「虫樹音楽集」(奥泉光著,集英社 2012)を読む。カフカの「変身」のジャズ版変奏曲,といった内容。9つの章からなった一つの小説とも,9つの小説からなった短編集ともいえるけれど,その9つは小説だったり,ジャーナリストによるノンフィクション風だったりする。一体どこまでが現実でどこからが虚構なのか,「架空の書物」も頻出するこの物語世界はボルヘスの紡ぐ迷宮にどことなく似ている気がする。
第8の物語「変身の書架」の一節。「似たような路地をまたぐるぐると経巡り,眼についた隧道を何度か通り抜けた。そうしているうちに,周囲の風景から自分が急速に遠ざかる感覚に捉えられ出した。自分はいま,こことは違う,ここからは遠い場所に本当はいて,だからこうして霧の街路を歩く自分という存在は,誰かの頭に思い描かれた幻にすぎないー。そのように思いなせば,昨日の広場や本屋が実在したのか,それもにわかに疑わしくなった。アテナ像の広場へ通じる隧道が見つからないのは,それが最初から存在しないからで,あの書店での出来事は,微熱のまどろみのなかで見た夢ではなかったか?いや,だとしたら、いまこうして迷路をさまよい歩く自分こそが夢であってもおかしくない。」(pp.227-228より引用)
イモナベと呼ばれるサックス奏者が,「孵化」「幼虫」「変態」と称するライブを繰り広げる。彼は,「カフカの小説は,変態を経験し,成虫と成った,生物としての存在様態を全うした男の希有な記録として読まれるべきである」と,語り手である「私」に語ったらしい(p.12)。一瞬,なるほどと思うけれど,カフカの読者は虫になったザムザがやがて死んで乾涸びてゴミとして片づけられることを知っている。
ページを繰っている間,終始,不思議な夢の中を漂っているような感覚にとらわれるのだけれど,最後の「川辺のザムザ 再説」に至って物語は不穏な方向へと収斂し,「虫樹」の周りで繰り広げられる狂気じみたシーンには言葉を失う。そして,最後の一行のためにこの物語は紡がれたのか,と衝撃とともに本を閉じる。
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