思ったより混雑していなかったラファエロ展の会場をあとにして,余力を残して(?)常設展へ。2階に上がり,14-16世紀の絵画のコーナーで「ある男の肖像」(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(派))とゆっくり向き合うことにします。
この絵は辻邦生「十二の肖像画による十二の物語」(文芸春秋,1981)の第一の物語に選ばれた肖像画で,その物語のタイトルは「鬱ぎ(ふさぎ)」。
ヨハネスは冬のある日,宏大な彼の屋敷の中庭で縮こまっている,銀鼠色の柔毛の小動物を拾いあげます。寝室の暖炉のそばで蹲り,日を追うごとに大きく,醜くなっていくその動物。都会に住む妻は寝室に入ることも許されず,彼にとってその動物は激しい羞恥と憎悪の対象となります。そしてついに牛ほどに大きくなった動物を裏の納屋に運んだ後,ヨハネスは病に倒れます。病床から脱け出したある日,納屋の扉を開けた彼の目に映ったものは…。
このストーリーはこの肖像画の歴史的事実とは何の関連もない,小説家の創作です。「物語のはじめに」には「肖像画は(略)どんな風景や静物より,なま臭い人間のドラマを感じさせる。それは果てしない闇との対話とさえ言ってもいいものだ。十二枚の肖像画を選んで,それに物語をつける機会にめぐまれた。次の物語が果たして〈闇〉を解読しているかどうかはわからないが,すくなくとも,〈十二の肖像画〉が一人の小説家の心の中を通過した際に発した共鳴音のごときものである,とは言えそうだ」とあります。小説家が選んだのはほかに,ポライウォーロ,ブロンツィーノ,レンブラントなどなど。
辻邦生を夢中で読んでいた(若い)頃は,世界は「真・善・美」で成り立っていると信じていて,その裏側にはこんな〈闇〉があるのかとショックを受けたものでした。時を経て,ヨハネスの心に棲みついたこの動物の存在こそが彼の人生だったのでは,と思えてきます。(思えば遠くに来たものだ。)
この物語で一番惹かれたのは次の一節。「そのくせ妻はヨハネスを棄てきれなかった。彼の財産にも魅力があったが,それより何より,ヨハネスが都会の女たちのあいだで噂されるような,どこか官能的な容貌の持ち主だったからである」(p.9より引用)
肖像画を前にして,なにかひんやりと湿った空気を感じながら,ヨハネスの妻に深く深く,共感する。
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