2021-09-24

読んだ本,「アジアの不思議な町」(巖谷國士)

 
 古書市のクラリスブックスの棚で見つけた「アジアの不思議な町」(巖谷國士,筑摩書房 1992)を読了。中国,韓国,東南アジア,インドネシアの島々,ネパールからインド,イスタンブールへの旅が1つの都市について約10ページずつ,端正で繊細な文章でまとめられている。ほとんどが著者の撮影だという写真も楽しい。カバー写真はタージ・マハルのモスク。あっ,あの場所!と心が躍る。

 この本には姉妹編として「ヨーロッパの不思議な町」という著書があるということ。巖谷國士=フランス文学者という認識からは,なるほど「ヨーロッパ」編の方がしっくりくる。あとがきには著者自らが「アジアには,いわば先天的に未知なるものがひそむ。こんにちの日本人にとってはなおさらそうであろう。そのためか前回にくらべてみると,ここでは既知が未知へと裏がえる瞬間の不思議にだけでなく,はじめから未知であるものの不思議にも身をひたし,未知のなかで遊泳するといった場面が少なくなかったようである」(p.185)と書いている。

 そうか,アジアの町に旅して感じる「不思議」は「未知のなかで遊泳する」感覚なのだな,とこれは皮膚感覚として実感できる。この本に出てくる町のうち,私は北京,ソウル,香港,バンコク,シンガポール,デンパサール(バリ),ヴァラナスィ,アグラ,ジャイプル,デリーに旅したことがある(ドヤ顔である)。

 ページを繰りながら,内省的にも普遍的にも読める美しい一文にはっとすることがしばしばだった。「ガンガーの銀いろの川面に赤い光の筋がうつる。漁船のシルエットがよぎる。空はとてつもなく広い。風が流れる。/宗教的感動とはすこしちがう,だがどことなく宇宙へのひろがりをふくんでいるような,はるかな感動が湧いてくる。光る川面。飛びかう無数の鳥。川鴎,鴉,それに禿鷹。」(「ヴァラナスィ―ガンガーとともに」p.219)

  ところどころに引用される書物も魅力的だ。旅行に際して読んだ本も未知の本もある。書棚から何冊か抜き出してみた。早速,未読の田村隆一にとりかかろう。

2021-09-17

読んだ本,「地上に星座をつくる」(石川直樹)

 写真家の石川直樹の著書「地上に星座をつくる」(新潮社 2020)を読了。すでにここまででいくつかのはてなマークが頭に浮かぶ。石川直樹とは写真家なのか冒険家なのか。この本はほとんどが文章でなぜ写真が少ない(ほとんどない)のか。

 彼は写真家であり冒険家であり,言葉の人でもあるというのが差し当たりの正解なのかもしれない。しかし,ユリイカの石川直樹特集号(2011年)のページを繰っていると,こんな一節に出会った。

 「彼自身の足でたどっている地理的・歴史的な旅のテリトリーがあまりに広大過ぎ」る。(倉石信乃「時と形」同著p.103) まったく同感,と思いながら以下のように続く彼の写真の本質を指摘する箇所にはっとする。

 「この写真家が個々の旅において必ず「死」の接線に触れてから帰還しており,その誘引力に対する複合的な感情を,写真イメージのマージンにいわば『稀薄な剰余』として抱え込んでいると思えることだ」(同上)

 「地上に星座をつくる」に所収の文章は2012年5月から2019年12月にかけて「新潮」で連載されていたものだから,ちょうど2011年のユリイカから現在までの彼の足跡をたどることができる。

 まさに死と隣り合わせのヒマラヤ登山もあれば,「体調が悪い」という一文で始まるインド滞在記もある。しかしどの旅の記録も淡々と,そして生き生きと語られて,それはまさに彼の写真そのものだ。「死」は「生」のすぐ側にあるのだけれども,それだからこそ「生」は輝いているのだと感じさせてくれる。

 鬱々と過ごしてしまいがちだが,国内にこんなに行ってみたい場所があることに驚いて,夢をふくらませている。まずは10月に奥能登芸術祭にでかけたい。石川直樹の写真展示もあるらしい!

 「そうする必要のない場所でプチ冒険をして生還したことに胸をなでおろしている自分がいて,『おれはいったい何をしているんだ…』と思わずにはいられなかった。ここはヒマラヤでもなければ,絶海の孤島でもない。奥能登で最も有名な観光地の砂浜である。(略)『うーむ,これでよかったのか自分』と思ったのだが,とりあえず二人とも無事で何より。/たまには,こんな冒険も,ある。」(p.209)

2021年9月,祖父の押し花・シュンラン

 インテーメディアテクで美しい展覧会を見て帰宅してから,書棚にあった「牧野富太郎植物記」(あかね書房版 1973)をめくって腰を抜かすほど驚く。これは祖父の書棚に愛蔵されていたもの。

  「シュンランとエビネ」のページに,吸い取り紙に挟まれた春蘭の押し花が挟まれていた!大好きな春蘭,祖父も大事に育てていたのかと何だかしんみりしてしまう。一体,何年前の花弁だろう。アクリルのフォトフレームに挟んでデスクに飾ってみた。 

古本市で買った本,巖谷國士など

 少し前になるけれど,たまプラーザ東急で古本市が開催されてました。毎夏,渋谷東急で開催されていた古本市がなくなってしまって残念だったところ,場所を移して開催されたということ。いそいそとでかけてみました。

 2会場に分かれていて,メインはオーソドックスな感じ,第2会場は青いカバやクラリスブックスなど若い人にも楽しめる感じ。どちらも開催2日目ということもあり,充実の品揃えでした。収穫(?)はこんな感じ。

 テレビで対談番組を見てから気になっている石川直樹を特集したユリイカは2011年のもの。若い写真家の10年間が気になる。クラリスブックスで見つけた巖谷國士の「アジアの不思議な町」は1992年刊。まだぱらぱらとめくっただけですが,ヴァーラナシー,アグラ,ジャイプル…などなどの地名に心が踊ります。

2021-09-07

2021年9月,埼玉北浦和,「ボイス+パレルモ」展

  久しぶりに埼玉県立近代美術館へ「ボイス+パレルモ」展を見にでかけました。ずっと気になっていた展覧会、最終日に間に合った! 

 今年が生誕100年のボイス展というのはよくわかるとして,パレルモって誰だ?と気になります。ボイスをして「自身に最も近い表現者だった」と言わしめたというその人は,実質的な活動期間は15年に満たなかったとのこと。

 会場でとにかく驚いたのは,パレルモの線の細さ。「繊細な」という形容が合うのかどうか,ボイスの力の傍らでひっそりと壁に佇む楕円や三角形や,「布絵画」や「金属絵画」には驚きというよりも,どう接したらよいのかわからなくなってきて途方にくれてしまう。

 これが未知の作家の展覧会である「パレルモ展」なら,いろいろ言葉もついてくるかもしれないのですが,何しろ「ボイス+パレルモ」展なのです。

 ボイスはなじみのあるフェルト作品やパフォーマンスの動画展示も多く,それほど目新しい印象の展示ではありませんでした。国立国際美術館で見たIntution「直観」の木箱も。しかし,パレルモ=「自身に最も近い表現者」の作品を鏡とすることで,あの饒舌さは何かの裏返しなのかもしれない,と感じずにはいられない,そんな不思議な体験をした気がします。

 ショップを覗いてみると,図録が意外と高価で,躊躇してしまう。図録の横には若江漢字・酒井忠康共著の「ヨーゼフ・ボイスの足型」が。そうだ,あの本をじっくり読み直してみよう,と手ぶらで美術館を後にしたのでした。

読んだ本,「どこか安心できる場所で 新しいイタリアの文学」(パエロ・コニェッティ他)


 「どこか安心できる場所で 新しいイタリアの文学」(パエロ・コニェッティ他)(国書刊行会 2019)を読了。「ポルトガル短編小説傑作選」と同じコラムで小野正嗣氏が紹介していたもの。本書の序文も氏が執筆している。

 2000年以降に発表された13人の作家の短編15作が収録されている。旅をするように,旅先で何かに出会うように,頁をめくり,琴線にふれるいくつかの短編に出会った。パオロ・コニェッティ「雨の季節」,ヴァレリア・パッレッラ「捨て子」,リサ・ギンズブルグ「隠された光」,そしてイジャーバ・シェーゴ「わたしは誰?」などなど。

 「わたしは誰?」は移民先のイタリアの社会・文化にも,出自であるソマリアの社会・文化にもアイデンティティを見いだせないファトゥが主人公。イタリア人の恋人ヴァレリオと出会うシャガールの展覧会の場面が印象的だ。「とてもありふれたシーンに見えた」(p.105)甘いシャガールの絵を,作家はファトゥに「ところが,シャガールの絵は,実物を見れば,神の魔法ではないかとさえ思われ」と語らせる。(p.106)

 そして,ファトゥが「実物のわたし」に向き合うラストは,読者が「神の魔法」を感じる番と言えるのではないだろうか。「軽やかな気分だった。彼女はもうエキゾチックな女でもなければ,不信心な女でもなく,何者でもなかった。彼女は彼女,自分の言葉と本能だけ,それだけの存在だった。」(p.126)

2021-09-04

2021年9月,東京溜池山王,三浦一馬 ピアソラ・フェス「リベルタンゴ」

  昨年12月の三浦一馬キンテート公演に続いて,サントリーホールにピアソラ・フェスを聴きに出かけました。今回の公演は三浦一馬のバンドネオンに加えて,上野耕平のサクソフォン,大萩康司のギター,宮田大のチェロ,山中惇史のピアノという構成。宮田大のチェロも楽しみだけど,この日はピアノにゲストで角野隼斗が参加する!

  みなとみらいでは三浦一馬のトークが随所に入って,笑いも起こるアットホームな雰囲気のコンサートだったけれど,今回は錚々たる顔ぶれの演奏に奏者も会場もピリっと引き締まってる感じ。オールピアソラの構成は,一曲ごとに大変な盛り上がりです。

 そして休憩を挟んで,「リベルタンゴ」に角野隼斗が登場。旬の人,というだけでなくその演奏には自信とパワーが漲っていてオーラ全開でした。ショパンコンクールも応援しよう。

 どうしてもキンテートのメンバーの演奏と比較してしまいますが,バイオリンとチェロではこれほど曲の印象が違うものなのか,と驚きでした。石田泰尚のバイオリンがぶっ飛んでたせいもあるのだけれど。

読んだ本,「スーパーエンジェル」(島田雅彦)

  島田雅彦の新刊は「子どもたちとアンドロイドが創る新しいオペラ」Super Angelsの小説版とリブレットが所収された1冊(講談社 2021)。オペラの総合プロデュースと指揮は大野一士,作曲は渋谷慶一郎,そして台本が島田雅彦という顔ぶれで,8月にオペラシティで開催された公演のチケットは取れなかった。

 本書の惹句には「 全知全能のアルゴリズム=マザーに支配され,生まれながらに階級で選別されて生きる人類。異端の少年と中古アンドロイドが世界を変えるSF冒険物語」とある。少年アキラはマザーを裏切るゴーレム3の力を得て新しい次元へと踏み出す。

 「カタストロフマニア」にも通じる活劇だが,小説家の想像力とオペラの話法が絡み合って,とにかく舞台を見たかった,というのが読後の実感だ。年内に配信があるそうなので,それを楽しみに過ごすことにしよう。

 「何も知らない人はいう。/パンドラの箱を開けるなと。/災厄が世にはびこるからと。/でも蓋は開けるためにあるんだよ。/邪悪なものなど何もないよ。/おやおや,箱の底に何かある。/キノコみたいなものがある。/ほらほら,これが希望だよ。/希望はここにしかないんだよ。」(pp.66-67)

2021年9月,東京丸の内,「蘭花百姿ー東京大学植物画コレクションより」展

  久しぶりに展覧会を見にでかけました。丸の内のインターメディアテクは東京のど真ん中でこんな展示が見れるのか?!と毎回驚きに満ちた展示を楽しめます。今回の目的は東京大学の植物画コレクションから「蘭花百姿」。蘭好きにはたまらない。

 明治の写生図に始まる植物画はもちろん,標本資料,西洋の蘭図譜,ほかにも盆器類や古写真・絵葉書などなど思ったよりもずっとバラエティに富んだ100点余りの資料がとても楽しい。

 「大日本植物誌」の牧野富太郎原画によるボウランLUISIA TERESにくぎ付けに。以前,京都のみたてで購入したボウランを冬を越せずに枯らしてしまったことがあって(たぶん、水のやりすぎ),でもあの美しい姿が忘れられません。またどこかでボウランを手に入れて今度こそちゃんと育ててみたいなあ,とそんなことを思ったのでした。