2019-12-30

読んだ本,「代書人バートルビー」(メルヴィル,酒本雅之訳)

 
 2019年最後の読書はメルヴィルで締めくくる。「代書人バートルビー」を一気に読み終えた。バベルの図書館シリーズ(国書刊行会 1988)の中の1冊。ストーリーは,法律事務所に雇われた青年バートルビーが,やがて一切の仕事を拒否しながら事務所の中で生活を続ける,というもの。カフカの先駆けとしての不条理小説と言われることもあるらしい。
 
 「何もしない」という「生」の姿に戸惑うのは「わたし(語り手である事務所主宰)」であり,読者である。一体,バートルビーとは何者なのか。やがて迎える結末は,不条理というよりは運命づけられた悲劇のようにも思えるが,メルヴィルはそこで幕引きとしない。バートルビーの前職が明らかになり,「ああ,バートルビーよ。ああ,人間とは。」で物語は終わる。
 
 少なからぬ衝撃とともに読み終えたのは,酒本雅之先生のすばらしい日本語訳に導かれたから。バートルビーが仕事を拒否する際に口にする,「せずにすめばありがたいのですが。」は原文ではどんな英文なのだろう。
 
 以下,ネットで見つけた「バートルビー翻訳読み比べ」におおいに教示を得た。バートルビーの原文サイトBartleby.com (http://www.bartleby.com/129/index.html)もそこで知ることができた。
 
 件の「せずにすめばありがたいのですが。」の原文は,I would prefer not to.である。「ありがたい」という日本語の語感があまりにぴったりで,これ以外にない,と思ってしまう。そして,語り手の説得をはぐらかし,激怒させる場面のバートルビーの言葉「でもわがままは言いません。」はBut I am not particular.「私は特別な何かではない」。
 
 バートルビー=「何もかもせずにすめばありがたい,特別ではない存在」,すなわち人間誰にでも当てはまる? だからこそ,この小説の最後はAh Bartleby! Ah humanity! で締めくくられるのだろうか。
 
 語り手が,バートルビーに対する苛立ちを抑えるために,彼のふるまいを善意に解釈しようと決心する場面。「嫉妬のため,怒りのため,憎悪のため,利己心のため,昂然たる誇りのために殺人の罪を犯した者はいても,優しい思いやりのために残忍な殺人を犯した者は,わたしの知る限りではかつてない。だから,たとえよりよい動機が働かず,単なる利己のためであっても,ことに高ぶり易い質の人なら,ぜひともこぞって思いやりと博愛を育むべしだ。」(p.76) 

読み返した本,「安土往還記」(辻邦生)

  1972年発行の新潮文庫「安土往還記」を書棚から引っ張り出して再読したのは,ある集まりで「歴史小説」を紹介する,というお題が与えられたから。「歴史」を描いた小説の魅力は,そこに描かれた人間の姿じゃないかしらん,ということで辻邦生しかいないだろう,と。

 とはいえ,辻邦生なら「嵯峨野明月記」も「天草の雅歌」も,「背教者ユリアヌス」や「春の戴冠」や「フーシェ革命歴」などヨーロッパを舞台にしたものも魅力的だ。さんざん悩んだ挙句,薄くて読み通すのが苦にならない分量のこの1冊に決めた。
  
 語り手は,宣教師を送り届ける目的で渡来したジェノヴァ生まれの船員である。彼が見つめるのは「尾張の大殿(シニョーレ)」即ち織田信長。このキーワードだけで,一気に辻ワールドが目の前に広がる。そして,裏切られない。

 この小説の描く織田信長の姿は,信仰を持つことなく,この世の道理を追求し,自らに課した掟にどこまでも忠実に生ききる。教科書で学ぶ人物像とは似て非なるその姿を通して,読者たる私は,彼の「生」が,そして「人間の生」がいかに高貴なものであるのかを知るのである。

 初読はもう数十年も(!)前のこと。楽もあれば苦もある年月を生きて再読した今,昔ほどの感激はないのが正直なところ。しかし,忘れていた何かが心の奥底で疼く,そんな思いで読み終えた。そして蛇足ながら。風邪をひいて件の集まりには出席できなかった。

 「私は彼(大殿)のなかに単なる武将(ジェネラーレ)を見るのでもない。優れた政治家(レピユブリカーノ)を見るのでもない。私が彼のなかにみるのは,自分の選んだ仕事において,完璧さの極限に達しようとする意志(ヴオロンタ)である。私はただこの素晴らしい意思をのみーこの虚空のなかに,ただ疾駆しつつ発光する流星のように,ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴らしい意思をのみー私はあえて人間の価値と呼びたい。」(p.88)

2019-12-22

2019年12月,東京世田谷,「名物裂と古渡り更紗」・「美意識のトランジション」展

  初冬というよりはすっかり冬の空。いろいろ片づけたいことや,掃除をしたい場所がたくさんある。まずはここに記録していなかったいくつかの展覧会を忘備録として。
  12月15日まで開催された「名物裂と古渡り更紗」展を静嘉堂文庫美術館で。空の色があまりにきれいで,何だか冷たくて,まさに「身を切る」よう。バス停から美術館入口までの短い上り坂にも短い溜息をついてしまう。

  静嘉堂では染織品の展覧会は初めてなのだそう。曜変天目を包む仕覆を見るだけでも足を運んでよかった。美しい更紗の生地を,いとおしむように少しずつ切り出しながら仕覆に仕立てるという行為のその気高さに心打たれる。

 五島美術館では12月8まで開催された「美意識のトランジション」展を。16世紀から17世紀にかけての東アジアの書画工芸が集められている。この時期をtransition「過渡期」として,盛んに交易が行われた東アジアの美意識を探る展覧会。書跡,漆芸,染織,陶磁,典籍のトランジションという5つのパートで構成されている。

 自分の好みにどんぴしゃだったこともあって,かなり興奮する。とりわけ漆芸のすばらしい品々! MOA美術館所蔵の朝鮮の螺鈿箱には,これを見ることができて,生きててよかった,とそんな想いが大げさでなくわいてくる。世の中には「絶対の美」というものが存在するのだ,それを信じて生きていくことが善なる生なのだ,と考えていた若い頃の自分に,ああ,やっぱりそうかもしれないね,と語りたくなってきた。そんな初冬の一日。

2019-12-15

古いもの,フェルメールで買った古い絵

  金沢に足を運ぶ機会がめっきり減ってしまいました。これは今年の夏にフェルメールで手に入れたもの。エンボスがとても繊細で,こんなの見たことない,というくらいに綺麗なのです。可憐な花の姿(右はフクシャかな)もいい感じ。1800年代のものと聞いた気がするけど記憶があいまい。。

 エンボスをじっくり眺めようと,仕立ててもらったフレームから取り出して手にとってみると,裏面は糊付けの跡が幾重にも見られる。何度も額装したもののようです。もともとはグリーティングカード? はるか遠い場所でこれを誰かに贈った人がいて,長い長い時を経てそれを私が受け取ったということ。何だか涙が出てくるほどじんとしてしまう。

2019-12-13

つまみ読みした本,「古本屋散策」(小田光雄)

  今年のドゥマゴ文学賞を受賞した「古本屋散策」(小田光雄著 論創社)を図書館で借りてきた。600頁を超える大著で,読み通すのは大変。「日本古書通信」に連載された200編が掲載されているので,目次を見ながら惹かれるものだけをつまみ読み…のはずが,読み始めるとなかなか止まらない。

 「古書」への愛が,近代出版史や文学史へと結びついて,なるほど,そうなのか!という驚きの連続。そしてやはり自分の興味と一致するパートでは,ほとんどくぎ付けになる。忘備録として。51「写真集『アッジェのパリ』」,115「バートルビーとB・トレイヴン」,139「江藤淳『漱石とアーサー王伝説』と『漾虚集』」,131「ミシェル・レリス『黒人アフリカの美術』」などなど。

 「バートルビー」はエンリーケ・ビラ=マスタの「バートルビーと仲間たち」(木村栄一訳 新潮社)が積読になっているのだが,メルヴィルの「代書人バートルビー」が下敷きになっていると初めて知った。酒本雅之先生訳の「代書人バートルビー」が国書刊行会の「バベルの図書館」に入っているのだとか!すぐにネットで注文してもよいのだけれど,私の次の「古本屋散策」の楽しみにとっておくことにしよう。

 ところでこの本の装丁の木彫像について,著者は「東南アジアの女神像」としてその出自を知りたい,と本文中で書いている。装束の文様はイスラム系だけどこれは「女神」なんだろうか?

2019-12-01

2019年11月,東京上野,「正倉院の世界」展

 10月から11月にかけて東博で開催されていた「正倉院の世界」展。前期と後期の両方を見に出かけました。随分と前から,毎年秋に開催される奈良博の正倉院展を訪れてみたいものだと思いながら,ついぞ出かけたことがありませんでしたが,何というラッキー。これを見たいのよ,という2点が前期と後期にそれぞれ出陳されるというではありませんか!
 
  螺鈿紫檀五弦琵琶と,そして何よりも白瑠璃碗。この2つを見ることができれば心残りなし,と勇んでいざ出陣。前期は琵琶の人気で大行列でしたが,後期はそれほど並ぶことなく,しかも白瑠璃碗は普通のガラスケースに陳列で,展示室内で行列することなくじっくり見ることができた!
 
 今まで見たいろんな博物館や展覧会のペルシャ碗の出土品には,「正倉院に類似の完品がある」という情報が付随してきたけれど,そのまさに本物の美しさと言ったら! やはり土の中から出てきたものとは次元が違う輝きです。一つ一つのカット面に反射する輝きが無限の美しさを湛えていて,言葉にならない。

 いやあ,人生の宿題を一つ果たした感じ。琵琶の螺鈿もよかったなあ。他には伎楽面の迫力にもやられました。染織では毛氈のみずみずしい質感にびっくり。展示の最後のコーナーでは宝物庫の模型や保存の様子を。模型とは言えど,近寄りがたいオーラを放つ扉。
 
  さて,平成館を後にして,東洋館では特別展「人,神,自然」が圧巻。東博がこんなの所蔵してたの?とびっくりするくらい,初めて見るものばかり。それもそのはず,東博ではなくカタールの王族の「ザ・アール・サーニ・コレクション」の名品展でした。

 このコレクションは2020年春からパリで常設の公開が始まるのだそう。古代から近現代まで網羅するすばらしいコレクションとのこと。ああ,そんな。パリに行きたくなってしまいます。 入口の看板。ピンボケなので小さめに。 最後に本館では「文化財よ、永遠に」展も。今年の秋の東博はお腹いっぱいになりました。

読んだ本,「ダブリンの緑」(建畠晢)

  あっという間にカレンダーも残り1枚になってしまった。もう少し落ち着いて日々を振り返りながら過ごしたいのだけれど,次から次へと追い立てられて動く歩道をつんのめりながら歩いているような毎日だ。

 11月の神保町古書まつりで手に入れた建畠晢のエッセー集「ダブリンの緑」(五柳書院 2005)を読了。こんなエッセー集が出てるなんてまったく知らなかった。偏愛する詩人が語るつぶやきに耳を傾けるには,静かな部屋の中よりも,静かな苛立ちに満ちた満員電車の中がうってつけだった。

 どの短文もちょっと変人(?)ぽい詩人の頭の中をのぞくようで愉快千万,しいて挙げればという感じで「回文」の天才女性とのやり取りが面白かった。(ただし,「私,いまめまいしたわ」はその人の発明ということになってるけど,古典じゃないのかなあ,とは思いました。)

 回文の定義の妄想は引用すると長くなるので,その結論部分だけ。「(略)とすれば回文とは,時間の中に不意に挿入された鏡,言葉(時間)を反射する鏡とは言えまいか。(すべてを回文にしてしまうあの少女の天才とは,その鏡のきらめきなのだ。)線形に継起する日常的な言語が,突然,その鏡によって逆転される時,私たちは一種の快感を味わうが,それはおそらく時間を空間として体験することの快感なのである。」(p.95より)

 この少女とは詩人のお見合いの相手だったらしいが,同席した田村隆一と共に酩酊した詩人に,「建畠,果てた」と冷たく言い放ったのだとか。抱腹絶倒とはこのこと!

 ところで本のタイトルの「ダブリンの緑」はあとがきのタイトル。ジョイスの「ユリシーズ」を読まないことには,到底理解できない世界がそこにある。(酒井忠康の未読のエッセイにも「スティーブン・ディーダラスの帽子」というのがある。)人生の残り時間は短いというのに,宿題はどんどん増えるばかりだ。