2021-04-26

読んだ本,「荒地の恋」(ねじめ正一)

  古書ほうろうの店頭で購入した「荒地の恋」を読了(文藝春秋 2007)。「荒地」の詩人たちの複雑な人間関係は興味はあるものの,あまり覗き見趣味的な関心を持つのもいかがなものかとちょっと敬遠していた小説。手に取ったのも何かのきっかけだろうと読んでみた。

 田村隆一も北村太郎も「活字の中の詩人」だったのだが,読み終えてまるで「ドラマの中の俳優」みたいに思えてしまった。実際,数年前にドラマ化もされていたらしい。フィクションだと思えば面白いストーリーだが,これは実話なのだ。私という人間の生きる世界の価値観倫理観とあまりに一致点が見つからないので,これはフィクションと割り切って読まないと脳内が拒否反応を示す。

 ねじめ正一の文章(私は彼の詩をほとんど読んことがない)が読みやすいのが救い。なんとか最後まで読み通し,北村太郎の詩作(各章のタイトルになっている。とりわけ「港の人」を。)を読み返したいという思いだけが残った。東近美で深瀬昌久の「鴉」を見た直後だったので,こんな場面が印象に残る。

 「屋上のカラスが騒いだ。方向転換したカラスはふわりと上昇して彼らの横に止まった。信号が赤になり,人が溜まり出した。北村は一度離れた電柱に背中を預けた。ひどく疲れて,このままここにうずくまってしまいたいほどだった。目を閉じ,乱れた息をととのえてからふたたび目を開けると,カラスたちは消えていた。」(p.265)

2021年4月,東京御茶ノ水・湯島・駒込,ニコライ聖堂・湯島聖堂から東洋文庫「大清帝国展」へ

 宝生能楽堂の公演(「魚説法」と「賀茂」)については稿を改めて。昨秋からの観能記録がたまってしまっています。で,都内1泊2日の旅の2日目は御茶ノ水ニコライ堂(復活大聖堂)からスタート,の予定でしたが残念なことに拝観は休止中。外から眺める。
  そのまま徒歩で湯島聖堂に向かいました。実は初めて。東京国立博物館は明治5年(1872)の湯島聖堂博覧会が創立・開館の時となってるとのこと(同館HP「東博の歴史」より)。古写真で見る金の鯱が前庭の真ん中にどーんと据えられた大成殿のイメージがインパクト大ですが,実際の前庭は意外とコンパクト。

  ところで,大きな孔子銅像の近くに美しい巨木があり,思わず足を止めてうっとりと見上げました。楷樹-かいの木。由来書には「山東省曲阜の孔子墓所より持ち帰った種子を苗木に育て,当地に植えられたもの」とあります。「楷」は「楷書」の語源となったと言われているそうでなるほど,枝ぶりの美しさは楷書の美しさを思わせるものだったわけだ。(ん? 逆?) 近寄ってみたり離れてみたり。

  短い短い旅の最後は御茶ノ水駅前から駒込駅行きのバスに乗ってほんの10分ほど,東洋文庫で開催中の「大清帝国展 完全版」へ。昨冬に開催された「大清帝国展」とあわせて,清の「はじめから終わりまで」紹介する展覧会とのことですが,タイトルにはQing Dynasty: Last Emperor, Last Dynastyとあります。ラストエンペラー好きにはたまりません。
 
  さまざまな史料を通して清の姿を,「大衆,官僚,宮廷,外国人など」の視点から追っていく(チラシより)とても刺激的な展示です。とりわけラストエンペラー愛新覚羅溥儀の自筆の扇の前ではしばし時を忘れる。「時」の流れと人の「生」と「死」と。愛新覚羅家の人々には興味があって,いろいろ本を買ってあるので時間ができたら読んでみなくちゃ。

 さて,「旅」はやはり移動する「距離」も必要ですね。あまりに日常の延長の2日間だったので駒込から上野駅に立ち寄って諸国名産(?)のおみやげを買いこみました。無理やり旅気分の辻褄を合わせて帰宅。 

2021-04-20

2021年4月,東京竹橋,「幻視するレンズ」展

  新宿でモンドリアン展を見たその日は,水道橋の宝生能楽堂で観能の予定があって,帰りが遅くなるのが気がかりなのでお茶の水で一泊することにしました。旅行を我慢する日々,ちょっとした1泊2日の小旅行気分です!

 まずは新宿から新大久保に移動してインド食材店のアンビカへ。インド旅行の最後に空港で買ったおいしいお菓子を。ソーンパディはカルダモンの香りがする不思議な食感。ティーマサラなども。またカレーやビリヤニを買いに行こう。韓国コスメの店などもひやかして,旅行気分が盛り上がる…かと思ったけど,それほどでもないかな。。

 次は地下鉄に乗り換えて竹橋へ向かい,東京国立近代美術館へ。ここをじっくり見ると疲労困憊するのが目に見えてるので,企画展(「あやしい絵」展)はまた改めることにして特集展示の「幻視するレンズ」展を。 

 「(略)すぐれた写真家とは,少なからず「幻視者」的であるのかも知れません。彼らは眼の前の世界に,他の人には見えていない何かを感知し,あるいは一瞬後に何が起きるかを予想しながらシャッターを切ります。それはまさしく「幻視者」であり「洞察力のある人」の営為なのです。(略)」とイントロダクションに書いてあります。

 なるほどなあ,と思いながらスタイケンやアジェ,中山岩太らが並ぶシュルレアリスムに関わる前半と,深瀬昌久や川田喜久治がたまらない1970-90年代の後半で構成された展示をじっくり堪能。いやあ,面白かった。

 こういう流れで見ると中山岩太の魅力も倍増だな,とか深瀬昌久の鴉は金沢のがいいな,やっぱり土地に感応する暗さがあるのだろうな,とか山村雅昭(ガショウ)は知らなかったな,「植物に」はまさに異世界だな,とか。

 いつもの東近美も,今日は「旅」の途中なのだという無意識の解放感(?)のおかげでいささかテンション高めで歩きました。そんな気分にぴったりの写真展だった。

2021-04-17

2021年4月,東京新宿,モンドリアン展

  久しぶりに美術館へ。損保ジャパン東郷青児美術館がSOMPO美術館へとリニューアルしてから初めて行ってみました。「モンドリアン展」が開催中です。日時指定制だし,入口ロビーには何重もの行列のためのロープが張られているけれど,平日の昼間の観客は少なめ。ゆっくりと見ることができました。

 モンドリアンと言えば晩年の「水平垂直線と原色平面のコンポジション」と短絡的に結びつきがちだけど,そこへ辿り着くまでの変遷をたどる構成の展覧会。副タイトルの「純粋な絵画をもとめて」「自由か束縛か」に惹かれます。

 アムステルダムを訪れたとき,市立近代美術館の常設展示でモンドリアンをたくさん見たのを思い出します。なにしろあの旅では怒涛の美術館めぐりをして,デン・ハーグ美術館まで足を延ばそうか迷ったけれども,モンドリアンはもうお腹いっぱいだな,と結局行かなかったのでした。今回はそのデン・ハーグ所蔵作品が中心。

 初期の風景画から,象徴主義や神智学に傾倒した作品などを経てコンポジションへとその多岐にわたる画業が楽しい。年表を見ると,日本では23年ぶりと書いてあります。家に帰って探してみると,1998年にbunkamuraで開催されたモンドリアン展の図録があった! そういえば渋谷で見たな,と記憶が蘇ってきました。私がモンドリアンでいちばん好きな「赤い風車」もこの時に見たのだった。

 今回は出品されていませんでしたが,この青い空に浮かぶ赤い風車のイメージは鮮烈で,デン・ハーグ美術館に行こうか迷ったのはこの作品をもう一度見たかったから。久しぶりに図録を見返すと,モンドリアンはこの作品について「[空の]青色は,対立する『色彩』を要求します。…自分の経験で言うと,青を背景にして風車を赤く描くことで満足な結果が得られました」と語ったとあります。なるほど。23年を経て納得(!)。

 書棚にはABRAMS社の「MONDRIAN」(Hans L.C. Jaffe)も。もしかしたらアムステルダムの古書市で買ったのだったか,記憶が曖昧です。「ドンブルグの教会塔(1911)」も色彩が魅力的。


読んだ本,「わたしが行ったさびしい町」(松浦寿輝)

 

  「わたしが行ったさびしい町」(松浦寿輝 新潮社2021)読了。「旅すること」に飢えている日々の中で,松浦寿輝の旅をなぞる読書の時間は何物にも代えがたい,得難い時間だった。あっという間に読み終えたのち,何度も繰り返しページを繰る。

 20の章立てのうち,私が行ったことがあるのは国内の上田と上野と中軽井沢だけ。イポー,ニャウンシュエ,長春,トラステヴェレ,ペスカーラなど,洋の東西を問わずその響きだけでも旅心が掻き立てられる。

 今一番行ってみたい奄美の名瀬の章も食い入るように読む。名瀬の古書店で見かけた男がもしかしたら吉増剛造だったのかもしれない,という記述には思わずぐらりとする。私はその時,古書の匂いに充ちた書棚の陰で吉増剛造らしき男を見かけた松浦寿輝をじっと見つめている。

 記憶と忘却。一人であっても道連れがあっても,身軽になることで「さびしさ」に向き合うのが旅なのだ。「さびしい町というのは結局,どうということもないふつうの町のことらしいと改めて思い当たる。逆に言うなら,ふつうの町はどれもこれも多かれ少なかれさびしいもので,それはこのうつし世での生それじたいが本質的にさびしいからだろう。」(p.44「名瀬」より)

 台南の章では,「ここなら幸福な余生をおくれそうだと感じる町」を探しにまた台湾へ行きたい,と書いて吉田健一のエッセイ「余生の文学」が引かれる。読者である私が受け取る悦びはまさに二重の悦びである。

 「吉田健一にとって余生とは,何かが終わった後の時間である以上に,むしろ何かが始まる時間のことだった。『余生があってそこに文学の境地が開け,人間にいつから文学の仕事が出来るかはその余生がいつから始るかに掛っている』(余生の文学)。「文学の境地」がわたしの前に開けるのはこれからだと信じたい」(p.152「台南」より) 

2021-04-04

2021年3月,世界らん展2021,春蘭を買う

  先月末,東京ドームプリズムホールで開催されていた世界らん展にでかけてきました。2019年に訪れたときより会場が狭くなり,訪れたのも会期の終了間際でなんだか寂しい。妖しく美しい花たちに慰めてもらうような気持ちでゆっくりを会場を廻る。

 販売コーナーで春蘭「老文団素」の3条立ての株を買ってみました。開花写真を見ると,翡翠色の花弁が美しい。開花するまで2~3年というところですね,という店主の言葉がうれしい。「未来」を手の中に大事に抱えて帰宅しました。

 

読んだ本,「旅する練習」(乗代雄介)

 

  芥川賞の候補だったということで,新聞の書評で気になった「旅する練習」(乗代雄介 講談社 2021)を読了。コロナ禍の中,中学入学を控えたサッカー少女の姪と小説家の叔父が利根川沿いを徒歩で鹿島を目指す物語。少女はサッカーの練習を,叔父は風景を文章で写生する練習をしながら旅をする。

 読み始めるとすぐにそもそもの設定が気になったり(小学校を卒業したばかりの年頃の少女が叔父さんと二人で旅をするだろうか),ライトノベルのような話し言葉が続く会話が気になったり,柳田國男や小島信夫などの著作からの引用の部分が多いのが気になったり(とても興味深いのだけれど)。

 コロナ禍の現代を舞台にしたおとぎ話のようなロードムービー小説なのかな,と読み進めていく。しかし,残りのページもほんのわずかというあたりから,不穏な空気が漂い始める。そして迎える結末。この最後の1ページのための物語=旅だったのか。

 不条理への抵抗としての記録という文学。真言宗の真言やジーコの自伝,トリの生態など,魅力的なモチーフもあり,この作家はまた読んでみよう。我孫子の鳥の博物館にもいつか行ってみよう。少女のリフティング姿を思い浮かべながら。

 「書き続けることで,かくされたものへの意識を絶やさない自分を,この世のささやかな光源として立たせておく。そのための忍耐と記憶―私はみどりさんの言っていたことが気になって,ジーコの自伝にその言葉をさがした。『人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ』」(pp.130-131)

2021-04-03

2021年4月,君子蘭の開花


 今年も君子蘭が開花した。ほとんどの株に花が着いたのは久しぶり。ひしめき合うように大輪の花が咲き競っている。昨年の開花時はちょうどステイホームの生活に戸惑いを覚え始めて,不安な気持ちでオレンジ色の花びらを見つめていたのを思い出す。

 「あの頃の未来」である「今」を一体だれが予想できただろうか。冬頃にはコロナも収束して海外へも旅行できるだろう,という期待は今思えば甘く楽天的なものだったけれど,それは何としても,というすがるような祈りでもなかっただろうか。