2023-04-27
2023年4月,東京恵比寿,「深瀬昌久 1961-1991」・「TOPコレクション セレンディピティ」,読んだ本「写真史家・金子隆一の軌跡」
2023-04-19
読んだ本,「親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語」(吉原真里)
二人のプライベートな書簡を公表することに関しては最終章コーダが詳細を教えてくれる。深い躊躇と熟考の末だったことがわかり,寧ろバーンスタインとその家族を守り通す筆者の力量に驚く。
書簡が語る愛の物語と同じくらい,コーダに綴られた筆者・吉原真里の文章は心打つ内容だ。「個人のミクロな物語は,歴史のマクロな構造のなかで織りなされる。/天野と橋本のそれぞれがバーンスタインと育んだかけがえのない関係。それは,戦後の日米関係史,音楽産業の発展,そして世界の政治関係の流れのなかでこそ進展していった。(略)それと同時に,ふたりがバーンスタイン亡きあと三十年経ったいまでも抱きつづける,マエストロとその芸術への深い愛は,そうした歴史や構造を超越したものである。それを可能にしたのはまさに,音楽,そして芸術の力であろう。」(pp.412-413)
2023-04-17
2023年4月,東京池袋,「眩暈 VERTIGO」
昨年の暮れの頃,吉増剛造がジョナス・メカスを悼むドキュメンタリー映画「眩暈 VERTIGO」が上映されるとみすず書房のサイトで知った。これは行かなくては,と思いつつもタイミングを逃し続けてしまったのだった。
何か大切なことを忘れている気持ちのまま,池袋の文芸座で1日だけの上映イベントがあると知って感激。出かけてきた。先週末のこと。ジョナス・メカスの1996年のフィルム「富士山への道すがら,わたしの見たものは…」の併映と,「眩暈」の終映後に吉増剛造といとうせいこうの対談あり,という豪華なプログラム。
「眩暈」は,これはドキュメンタリー映画なのだろうか。死んでしまった映像作家を悼む詩人の魂の姿に,日本語の字幕と英語の字幕とが何重にも重なり,これは吉増剛造の詩そのものを映像で見ているかのようだ。
そしてジョナス・メカス。その震える画面の映像作家の魂もまた詩そのもの。吉増剛造の「詩とは何か」(講談社現代新書)に彼について語る一節があり,こんなくだりが印象に残る。「メカスさんって言う人は,隅っこにいて,つねに世界を人の視線のそばで,かすかにたわんだようなところから見ているんですね。その目,これが大事なのです。狂気までは行かないけれど,どこかでやはり狂気にも近いような,ぎりぎりの控え目さと病と衰弱と,そして少し「はすっかい(斜交い)」から世界を見ているこの目というものが。/詩作とか芸術行為というのは,「わたし」が主役ではないのです。自分で気がつかないことを,ふっと,…そんな仕草の中にこそ,おそらく「詩」というものは少しだけ感じられるものでしょう。あるいは日々の動作の中から,ふっ…と,そうしたしぐさをつかまえる。そのような「弱い」しぐさ,見振りの中に,おそらくは「詩」というものが立ち現れてくる瞬間はあるのです。」(p.113)
2023-04-13
読んだ本,「本のなかの旅」(湯川豊)
「本のなかの旅」(湯川豊著 中公文庫 2016)読了。著者の湯川豊氏は須賀敦子をよく読んでいた頃,「須賀敦子を読む」の著者ということで読んでみたいと思いつつ,忘却の彼方になっていた。思いがけず古書店でこの文庫本を目にして手に入れた次第。目次を見ただけで心躍る1冊。
宮本常一,内田百閒,ブルース・チャトインと始まって,ル・クレジオ,金子光晴など18名の名前がずらりと並ぶ目次を見ただけで興奮。扱われている本はどれも手に入りやすいものばかりで,旅をしたいという気持ちと,この本を読みたいという気持ちが両方湧き上がる。
ル・クレジオの章にはこんな一節がある。「あらゆる生命は,環をなして結ばれている。そして生命は死んで大地に還り,別の生命としてまた甦る。生と死は,そのように果てしなく循環している。/そういう先住民の世界観を発見し,その意味をさらに深く知るために,フランスの俊英作家はメキシコに家を構えた。一年の半分をそこで過ごし,メキシコを中心に中米を旅しつづけた。ル・クレジオの研究エッセイは,旅から生まれたものであり,旅の到達点でもある。」(p.92)
2023-04-12
読み返した本,「嵯峨野明月記」(辻邦生)
2023-04-06
2023年4月,東京町田,「自然という書物」展
身辺に大きな変化があって,4月から新しい生活が始まりました。生活のリズムがまだ全然つかめてなくて,時間がたっぷりできたはずなのにへとへとに疲れてしまう日々。こんなことでは徒らに時間が過ぎてしまう。とにかく外へ! まずは町田市立国際版画美術館へ向かいました。
「自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート」展が開催中です。植物画の起源を見れるかな,というくらいの期待度だったのですが,これがすごい展覧会。これほど深い内容とは想像もしてませんでした。
そもそもタイトルの「自然という書物」とは「キリスト教の自然観を反映した古くからのトポス(常套表現)である。父なる神によって創造された被造物である自然は「第一の書物」である聖書と同じく,神の真意が刻まれた読み解かれるべき「第二の書物」とみなされていた」とのこと(図録p.25解説)。
ヒストリカルな展開を楽しみつつ,1冊ずつの精緻な自然の姿も楽しんで,ロバート・ジョン・ソーントン(編)の「フローラの神殿」には大感激,下の写真のエルンスト・ヘッケル(著・画)の「自然の芸術形態」には思わず釘付け。
最終章の「デザイン、ピクチャレスク、ファンタジー」もとても素晴らしい展示でした。ピラネージあり,ラスキンやターナーやバーン・ジョーンズあり,ミュシャやビアズリーもあり,ととにかく眼福。もう随分と昔のこと,銅版画を少しやってみたくて多摩美の講座に通ったことがあったけれど,すっかり過去のことになってしまいました。版画美術館のアトリエに一日講座の案内が置いてあって,ぜひ申し込もう!と心に決めたのでした。