪れたとき,紫禁城の宮殿の屋根にずらずら並んでいるのが面白くて写真を撮ったのを思い出しました。これはたぶん「坤寧宮」の屋根。「太和殿」には11体乗っているそう。 

2013-02-14

読んだ本,「虫樹音楽集」(奥泉光)

 「虫樹音楽集」(奥泉光著,集英社 2012)を読む。カフカの「変身」のジャズ版変奏曲,といった内容。9つの章からなった一つの小説とも,9つの小説からなった短編集ともいえるけれど,その9つは小説だったり,ジャーナリストによるノンフィクション風だったりする。一体どこまでが現実でどこからが虚構なのか,「架空の書物」も頻出するこの物語世界はボルヘスの紡ぐ迷宮にどことなく似ている気がする。
 
 第8の物語「変身の書架」の一節。「似たような路地をまたぐるぐると経巡り,眼についた隧道を何度か通り抜けた。そうしているうちに,周囲の風景から自分が急速に遠ざかる感覚に捉えられ出した。自分はいま,こことは違う,ここからは遠い場所に本当はいて,だからこうして霧の街路を歩く自分という存在は,誰かの頭に思い描かれた幻にすぎないー。そのように思いなせば,昨日の広場や本屋が実在したのか,それもにわかに疑わしくなった。アテナ像の広場へ通じる隧道が見つからないのは,それが最初から存在しないからで,あの書店での出来事は,微熱のまどろみのなかで見た夢ではなかったか?いや,だとしたら、いまこうして迷路をさまよい歩く自分こそが夢であってもおかしくない。」(pp.227-228より引用)
 
 イモナベと呼ばれるサックス奏者が,「孵化」「幼虫」「変態」と称するライブを繰り広げる。彼は,「カフカの小説は,変態を経験し,成虫と成った,生物としての存在様態を全うした男の希有な記録として読まれるべきである」と,語り手である「私」に語ったらしい(p.12)。一瞬,なるほどと思うけれど,カフカの読者は虫になったザムザがやがて死んで乾涸びてゴミとして片づけられることを知っている。
 
 ページを繰っている間,終始,不思議な夢の中を漂っているような感覚にとらわれるのだけれど,最後の「川辺のザムザ 再説」に至って物語は不穏な方向へと収斂し,「虫樹」の周りで繰り広げられる狂気じみたシーンには言葉を失う。そして,最後の一行のためにこの物語は紡がれたのか,と衝撃とともに本を閉じる。

2013-02-11

2013年2月,神奈川県民ホール,「兵士の物語」

 春節で賑わう中華街のほど近く,神奈川県民ホールにでかけて2012 Art Dance Kanagawa No.9「兵士の物語」を見てきました。中村恩恵(振付,王女)・首藤康之(兵士)に惹かれたのだけれど,二人のダンスはもちろんのこと,小㞍健太(悪魔)の圧倒的な動きや,ストラヴィンスキーの軽快な音楽などなど魅力満載のステージでした。

 悪魔に魂を渡した兵士が,一つの幸福を手にするものの,二つめの幸福を手に入れようとしたとたん破滅する,というストーリー。もともとフランス語台本らしく,フランス語で語りが流れます(字幕なし)。この作品の過去の公演(オペラや演劇公演も含めて)では字幕がつく例もあったようですが,台詞がわかればもっとおもしろかっただろうなあ,というのが実感。プログラムのあらすじで充分だろう,というのが舞踊公演の前提なのか,とちょっとひねくれてもみたくなる。

 大人数の群舞は体型や動きに統一感がなくて残念な印象でしたが,それだけ主要キャラクターが引き立ったのも事実。相変わらず美しい首藤康之の動きと,舞台で圧倒的な存在感を放つ中村恩恵の気品に心おどる時間を過ごしました。

2013-02-09

届いた本,「小島一郎写真集成」

 「小島一郎写真集成」(インスクリプト,2006)を注文してからしばらく待って,昨年末に受け取りました。思ったよりもずっと重い,大部の写真集。ゆっくり眺める時間ができてからページを開こうと思っているうちに,あっという間に時間がたってしまう。
 
 厳選された写真が9点並んでいた「実験場50s」展を見ただけではわからなかったけれど,時系列に沿って写真家の仕事をたどっていくうちに,「下北」のハイコントラストの荒々しい写真は,彼の「抒情」の行き着いた地点ではないかと気付く。それは,「津軽」の作りこまれた空や,ミレーの絵画のような,と形容されるピクチャレスクな構図を持つ写真群を否定して生まれたものではなく,それらを自身の生をかけてどこまでも追求して生まれた「抒情の果て」なのだ,と思えてくるのです。

 写真集には高橋しげみ氏による「北を撮る:小島一郎論」が掲載されています。「ローカリティ」と「モダニズム」の問題,小島の東京への指向と挫折,木村伊兵衛による批判など深い示唆に富み,写真を見る/読む人に多くのヒントを与えてくれます。

 小島一郎自身による「私の撮影行」(「津軽 詩・文・写真集」(新潮社 1963)からの転載)では,十三村での撮影を振り返り,「ただ荒涼とした雪の浜辺に侘しい萱ぶき屋根の家が点々とするだけで,日本海から吹き寄せる強風のなかで,やっとわが身を支えているような恰好であった。何ものをも失い,白い大地にへばりついている姿,それはそのまま私自身の姿のようでもあり,あるいは又生きようとする人間の執念の姿かもしれないと思った。」(p.227より引用)と記されています。

 ページを何度も繰りながら,一人の写真家の命がけの仕事が語りかけてくる言葉=詩に耳をすます。

2013-02-04

2013年2月,東京本郷,野谷文昭教授最終講義

  東京に季節外れの暖かさが訪れた日の夕方,野谷文昭氏の東京大学退官記念最終講義「深読み,裏読み,併せ読み ラテンアメリカ文学はもっと面白い」を聴講してきました。

  私にとってのラテンアメリカ文学体験はマヌエル・プイグ「蜘蛛女のキス」(野谷文昭訳)に始まります。1990年3月に来日した作家と野谷氏の対談を楽しく聞いたその年の7月,プイグはメキシコで急逝。対談中ずっと陽気だったプイグはこれから書く小説の構想なども語っていたのに,と新聞の死亡欄を見て言葉を失ったことを思い出します。と,感傷に浸っているうちに文学部1番大教室はみるみる満員に。教室の後ろや両側の壁にそってずらりと立ち見の人も出るほどの盛況でした。

 日本ですっかり人気が定着したラテンアメリカ文学だが,それらはほんとうに面白く読まれているだろうか,という野谷教授の問いかけから講義は始まります。ガルシア=マルケスの「最近のある日」(「悪い時」所収),「この世でいちばん美しい水死人」(「エレンディラ」所収)などを深く読む楽しみ(この水死人のモデルはゲバラに他ならない!)や,ボルヘスの「裏切り者と英雄のテーマ」とマルケスの「予告された殺人の記録」を併せて読むことで,対照的な作家ととらえられがちな二人が,シェークスピア(ここではマクベス)が介在することによって実は似ていることに気づく,という分析などなどに圧倒されてあっというまに時間が過ぎていきます。

 「作品は能動的な読者のもとで成長し続けるのです」と締めくくられた授業の最後はいつまでも鳴り止まない拍手。講義冒頭の,「私はラテンアメリカ文学から,孤立や敗北を怖れない勇気を学びました」という言葉は,一編の小説を読むのと同じくらい,重いものでした。
 
 

2013-02-02

2013年1月,埼玉北浦和,ポール・デルヴォー展

  埼玉県立近代美術館に出かけて「ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅」を見てきました。昨秋,府中美術館で開催されていたときにタイミングを逃してしまったので,巡回展はほんとにうれしい。わくわくしながら,冷たい空気を緩ませる日差しにあふれる公園の中の美術館へ。 
 
  「森」(1948)の白昼夢のような情景にくぎ付けになる。作品の脇の壁に,画家のこんな言葉がプリントしてあります。「私は現実をある種の《夢》として描き表そうとしてきました。事物が本物らしい様相を保ちながらも詩的な意味を帯びている,そんな夢として。」
 
 熱帯のものらしき植物に囲まれた汽車や裸婦,赤い帳などの「詩的な意味」を考えながら絵に向かっていると,言葉は易しくても難解な詩を読んでいるような,あるいは画家の夢の中に迷い込んでいるような気がしてきて,思わずベンチに座り込む。
 
 幻想的な作品ばかりではなく,初期の印象派風だったりセザンヌ風だったりする風景画に始まって,晩年ほとんど視力を失ってからの作品までが展示されています。モチーフとなった鉄道模型やオイルランプなども。それらに導かれてデルヴォーの人生をたどっているつもりが,いつのまにか深く遠いところへ連れていかれて気付いたら出口に立っていた,そんな不思議な午後の時間を過ごしました。

 ところで,私にとってのデルヴォー体験はフリオ・コルタサルの小説「遠い女」の装丁のイメージが強烈なのですが,今回写真を撮ろうと思って書棚を探したけれどどうしても見つからない。処分するわけがないし,図書館で借りたものだったかなあ,いや,神保町で買ったはず,とキツネにつままれた気分。小説の内容もほとんど思い出せず,夢の中で読んだのか?と思い始める。