彼岸の中日,「櫻間右陣之会」にお誘いいただいて,松濤の観世能楽堂にでかけてきました。能は「当麻」(櫻間右陣ほか),狂言は「宗論」(野村万作,野村萬斎)という豪華な演目です。渋谷の喧騒をぬけて,閑静な街並みに入ると桜もちらほら,能楽堂の前庭のこれは辛夷の花でしょうか,薄曇りの空にま白の花。
能曲の「当麻」といえば,すぐに小林秀雄と連想が浮かぶのは,いまだに大学受験勉強の呪縛だろうか。書棚の奥の「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)はあまりに色あせてページを開く気がしないので,書店で新しいものを買い求める。文庫本の奥付を見ると,初版は昭和36年,平成18年に75刷改版,そして購入したものは平成25年2月85刷とあり,いつの時代にも読み継がれているようです。(「当麻」初出は昭和17年「文學界」)。)
物語の筋もここから引用させてもらうと,「当麻寺に詣でた念仏僧が,折からこの寺に法事に訪れた老尼から,昔,中将姫がこの山に籠り,念仏三昧のうちに正身の弥陀の来迎を拝したという寺の縁起を聞く,老尼は物語るうちに,嘗て中将姫の手引きをした化尼と変じて消え,中将姫の精魂が現れて舞う」(pp.74,75から引用)というもの。
脇正面,橋懸りにいちばん近い席に座っていたので,老尼の面や中将姫の白い足袋などが鮮やかに眼に入ります。小林秀雄が見たものと同じものを時空を超えて見ていると思うと,眼前で展開する舞台に集中できず,むしろ彼の書いた文章がぐるぐると頭の中を回りだす。
「仮面を脱げ,素面を見よ,そんな事ばかり喚き乍ら,何処に行くのかも知らず,近代文明というものは駈け出したらしい。」(p.76),「中将姫のあでやかな姿が,舞台を縦横に動き出す。それは,歴史の泥中から咲き出た花の様に見えた。人間の生死に関する思想が,これほど単純な純粋な形を取り得るとは。」(P.77)
永遠に続くかと思われる笛の音,大鼓の音に乗って,白い袖を翻し舞う中将姫=櫻間右陣という現代の肉体に魅入られて,やがて舞台は終わる。
能楽堂を出ると,俄かに雨がぽつりぽつりと落ちてきました。ほのかな照明に雨粒と白い辛夷の花が浮かんでいます。この一節で彼岸の一日をしめくくるのはあまりに出来すぎというものではないかと思いつつ,「美しい『花』がある,『花』の美しさという様なものはない」(pp.77, 78)と呟いてみる。
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