数日前のこと,朝日新聞の一面に,インドの人たちが頭上に荷物を載せて歩く写真が掲載されていた。その写真にはこんなキャプションがついている。「インドで全土封鎖が敷かれた3月26日,首都ニューデリーから故郷へ徒歩で向かう出稼ぎ労働者たち」(ロイター)。
前日に解雇されたという42歳のある運転手は,ニューデリーからウッタルプラデシュ州の故郷の村まで約150キロを2日かけて歩いて帰ったという。チャパティ4枚と下着,150ルピーがすべての所持品だったという。
コロナ禍が収束したらまたいつかインドに行きたい,と呑気に考えていた私はインドの地図でウッタルプラデシュ州を探して唖然とする。ヴァラナシの属する州じゃないか。デリーからヴァラナシまで,ほんの1時間半ほどの快適なフライトを楽しんだのがこの2月のことだ。150ルピーは約200円くらい。空港で買った紅茶は1袋500ルピーくらいだった。ほんの数か月前のあの時,今のこの世界のありようなど,想像だにできなかった。
スーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」(みすず書房 2003)は「戦争写真」への論考である。権力を持つ一部の人間が引き起こす戦争という「悪」と,それを写す「残酷な」写真を見ることへの洞察の書は,自分たち自身が今,コロナ禍という苦痛の中で生きている私たちにとって,文脈が異なるものだろう。
しかし,と思う。世界の「貧困」に苦しむ人たちがこの災禍の中で受けている苦痛を写すこの1枚の写真は,経済大国のシステムの中で生きる富める者にとって,思わず目を背けたくなる「残酷な」写真であることに違いはない。私たちはこの光景の「当事者」と自覚しなければならないのではないだろうか。
ソンタグの論考について語るような不遜な真似は私には決してできないし,ここでこの本からいくばくかの文章を引用すること自体が,己が無知を露呈するようなものと思うのだけれど,1枚の写真の衝撃から思わず読み返した忘備録として。
「同情を感じるかぎりにおいて,われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は,われわれの無力と同時に,われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて,それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ無罪ではあっても,無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに,彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し,或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように,われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない―われわれが想像したくないような仕方で―という洞察こそが課題であり,心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。」(pp.101-102)
0 件のコメント:
コメントを投稿