2020-03-29

読んだ本,これから読む本,オクタビオ・パス,「ラテンアメリカ5人集」「インドの薄明」

  堀江敏幸の小説に出てきたオクタビオ・パスの短編「青い花束」はこの「ラテンアメリカ五人集」(集英社文庫 2011)に入っている。かなり前に一読した記憶はあるものの,ほとんど忘却の彼方だった。オクタビオ・パスの短編は他に「正体不明の二人への手紙」が入っていて,ともに野谷文昭訳,もう一つ「白」という詩も入っていて,これは鼓直訳。
  「青い花束」は,ある村で旅人が青い目の束を作ろうとする男に襲われる。青い目の束?「こわがらないでください。殺すつもりはありません。ただ目を取るだけです」/僕はかさねてたずねた。/「でも,どうして僕の目がほしいんだ?」/「恋人の気まぐれなんです。青い目の束が欲しいって。この辺りに青い目をした者はほとんどいません」(p.178)
 
  ぞっとするストーリー。この村は南米のどこかなのだろうか。ルイス・ブニュエルの映画を見ているような不気味な高揚感に充ちている。「僕は宇宙とは巨大な信号のシステムであり,森羅万象の間で交わされる会話であると思った。僕の行為,コオロギの鳴き声,星のまたたきは,この会話の中にちりばめられた休止と音節と語句にほかならなかった。僕が音節であるのはどんな言葉だろうか。その言葉を誰が誰に向かって話しているのだろう。」(p.177)
 
 ところで,不思議なフォントと段組みの詩「白」は,一読するも理解が難しい。解説を読んで頭に「!!」と灯った。パスは51年から52年にかけて日本・インドを旅し,62年にはインド大使として赴任という東洋体験を持つ。「白」はこのインド滞在中にデリーで書かれたのだという!「東斜面」(1969)という詩集に所収。
 
  「白」は巻物を広げていくときのように読んでほしい,と自ら語ったらしい。段組みを無視して言葉だけを抽出して一部分を引用してみる。/が改行を表す。「非実在的な/ことばが/沈黙に実在性を与える/沈黙は/言語の組織である/沈黙/封印/額の/くちびるの/閃光/蒸発する前に/現われるもの消えていくもの/実在性とそれらの蘇生/沈黙はことばのなかで憩う」(pp.171-172)
 
  インド旅行から帰ってきて一月以上経つというのに,デリーで書かれたというだけで心がざわつく。あの混沌の中で生まれた詩編が私の中へ入ってくる。語られなかった言葉,触れられなかった額,くちびる。
 
 ところで,パスの「インドの薄明」はパスのインド古今に関する深い考察の書ということ。確か前回のインド旅行の後に購入して未読のままだったと思う。そうだ,あの本を読もうと書棚から取り出して,読み始める前に解説を読んでびっくりした。パスはこの書を,「この本は,『東斜面』の各詩編の長いページ脚注に他ならない」と述べているのだという。
 
 生きていくということは,旅をすることであって,書物を読むことであって,詩を詠むことなのだ,と思う。そしてそのすべてがぐるぐると繋がっている。これからゆっくり読み進めるつもり。 

2020-03-26

2020年3月,川崎新百合ヶ丘,「オルジャスの白い馬」

  先週末,まだ外出自粛とまでの危機感がなかった中,川崎市アートセンターにお気楽に映画を見に出かけてしまった。森山未来が主演しているというのと,チラシのイメージが魅力的なのと,カザフスタン映画「オルジャスの白い馬」が気になっていたのだった。

  森山未来は日本人の役として出演するのかと思いきや,カーライルというカザフスタン人の役で登場する。ストーリーは西部劇みたいでシンプル。しかし映像があまりに美しく詩的で,カザフスタンの草原地帯でうっとりと夢を見ているような90分だった。

  草原の向こうに広がる雄大な山脈の朝と夕景の美しさ! 山の名前はほんとに知らない。天山山脈なのだろうな,というおぼろげな認識しかなくて,たとえばカザフスタンの草原地帯から見た山々の名前とか標高とか,きっと調べる方法はあるのだろう。あの美しい山々の名前を知りたい,と思う。

  ネットで簡単に調べるより,山岳地図とか写真とか,気兼ねなく外出できるようになったら神保町へでかけてゆっくり探してみよう。そういえば,石川直樹の写真展にたくさんの彼の蔵書が出陳されていたことを思い出す。旅は本から始まる,だったかな。この閉塞した日々にも,世界中へ旅することができるはず。

2020-03-22

読んだ本,「あとは切手を,一枚貼るだけ」(小川洋子 堀江敏幸)

 堀江敏幸の新刊を探して,えっと驚く。小川洋子との共作らしい。実のところ,小川洋子は苦手な作家なので,読もうかやめておこうかと逡巡した。そして読み終えて,複雑である。なぜ共作なのだろうか。どういうプロセスでこの話を二人で構築したのだろうか。
 かつて恋人同士だった「私」と「ぼく」の往復書簡の形の小説。「私」を小川洋子が,「ぼく」を堀江敏幸が担当している。それぞれの文体の特徴がそのまま手紙となって綴られているのだが,話の展開がそれぞれの方向に向かってしまい,表面的には往信と返信になっているのに,二人とも自分の語りに陶酔しているような印象を受けてしまう。
 
 「私」の病気,姪っ子の事故,そして生まれてこなかった命。なんとなく苦手な路線で,最後までようやく読み終えたというところ。ただ,小説の細部やモチーフにはいつもの堀江作品と同様,惹かれるものがいくつかあった。オクタビオ・パスの短編と,盲目の写真家ユジェン・バフチャル。
 
 それに対して,小川洋子が「ドナルド・エヴァンズとジョセフ・コーネルは同じ島の住人」と断言している部分には,何でそうなるかな?と呆れとも怒りともつかない感情がわく。
 
 「時間を消すには,写真を消せばいい。小鳥が箱から飛び出してこないように,箱そのものを破壊すればいいのです。」(p.242 「十二通目」(堀江敏幸))

2020年3月,東京目白台,永青文庫「細川ミラー」

  楽しみにしていた展覧会が軒並み中止になってしまい,やっぱりアートがない日常はストレスフルなものだ,と再認識しています。世界を覆うこの災禍が早く収束して,健やかで幸せな日常がすべての人の元に戻ってきますように。
  いくつか開館している美術館を調べて,目白台の永青文庫に初めてでかけてみました。アクセスは美術館の案内にはない,都バスの早稲田バス停から。なるほどHPに載せないわけで,急坂の階段を息を切らしながら登りました。外塀の「永青文庫」のサインがかっこいい。

 展覧会は「古代中国・オリエントの美術」展が開催中。細川護立が蒐集した逸品は,これまでほとんど公開される機会がなかったものばかりということ。15日までの限定公開だった「金銀錯狩猟文鏡」は「細川ミラー」と呼ばれて広く知られているものだそう。国宝です。

 3階の薄暗い展示室に,他の中国美術と並んでひっそりとケースに展示されていました。中国戦国時代,BC4~3世紀の輝きがそのままそこに。金の色彩とまばゆさに,こんな鏡見たことない,という感激に震えます。何度も何度もケースの前を行ったり来たり。
 
 2階のオリエント美術ではイラン出土のイスラム陶器が楽しい。池澤夏樹「パレオマニア」を読み返したばかり。大英博物館の第34室(イスラム美術展示室)を思い出しながら,ああ,やっぱりmuseumはいいなあ,楽しいなあ。と夢のような時間を過ごして,帰りは急坂を下ってバス停へ。 

2020-03-15

2020年2月,インド(8),パトナからデリーへ,そしてアグラへ

  夕刻,パトナからデリーへ再び国内線で移動。パトナは小さな地方空港でレストランがなく,スタンドでビリヤニを注文してみました。そして一口食べて,むせ返る。日本人のツァー客が利用するようなレストランやホテルとは次元の違う辛さでした。。
 
  そしてデリーへ移動し,初日と同じホテルに到着したのは夜10時過ぎ。そのとき事件(?)は起こりました。カードキーを受け取って部屋に行き,ドアを開けようとすると,中からHELLO?!の叫び声が! 事態を把握できず,ドアノブをガチャガチャ回すとドアロックがかかってる。隙間からまたHELLO?!の叫び声。
 
 そうです,先客のいる部屋のカードキーだったのです。びっくりし過ぎて心臓が痛くなる。。添乗員さんがフロントに飛んでいってくれて,指定された新しい部屋のドアを一緒に開けてもらって(ホントに頼りっぱなし),一安心だったけれど,あの部屋にいた人はもっとびっくりしただろうなあ。私の方が侵入者だったわけで。インド恐るべし。何が起こるかわかりません。。これから,旅先ではドアロックを忘れないようにしよう,と心に決める。 
  さて,翌日は特急列車でアグラへ向かいます。鉄道での移動はなんとなくわくわく。車窓からはこんな眺めがずっと続きます。

   2度目のタージ・マハル。前回は雨でしたが,今回は快晴。気分も上がります。前回立ち寄れなかったタージ・ミュージアムTaji Museumも訪れることができて,嬉しい。展示は小規模ですが,ムガール朝の細密画やタージ・マハルの図面など面白かった! 
  次はアグラ城へ。ここも2度目ですが,前回は真夏だったので,今回は美しい庭園の表情になごみます。そのままアグラを後にして,一路デリーの空港へ向かいます。
  ああ,あっという間に時間が過ぎてしまった。バスの車窓から最後のデリーの夕日を眺める。仏教遺跡を巡って宗教のことを考えて,ガンジス河を体感して生と死のことを考えて,もう脳内はパンク状態でしたが,とにかくexcitingとしか言いようのない,濃い旅の時間でした。次はエローラ・アジャンタの遺跡も見たいし,デリーでmuseum巡りもしてみたい。インドに恋をした4泊6日の旅でした。心優しいツァーの皆さん,頼もしいクラブツーリズムのMさん,本当にお世話になりました。またインドでお会いしましょう!

2020-03-14

2020年2月,インド(7),ラジギールからパトナへ:ナーランダ大学跡

  「インドでは,木があればその下にはひとがいる。というよりも,この日射しでは木の下以外に人のいられる場所はない。人が屋外で何かするためには,まずその場に木を植えておかなければならないという感じ。だからこの国には,森も多いけれど,一本だけの美しい木がたくさんある。木を植えるところから文明が始まったのだろう。」(池澤夏樹「パレオマニア」インド扁その1より (集英社刊 p.71))
 
 樹の名前はなかなか覚えられない。昼食をとった法華ホテルの駐車場にて。ラジギールをあとにして,この日のうちにデリーへ戻るためにパトナの空港へ向かいました。途中,玄奘三蔵が旅の目的地としたナーランダ大学跡へ。
 
 ここはブッダの時代にはそれほど重要な拠点ではなかったらしい。この広大な佛教大学の遺跡は5世紀グプタ朝以降のもの,ということ。玄奘三蔵が旅の目的地としたのがこのナーランダ大学です。おお,「天竺への旅」の終着地だったわけ! 2015年に西安へ旅行したときに,ここから玄奘三蔵が天竺へ旅立ったのか,と感慨深かったことを思い出す。そして終着地に来てしまった。旅のパズルがするすると埋まっていくようで,何だかとても痛快な気分です。
 
 大学跡は広く,往時1万人の学生と1500人の僧侶が生活していたのだとか。しかし13世紀イスラム軍の攻撃により破壊され,焼き尽くされる炎と煙は半年間続いたという。出口へ向かう途中,美しい庭園で若いカップルが結婚式を挙げていました。

2020年2月,インド(6),ラジギール:霊鷲山,竹林精舎

  霊鷲山にはバスを降りて1キロほど山道を登ります。霊鷲山(りょうじゅせん・グリッドラクータ山)の名前の由来はこの岩の形。なるほど,鷲に見えます。
 
  朝から冷たい雨で,霧もかかってます。今までほとんどの旅行で,全行程快晴だったことって一度もないな。。たいてい一日はこんな感じになる。人生とおんなじだな,などとつらつら考えながら,山頂近くの香室跡に到着。おおお,上空からここを撮影した映像をテレビで見たことある!日の出を迎えるブッダがここで説法をしたといい,巡礼者たちの聖地ということ。 
途中,猿がこちらを見てた。
 下山後,マガタ国の王ビンビサーラが王子のアジャータシャトルに幽閉された牢獄の跡を見てから,竹林精舎へ。竹林精舎はビンビサーラがブッダに寄進した寺院なので,順番としては逆ですね。ブッダに深く帰依したビンビサーラ王の,哀しい人生の結末を先に見てしまったというわけ。
 
 竹林精舎は後の復元らしいけれど,瞑想に適した静かな場所ということが偲ばれます。雨も上がってきました。竹林の静寂がとても心地よい。

2020年2月,インド(5),ラジギールへ

  ブッダ・ガヤを早朝出発して,ラジギールへ向かいます。ところで,前日ブッダ・ガヤのホテルにチェックイン時,ルームキーでドアは開いたものの,カードを差し込んでも部屋の電源が入らず,フロントでカードキーを再調整してもらいました。今思えば,これが最終日デリーのホテルでの事件(!)の予兆だったのかも。。

 さて,ラジギールはブッダの時代にマガタ国の首都・王舎城(ラージャガハ)のあったところ。ブッダが晩年滞在し,説法を行った聖地である霊鷲山へ向かう途中,マガタ国の繁栄を示す遺跡を見学。これは当時の戦車の轍の跡なのだという! 朝からの雨が轍に溜まっています。

2020-03-08

2020年2月,インド(4),ブッダ・ガヤへ

  早朝のガンジス河から一旦ホテルに戻り,一路向かったのはブッダの成道の地,ブッダ・ガヤです。走り出したバスがすぐに大渋滞にはまり,約5時間の予定だがどのくらいかかるかわからない、到着は暗くなってからかも,というガイドさんの苦悩(?)はすぐに解決。車はすい,と進み出し,一路ブッダ・ガヤへ。(あのまま,車が進まなくなっていたら,コルタサル「南部高速道路」のようなストーリーが生まれていたかも!)

 まず,ネーランジャラー河(尼連禅河)を橋の上から眺めます。まったく水流のない風景。対岸にブッダ・ガヤの大塔が見えます。そしてそこからほど近いスジャータ村へ。苦行を捨てたブッダはここで乙女スジャータの捧げる乳粥を食し,尼連禅河で沐浴してからブッダ・ガヤへ赴き,菩提樹のもとで悟りを開いた,という。
  尼連禅河とスジャータ村のストゥーパ。美しく整備されたサールナートとは趣が異なり,入口だけでなく,ストゥーパを囲む柵越しにも物乞いの手が伸びてきます。彼らは仕事としてやってるんですよ,とガイドさんは言うのだけれど,幼い子を抱いて切ない目を向けてくるその手を無視するのは結構辛い。

  バスは再び橋を渡ってブッダ・ガヤへ。ブッダがまさに悟りを開いたその地に建つ大菩提寺(マハーボディ寺院)の大塔はストゥーパではなく,祠堂なのだそう。玄奘三蔵が訪れた7世紀にはほぼ現在と同じ規模のものが建っていた,というのだけれど,それを今私は目にしているのだ,ということがもはや現実のものとは思えない。ブッダが悟りを開いた場所!玄奘三蔵がやってきた場所!

 五体投地をするたくさんの巡礼者があふれ,五色の装飾が翻り,想像以上に鮮やかな世界がそこに広がっています。ここは仏教遺跡ではなく,現在進行形の信仰の場なのだ,と実感。ツァーの特典で,菩提樹の下で僧侶に読経してもらいました。母と友の面影にそっと手を合わせてみる。

 
 ブッダの生涯の順番としては,ここブッダ・ガヤからヴァラナシを経てサールナートへ向かったことになります。あまりに壮大すぎて,くらくらしてくる。ホテルの夕食時に,乳粥がふるまわれました。砂糖と蜜を加えて牛乳で煮たお粥ということ。甘くて美味しかった。

2020-03-07

2020年2月,インド(番外編),三島由紀夫のヴァラナシ

  帰国してから,「暁の寺(豊穣の海 三)」(新潮社 1970)を読み返した。バンコクばかりが印象に残っていて,本多がヴァラナシ(ベナレス)を訪れていたことをすっかり忘れてしまっていた。この「三島のヴァラナシ」を出発前に読まなくてよかった,と思うくらいに強烈だ。二つある火葬ガートの1つ,マニカルニカ・ガートの描写。

  「川風は死に,あたりの空気には息の詰まりそうな暑気が澱んでいた。そしてベナレスではどこでもそうであるように,静寂の代りに喧騒が,人々のたえまない動き,叫び声,子供たちの笑い声,読誦の声などが,そのガートからも渾然ときこえてきた。人ばかりではない。子らのあとを痩せた犬が追い,又,火に遠い片隅の階段が暗く没した水の中からは,突然,牛追いのけたたましい叫びに追い上げられて,沐浴の水牛どものつややかな逞しい黒い背が,次々と踊り上がってきたりした。階段をよろめき昇るに従って,それらの水牛の黒く濡れた肌には,葬りの火が鏡面のように映った。/焔は時には概ね白煙に包まれ,煙の間から日の舌をひらめかせた。寺の露台へ吹き上げられる白煙が,暗い堂内に生物のように逆巻いていた。/マニカルニカ・ガートこそは,浄化の極点,印度風にすべて公然とあからさまな,露天の焼場なのであった。しかもベナレスで神聖で清浄とされるものに共有な,嘔吐を催すような忌わしさに充ちていた。そこがこの世の果てであることに疑いはなかった。」(原文は旧仮名・旧漢字。pp68-69)

  蛇足ながら,物語の終盤,本多がジン・ジャンを想う場面。帰国してからこの方,毎日ふわふわした気分で過ごしてしまっていたが,がつんとやられた。

 「本多は嘗て知らなかった少年期の初々しい恋心に似たものが,五十八歳のわが身に浸透してくるのに愕然とした。/本多が恋をするとは,つらつらわが身をかえりみても,異例なばかりでなく,滑稽なことだった。恋とはどういう人間がするべきものかということを,松枝清顕のかたわらにいて,本多はよく知ったのだ。/それは外面の官能的な魅力と,内面の未整理と無知,認識能力の不足が相まって,他人の上に幻をえがきだすことのできる人間の特権だった。まことに無礼な特権。...」(同上 p.268)

2020-03-01

2020年2月,インド(3),ヴァラナシ・ガンジス河の夜と朝

  夕暮れに向かうヴァラナシの市街地。「はぐれないようについてきて」という現地ガイドさんと,頼もしくメンバーの最後尾を歩いてくれる添乗員さんに挟まれて,ひたすら歩く。翌日にヒンズー教の神様のお祭りがあるといい,大変な人混みの中を半ば呆然としながら進みました。いきなりディープ過ぎるんですけど。。モスクなど,撮影禁止のスポットには銃を構えた軍人さん(?)もいて,びびりまくりです。一人旅は絶対無理だ。いくら若い時でも。
 
  「迷路の道」と呼ばれる界隈を抜けると,突然視界が広がります。あっと息を呑む間もなく,煙があがる一角に足を踏み入れると,「火葬ガートです」とガイドさんの声がレシーバーから脳天に響く。知識として脳内にあるものと,今視覚に直接訴えるものは同じなのか。私が今見てるのは,死体を焼いている煙なのだ,という単純な戸惑い。傍らにはうずたかく薪が積み上げられている。 息を呑んだまま視線をずらすとそこには広大な川が流れている。
  出発前に読んだ小説(「百年泥」)のイメージを思い出すかも,などという甘い予想は吹き飛ばされるような衝撃でした。そのまま,ヒンズー教の夜の祈りの儀式である「アルティ」を眺める。昼間サールナートにたくさんいた,仏教徒の巡礼者もガンジス河に来るのかとガイドさんに問うてみました。仏教徒もお釈迦さまが沐浴したガンジスには来るけれど,ヒンズー教徒のように沐浴はしないとのこと。水ではなく,ガンジスの砂を大切に持ち帰るのだそうです。

 そして翌朝,まだ暗闇の中再びガンジス河へ。ボートに乗り,朝の沐浴風景を眺める。冷たい風に吹かれながら,生と死の流れの上を進んでいるんだと思うと,思わずじわっときてしまう。この1年の間に訪れた近しい人たちの死をやっと実感したような気もしてきました。ボートから降りて間近で見る沐浴風景は何というか生生しくて,ちょっとしり込みする。朝の儀式。

  やがて日が昇り,朝焼けのガンジス河。ガイドさんによると,遺灰を流すのはヒンズー教徒でも仏教徒でも構わないらしい。また来たいという想いと,今度くるときはここに流してもらうときかな,という想いと。