2013-01-27

読んだ本,「生は彼方に」(ミラン・クンデラ)

  ミラン・クンデラ「生は彼方に」(西永良成訳,早川書房 1978,1995改訂新版)を,読み始めてからあちこち寄り道をしていたせいで,随分と長い時間をかけて読了。クンデラの小説の執筆の順では「冗談」の後,「存在の耐えられない軽さ」の前という位置づけです。

 「抒情主義」を批判する天才詩人ヤロミルの短い一生が描かれます。彼を溺愛する母親と,やがて出会う赤毛の恋人。祖国チェコの革命への希望と失望。時も距離も政治体制もはるか遠くの物語なのに,魅力的な人物たちに感情移入してぐいぐい読み進められる小説です。

 訳者あとがきによると,この主人公にはクンデラ自身が投影されていると考えられるということ。抒情主義が全体主義の構成要素だと考えるクンデラの,抒情の精神から訣別し,「小説の精神」への転回を示す特異な地位の小説と言えるのだそう。

 一人の人間の生において「詩」とは何だろうか,と絶えず考えながら読む。『彼が書いた詩は,まったく自立的で,独立し,理解不可能だった。だれとも馴れあわず,ただ“存在”するだけに甘んじている現実そのものと同じほど,独立し,理解不可能だった。だから,この詩の自立性はヤロミルにすばらしい逃げ路,夢みていた“第二の生”の可能性を差し出していた。彼はそれを美しいと思うあまり,翌日から新しい詩を書こうと試み,やがてすこしずつその活動に没頭していった。』(p62より引用)

 作中には,ヤロミルが読むランボーやバイロン,エリュアールなどの詩と人生の逸話も数多く登場します。『自分の死を夢みたことがない詩人とは何者だろうか?死を想像したことのない詩人とは何者だろうか?』(p304より引用) という一節を読むと,人はみな生まれてから死ぬまでの間,詩人としての生を生きているのではないのか,と逆説的に考えてしまう。だからこそ,死ぬまでに一篇でいいから真実の詩を書いてみたいものだ,とも思えてくるのでした。

 ところであとがきに,この小説の話法とテンポに関してのおもしろい説明があり,読んでみると「小説の精神」(ミラン・クンデラ著 金井裕,浅野敏夫訳,法政大学出版局)からの引用でした。この小説のテンポには音楽的な配慮がなされているというくだりは,第一部 11章71ページ・モデラート,第二部 14章31ページ・アレグレット,第三部 28章81ページ・アレグロ…といった具合。とても面白いので,「小説の精神」についてはまた日を改めて。

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