2025-08-29

読んだ本,「国宝」(吉田修一)・2025年8月,東京歌舞伎座,「八月納涼歌舞伎」

 「国宝(青春篇・花道篇)」(吉田修一 朝日新聞出版 2025)読了。映画は封切直後に見に行って堪能したのだが,これだけ大ヒットして話題になっているのだから原作も読んでみよう,と思い立つ。朝日新聞に掲載時は,冒頭の場面があまりに凄惨で早々にリタイアしたのだった。

 文庫本上下巻を一気読みして,映画も原作もどちらもめっぽう面白い。至高の芸道小説と読んでもよいし,圧巻のエンタメ小説と読んでもよいのでは。私は後者だったな。ここで物語の筋を追うのは無粋の極みだと思うので,こんな女形についての一節を引用しておしまいに。

 「生前,先代の白虎はよく言っておりました。女形というのは男が女を真似るのではなく,男がいったん女に化けて,その女をも脱ぎ去ったあとに残る形であると。/とすれば,化けた女をも脱ぎ去った跡はまさにからっぽであるはずなのでございます。」(「花道篇」p.258)

 「国宝」に影響されてというわけではないのだけれど,久しぶりに歌舞伎座に。やはり七之助の女形を見なくちゃ,でしょう。「八月納涼歌舞伎」二部は完売なのでこれまた久しぶりに幕見席のチケットを取って(幕見も予約できるようになってた!),いざ4階へ。「日本振袖始」を楽しむことに。七之助の岩長姫実はヤマタノオロチを染五郎のスサノオノミコトが退治する! スカッとすることこの上なし,の酷暑の午後でございました。


 

2025-08-21

読んだ本,「十七八より」(乗代雄介)

 乗代雄介「十七八より」(講談社 2015)読了。既読だと思い込んでいたが,未読だった。もしくはすっかり忘れていた。「二十四五」の景子とゆき江の関係がこれですっきりした。いや,何もすっきりしていない。冒頭,語り手の少女(=十七八の景子)は,叔母が臨終を迎えたときに自分ひとりに「遺言」を残したことを書く。しかしこう続けるのだ。「叔母の遺言について,ここへ書くには及ぶまい。」

 こうして読者は叔母の遺言とは何だったのか,この小説を通して何を読むのか,何を摑めばよいのか,最後まで忍耐強く読み進めても「謎を解くには及ぶまい」とひらりと煙にまかれた感触しか残らない。

 それでも,世阿弥論を説く古典教師とのやり取りや,老女の抗議が延々と続く病院の場面などは読後の余韻として心の深いところに残る。そんな断片としての古典教師の言葉から。

 「純粋に死者と語ろうとする時,私はこの世を離れる努力を強いられているような気がしますが,もう一つ,そんな気分になる時があります。本を読む時です。文字という自然を離れた意味だけができることです。この無機質な記号の海から浮き出す雲に翻弄され,夢中になり,苦悶している時こそ,質的に,死者と語らうことに比肩すべき時間なのではないかと考えるのです。」(p.59)

2025-08-16

2025年8月,東京表参道,三島由紀夫・読んだ本「近代能楽集」・「奔馬」など

 表参道GYRE GALLERYで「永劫回帰に横たわる虚無 三島由紀夫生誕100年=昭和100年」を見てきた。どこから書き起こせよいだろうか。

 今年の春から,某私大のオープンカレッジで「能と文学」という講座を受講している。能を見始めてかれこれ10年近くなるけれど,その都度ネットで詞章を検索して現代語訳を予習して,ということの繰り返しで,一度きちんと「文学としての能」を学んでみたいと思っていたのだった。まだ前期の数回しか受講していないが,すばらしい内容の講義に学ぶ喜び!を感じているところ。

 で,「卒塔婆小町」の謡曲の精読の回に,立ち寄った図書館で「三島由紀夫研究」(鼎書房」という雑誌に三島由紀夫と卒塔婆小町に関する論考が掲載されているのを発見。おや,そうか,三島由紀夫の「近代能楽集」(1968)は未読だった。「卒塔婆小町」を含む8つの戯曲が含まれている。早速新潮文庫版を読了。

 で,件の「三島由紀夫研究」の第7集(2009)は近代能楽集の特集である。巻頭の「能と三島由紀夫」という座談会(松岡心平・松本徹・井上隆史・山中剛史)の記述がとても興味深く,浅学の身に大変勉強になった。

 松岡氏「(略)ただ,三島自身も言っていると思いますが,強度だとか身体の問題を考えたときに,死の場所から生への照り返しということが非常に大きい。能舞台というのは一種の二重構造なんですね。(略)つまり二つトポスがあって,演者は「鏡の間」という死の場所から「主舞台」という生の場所に出て来る。(略)三島の『奔馬』に「松風」が出てきますが,「松風」のような亡霊劇ではこうした舞台の二重性が生きてきますね。(略)」(p.5)

 というわけで,ここで「豊穣の海」が導き出されてきた。通読したのは随分前なので,「奔馬」の新潮文庫版を「松風」が出てくる19節を中心に再読。本多が「松風」の謡いを耳にして輪廻転生に思いをめぐらせる場面。「仏教では,こういう輪廻の主体はみとめるが,常住不変の中心の主体というものをみとめない。我の存在を否定してしまうから,霊魂の存在をも決して認めない。ただみとめるのは,輪廻によって生々滅々して流転する現象法の核,いわば心識の中のもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり,唯識論にいう阿頼耶識である。」(p.226)

 うなされる(?)ように読み進めていたところ,ちょうど新聞の文化欄に表参道の展覧会の紹介記事が掲載されたのが今回のきっかけというわけ。今展は「三島の遺作となった小説「豊穣の海」は,三島にとって一世一代の「反小説」的実験であった。国内外の現代美術家によって三島由紀夫のこの壮大な小説のテーマ「阿頼耶識=相関主義」の一端を浮かび上がらせることが,本展覧会の趣旨である」ということ(チラシより)。

 新聞記事には平野啓一郎の作品(自著「三島由紀夫論」を暴力でねじ伏せている)写真も掲載されていて,その異様な書物の姿にかなり動揺する。会場でも異彩を放っていた。他には中西夏之,ジェフ・ウォールほか。それぞれに作家自身の解説が付されているので,理解の手引きになる。炎暑の一日,実に刺激的な体験だった。

 

2025-08-10

読んだ本,「編むことは力」(ロレッタ・ナポリオーニ)


  「編むことは力」(ロレッタ・ナポリオーニ著 佐久間裕美子訳 岩波書店 2024)読了。新聞の書評欄で見て面白そうだったので読んでみた。編み物はごく基本的な物なら趣味の一つと言ってもいいかも。嫌いじゃないけど,何しろ集中力が続かない。

 この本は編み物の歴史とか,社会的な意味づけを解説するのかな,と思って読み始めたらちょっと趣が異なる。著者やその知人たちの個人的な「物語」を通して「編むこと」が語られる。読み終えて,何かを編みたくなってくるような,いや,もう編み物はこりごり,と思えるような不思議な力を湛える本。

 全8章のうち,特に興味深く読んだのが2章「糸の檻を開ける」と4章「フェミニズムと糸の愛憎関係」。前者には,家庭の中で自分を主張することなく家族のために生きてきた女性が登場する。決して自分を語らず,強迫的に編み物を続けてきた彼女が人生の最後に取ったある行動に家族は動揺するという物語。

 彼女にとって編み物は「都会での新しい生活を改善し,与える者という,自ら選んだアイデンティティを築く助けになった。けれど同時に,編み物は,孤独という現実の独房に,自分の手で作った,鍵穴のない,中からも外からも開けることのできない,子どもすら入ることを許されない檻に,彼女を閉じ込めた。」(p.33) …息苦しくなる描写だが,彼女とともに過ごした家族やコミュニティにとって,彼女がいかに大きな存在だったかが語られるくだりは感動的ですらある。

 4章「フェミニズムと糸の愛憎関係」にはこんな一節。「男性,クィア,トランスジェンダーによる編み物は,特に公の場で行われる時,その時代に対して,マスキュリン,フェミニンの定義に対する疑問を投げかける先頭に立ってきた。編み物は,日常生活の中で,ジェンダーはこういうものだという社会の目線に挑戦することができる。」(p.82)

 そしてエピローグ「必要なのは愛だけ」には,著者自身の人生と編み物についての語りが綴られる。「これまでの混乱は,実は幸福をもたらすものだったのだろうか? 夫,とても快適な生活,二軒の美しい家,富裕社会における特別な場所といったすべてを,私は本当に失ったのだろうか? または反対である可能性もある。私はいま自由を手に入れていて,四〇年間編み続けてきたものが安心な毛布ではなく,拘束服だったのだとしたら?」(p.149) この問いかけに対する彼女自身の答えはあまりに美しく,読む者の心にストレートに響く。

2025年8月,川崎,「トゥランガリーラ交響曲」(神奈川フィル)・読み返す本「遠い呼び声の彼方へ」(武満徹)

 フェスタサマーミューザのプログラムの一つ,メシアン「トゥランガリーラ交響曲」(沼尻竜典指揮 神奈川フィル)をミューザ川崎シンフォニーホールで聴く。まさに音楽を体感する時間だった。プログラムによればサンスクリット語で「トゥランガ」はリズムの推移,「リーラ」は神々による創造と破壊を意味し,「トゥランガリーラ」は「愛の歌,リズムの研究,喜びの賛歌」を意味する造語だそう。

 沼尻氏は「宇宙を揺るがす愛の賛歌」というキャッチコピーをつけている。プレトークで沼尻氏は「エロスの賛歌」としたかったと冗談交じりに語っていたが,なるほど全10楽章,最終楽章に至るまで壮大な「愛の主題」がクライマックスの官能的な熱狂へと導かれる。ピアノ(北村朋幹)とオンド・マルトノ(原田節)が独奏楽器として演奏される。舞台上のオンド・マルトノが珍しくて開演前には写真撮影の人だかりができていた。神奈川フィルのもの凄い集中力と気迫あふれる演奏に感動。踊る指揮者とコンマス石田泰尚から目が離せない。 

 興奮さめやらず,書棚から武満徹の著作を引っ張り出す。若い頃,大いに影響を受けて草月会館の現代音楽講座などにも通ったことがある。「遠い呼び声の彼方へ」(新潮社 1992)にはメシアンが85年に京都賞を受賞したときの祝辞と,92年の逝去を悼む新聞への寄稿が収められている。

 「メシアンの音楽から私はたいへん多くのことを学んだが,そのなかで時間の色彩と形態という観念について学び,またその実証に触れえたことは,得難い経験として消えることはない。」(p.146)
 

2025-08-05

読んだ本,「ティータイム」(石井遊佳)

 「ティータイム」(石井遊佳 集英社 2025)読了。芥川賞を受賞した「百年泥」(新潮社 2018)がとにかくツボだったが,次作の「象牛」(新潮社 2020)には今一つ没入できなかった。そして久しぶりに新刊が出たというので読んでみたところ,これがまた見事にツボにはまってしまった。

 帯の惹句には「注意:本作はまったく優雅ではありません。まず思いつかない,ぶっ飛んだ設定の奇想文学の集合体です。(略)この奇妙さに一度吸い込まれてみましょう。…ちゃんと戻ってきてくださいね。」とある。

 四つの短編には「やたら大人びた兄妹,インドから脱出できない日本人,電車の網ダナの上で生活する女性,恐ろしいサンタクロースが登場」(帯)する。確かに,「奇想」という便利な言葉で一括りにはできそうだが,どれも人間の業が怖ろしいほどの筆力で迫ってきて,頁を繰る手が止まらない。

 著者は東大院のインド哲学出身で,やはり小説を書く行為のすべてを通底するところにインドがあり,仏教があるのだろう。「網ダナの上に」の特急列車の名前は「借馬」と書いて「カルマ」とルビ。「奇遇」で主人公に話しかけてくるインド人の男の名前は「クリシュナ」,彼の思い人の名は「ラクシュミー」。いちいち拾っていくと枚挙に暇がない。読書は私をヴァーラナシーへ,ガンガーの流れへと運んでいく。「ちゃんと戻って」これるのだろうか。

 クリシュナがラクシュミーにヒジュラの「ニルヴァーン(去勢)」について尋ねる場面。「『なんでニルヴァーンをしなければならないの?』『本当のヒジュラになるためよ。以前の身体が一度死に,性力が与えられて生まれ変わるの。わたしたちは神の媒として,赤ちゃんや結婚した人々に祝福を与えるでしょう? それはわたしたちが特別な力を持っているから』『特別な力って?』『〈ニルヴァーン〉とは〈涅槃(ニルヴァーナ)〉,繰り返す輪廻から解放され自由になるの』」(「奇遇」p.136)

2025-08-04

2025年7月,東京渋谷,「レオ・レオーニの絵本作り展」・「アイヌモシリ」

 7月の記録。暑い一日に,渋谷で2つの展覧会を見る。まずヒカリエホールで「レオ・レオーニの絵本づくり」展。「あおくんときいろちゃん」とか「スイミー」とか,やはり名作絵本の原画は気になる。会場は親子連れも多くて和やかな雰囲気。楽しく進んで,おや,と思わず立ちどまる。「平行植物」! そうだ,レオ・レオーニだった。もう釘付けである。

 一見普通の植物画に見えるのだけど,すべて平行世界に棲む植物たち。1つ1つに不思議な名前が付いてるんだよな,家に帰って本棚を探そう,と心に決める。…しかし,見つからない。ちくま文庫の「平行植物」,誰かに貸したままかな,それとも不要な文庫本を処分するときに一緒に段ボールに放り込んでしまったかな。ふと,平行世界へ旅立ったのかも,と思えてきた。ひょっこり帰ってくるかも。そういうわけで買い直すという選択肢はいまのところない。ヒカリエの9階からの渋谷の空。



 國學院大學博物館では「アイヌモシリ アイヌの世界と多様な文化」展を見る。この博物館では2022年に「アイヌプリ」展を見たことがある。今回はウポポイの国立アイヌ民族博物館と共催の特別展。小規模な展示ながら,充実した内容でわくわくする。美しいイタは19世紀後半のシタエーパレ作。
 
 文献類は國學院大學図書館金田一記念文庫の所蔵が多い。これは松浦武四郎の「久摺日誌」の展示。キャプションに「阿寒周辺にて『山中種々の異草有』と記す。延胡索と赤沼蘭の絵図。」とある。時空を隔ててはいるけれど,これはこの世界の植物たち。