2025-12-18

2025年12月,神奈川川崎ほか,英伸三展ほか

  展覧会の記録をいくつか。川崎市市民ミュージアムの企画展が向ヶ丘遊園駅前の商業ビルで開催されている(21日まで)。スーパーやファミレスの入るちょっと年季の入ったビルなのだけれど,写真展の会場はまるで異世界のよう。平日の昼間,来場者も少なく,静かにモノクロの世界に向き合うのは久しぶりに美しい時間だった。ただ会場がコンパクトなので,展示はぎっしり感。

 「英伸三 映像日月抄 そのときのあのこと あのときのそのひと」というタイトルの写真展は,その通りにノスタルジックな内容。しかし,美しいプリントには瑞々しい強さが漲り,会場全体に緊張感をもたらす。

 展覧会のイメージになっている波打ち際ではしゃぐ少女たちの遠景は,「集団就職の若者」の1枚で,彼女たちはふるさとの海に別れを告げているのだった。写真家の眼が捉えたこの海の光は,若者たちの前途を願っているだけではないだろう。その未来に横たわるそれぞれの不安や故郷との別れの哀しみが,寄せては返す波となって,今ここに生きる私の眼に届いて胸が熱くなる。

 英伸三はまったく未知の写真家だった。「町工場」シリーズの工業製品のイメージも,中国を撮影したイメージもとてもよかった。知らない写真家がまだまだいっぱいいるなあ,もっともっと見てみたいと思った冬の午後。

 ほとんど葉を落とし,わずかに紅葉が残る。五島美術館では「古染付と祥瑞 愛しの青」展を見る。古染付の方が余白が多くて好みだけど,祥瑞は「しょんずい」という響きが好き。タイトル通り,これでもかという美しい青の器の数々を堪能。 
 渋谷ヒカリエホールでは「ハンス・ウェグナー展 至高のクラフツマンシップ」展を見る。このホールは展覧会専用ではないと思うけど,ドラマチックに演出されていて楽しい。ただ,フライヤーが小さくてぺろっとしてて,文字も読みにくい。そのせいで展覧会というよりは家具の展示会みたいな印象を受けてしまう。ささいなことなんだけどね。右の写真はウェグナー邸のミニチュアの内部の一部。本のタイトルまで芸が細かい!

2025-12-11

読んだ本,「他人の顔」(安部公房)

 「他人の顔」(安部公房 新潮文庫 1964・2013改版)読了。安部公房は代表作と呼ばれるものは大体読んだつもりでいたが,この長編は未読だった。きっかけはNHKのクラシック番組。この小説の映画音楽を武満徹が手掛けていたのを知ったことだった。映画の脚本も安部公房自身が手掛けたということ。不穏なワルツに心惹かれる。

 事故で自分の顔を喪失した男が,「他人の顔」を仮面に仕立て,失われた愛を取り戻す目的で妻を誘惑する。その長く暗い過程の中で男が行う,人間存在についての考察は,とりも直さず読者に,「顔」とともに生きる人間の存在とは,そして行為とは何かを考えさせる導きとなる。

 思考の羽搏きは幅広く,肖像画とは,フランケンシュタインとは,能面の美とは,ととりともなく広がっていくようでありながら,小説全体の中で無意味な細部など何一つない。深く印象に残った細部をいくつか。

 「肖像画が普遍的な表現として成り立つためには,まずその前提として,人間の表情に普遍性が認められなければならないだろう。(略)その信念を支えるものは,むろん,顔とその心が一定の相関性をもっているという,経験的な認識にほかなるまい。もっとも,経験がつねに真実であるという保証は,どこにもない。さりとて,経験がつねに嘘のかたまりだという断定も,同様に不可能なのだ。」(pp.64-65)

  (フランケンシュタインの小説について)「ふつう,怪物が皿を割れば,それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが,この作者は逆に,その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては,ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに,犠牲者の脆さが,やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。(略)もともと怪物の行為に,発明などありっこなかったのだ。彼こそまさに,犠牲者たちの発明品にほかならなかったのだから…」(p.89)
 
 (デパートの能面展の会場で,能面のおこりは頭蓋骨だったのでは,と思い至り)「初期の能面作者たちが,表情の限界を超えようとして,ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは,一体どういう理由だったのか? おそらく,単なる表情の抑制などではあるまい。(略)普通の仮面が正の方向へ脱出をはかったのに対して,こちらは負の方向を目指しているというくらいのことだろう。容れようと思えば,どんな表情でも容れられるが,まだなんにも容れていない,空っぽの容器…」(pp.100-101)

  映画も未見だが,結末が小説とは異なるということなので,見てみたい。映画音楽について武満徹が何か言及しているかと思い,随筆集を繰ってみた。「他人の顔」に直接言及したものは見つけられなかったが,「時間の園丁」(1996)に「映画音楽 音を削る大切さ」,「エピソード―安部公房の『否(ノン)』」の二編,「遠い呼び声の彼方に」(1992)に「仲代達矢素描」の一編を見つけて,読む。

2025-11-28

読んだ本,「ジョンソン博士とスレイル夫人の旅日記 ウェールズ(1774年)とフランス(1775年)」(S.ジョンソン研究チーム訳)

 「ジョンソン博士とスレイル夫人の旅日記 ウェールズ(1774年)とフランス(1775年)」(S.ジョンソン研究チーム訳 中央大学出版部 2016)読了。アンティークフェルメールの店主塩井さんから頂いたお勧め本である。18世紀英国の文人サミュエル・ジョンソンはともかく,スレイル夫人とは何者で博士とどういう関係なのか,まずは第3部の「解説にかえて(1.ジョンソンの旅,2.ヘスター・リンチ・ピオッツィ(スレイル夫人)小伝)」を読んでから本編の旅日記を読む。

 旅の紀行文は大好き。ぱっと思いつくだけで田村隆一「詩人の旅」,串田孫一「北海道の旅」など詩人の旅,河口慧海「チベット旅行記」みたいな歴史・宗教をたどる旅,ご存知(?)沢木耕太郎「旅のつばくろ」,ぐっとカジュアルに益田ミリの旅日記も楽しくて乗り物の中でよく読む。

 ところがこの1冊は,旅する二人があまりに時空を超えた存在なので,頁を繰りながらまるで語り手が二人登場する映画を見ているようだ。先日,「グランドツァー」を観たばかりだからかもしれない。解説に倣えば,ウェールズ旅行は「産業革命萌芽期」の英国を,フランス旅行では「フランス革命14年前」のフランスの様子が描かれるという,興味深いもの。

 なるほど,そういう読み方のコツをつかむと俄然面白くなる。興味をひかれたエピソードは数多いが,博士がフランス国王の文庫を訪ねた記述(1775.10.24)は,木活字と木版彫りと金属活字の違いを指摘していて面白い。西洋美術館常設展示の西洋写本コレクションを見に行きたくなる。

 もう一つ,夫人がフランス王立博物館を訪ねた記述(1775.10.12)には「最近ビュフォン氏〔フランスの博物学者〕自身が配列した」という珍しい博物標本が詳細に綴られていて,思わず興奮。2023年に町田国際版画美術館で見た「自然という書物」展に出陳されていたビュフォン著「博物誌」を思い出す。そして,神保町で手にいれたビュフォン(風)(オリジナルではないはず)の一葉を手にして,この時空を超えた旅に思いを馳せる。私の宝物の一つ!

2025-11-24

2025年11月,茨城ひたちなか,虎塚古墳の一般公開

 快晴の11月某日,春と秋の年2回のみ一般公開されるのに合わせて,茨城の虎塚古墳に出かけました。関東にも彩色装飾古墳があるんだ!ということを知ったのは確か2年くらい前に明治大学博物館の考古部門の展示を見たときだったか,そのくらいの知識です。九州にしかないのかと思ってた。便利なバスツァーを利用して,古墳内部の見学(4~5人ずつ,5分程度)のあと,隣接のひたちなか市埋蔵文化財調査センターと,十五郎穴横穴群も見学。

 古墳内部の撮影はできません。これは調査センターに展示されている復元です。本物は保存のためにガラス越しの見学ですが,さすがに7世紀初めごろに描かれた文様が鮮やかに残る様子には感動。現地の解説員の方によると,西壁の円文は銅鏡を表しているとのこと,埋蔵品の代わりに壁画を描いた? 諸説あるみたいけど,なるほどなあと得心したのでした。

 十五郎穴横穴群は東日本最大規模の横穴墓群ということで,見学路を進むと穴だらけ。面白かったのはその名前の由来で,江戸時代ころ,人気のあった曽我物語の曽我兄弟にあやかる伝説が生じたのだろうということ。江戸時代の人たちが,古墳時代に歴史ロマンを感じたのかと思うと,バスに揺られてはるばる訪れた身としては激しく共感! 

 さて,この日の旅程は,酒列磯前神社と大洗磯前神社の見学と,大串貝塚の見学まであって,ちょっと過密日程。結構疲れました。

2025年11月,神奈川日本大通り,ネザーランド・ダンス・シアター(NDT2)来日公演2025

 ネザーランド・ダンス・シアターの来日公演を見る。2024年にNDT 1が来日したのに続いて,若いダンサーが集うNDT 2の舞台を堪能。とにかくその驚くべき身体能力と表現力を持った若き身体のエネルギーに圧倒されて,ただただ興奮するばかりの約2時間だった。

 作品は3つ,マルコス・モラウ振付のFolka,アレクサンダー・エクマン振付のFIT,ボティス・セヴァ振付のWatch Ur Mouth。どれも素晴らしいの一言だけど,個人的には現代社会を映し出すコンセプト性が濃厚な後の2作品に対して,祝祭・儀式の色が濃いモラウ作品が刺激的だったな。「意味」を超えた「動き」の強さが直接,観客の五感を揺さぶるというか。

 とにかくも終演後はただただぼーっとして帰路に着き,翌日書棚から引っ張り出したのはこの1冊「バレエの現代」(三浦雅士 文藝春秋1995)。刊行が1995年だから30年前の著作なんだけど,私にとっての舞踊のバイブルなんだな。ちなみに,前橋文学館で来年1月まで三浦雅士の仕事を振り返る企画展が開催されている。ちょっと遠いけど,行きたい。

 「どんな舞踊も生と死の両極を秘めている。(略)舞踊は生と死にかかわらないと成立しないのである。身体を表現の手段にするということはそういうことなのだ。人間は,身体という場において,生まれ,成熟し,老いて,死ぬ。舞踊が,時には恐怖を感じさせるまでに美しいことの,それが理由である。舞踊ほど宇宙を,コスモスを感じさせる芸術はない。」(p.11プロローグより)

2025-11-15

2025年11月,東京東麻布ほか,潮田登久子写真展ほか

 あちこち出かけて記録が追い付かない。東麻布PGIで潮田登久子の写真展を見る。タイトルは「玉里文庫」。「鹿児島大学附属図書館貴重書庫の景色」という副タイトルが示すように,玉里島津家文書を収蔵する鹿児島大学図書館の蔵書を撮影した作品群である。玉里島津家は島津本家の分家にあたる。本家の島津家文書はかつて勤務した職場が関わっているので,私的に思い入れが強い。

 潮田登久子の本の景色シリーズは横浜市民ギャラリーでまとめて見たことがあるので,あくまで「本の(ある)景色」の写真は想定内だけれど,島津家文書のような貴重書となると話は違うというか,「学林玉篇大全」の写真のような古書の扱いには戸惑いしか覚えない。写真家が美しいと思う景色と,貴重書庫の機能の保全とは別の次元のような気がする。もやもやした気分でギャラリーを後にした。


 別日,早稲田大学キャンパスへ出かける。毎秋,ベルリンから帰国する多和田葉子と高瀬アキ(ピアノ)のパフォーマンス「君死にたまふことなかれ」を聞きに行く。毎年,行きたいと思いながら機会を逃していたのでうれしい。

 多和田葉子のテキスト朗読に合わせて高瀬アキのピアノ演奏,赤い日ル女の声のパフォーマンス。1時間ほどの上演時間で与謝野晶子が語られる。面白かったけれども,多和田葉子と与謝野晶子はあまり親和性がないような。「群像」で連載が始まった「不在事件」はこの先が気になるいつもの多和田ワールド。

 開演時間の前に早稲田キャンパスで充実の時間を過ごす。會津八一記念博物館では「リトグラフで辿るアトリエMMGの33年」・「特集展示 奥村秀雄氏書写『東大寺献物帳』」・「富岡重憲コレクション 書と文具」という3つの展覧会が同時開催。こんなに充実した展示が無料でいいんですか?と感動しながら,国際文学館へ。「黒人女性の文学とジャズ展」はまだ準備中だった(13日から開催)。ここは言わずと知れた(?)村上春樹ライブラリーなわけで,とにかくおしゃれ。ハルキ文学のシンパではないので,あくまでそのおしゃれな雰囲気を楽しむ。
 広尾の山種美術館では「日本画聖地巡礼2025」という面白い展覧会を見る。平日午前中なのに,人がいっぱい(自分もその一人なわけ)。みんな日本画が好きなのね,と思いながら楽しく鑑賞。聖地巡礼というわけで現場写真や当時の作家の言葉が添えられていて興味深い。日本だけでなく,中国,イギリス,シルクロードなども。吉岡堅二の「龍門幻想」に感動。そして何より山口晃の「東京図1・0・4輪之段」が最高! 大河ドラマ「いだてん」のオープニングに使われていたとのことで,思わずじっくり覗き込む。ほんと,天才だな。

2025-11-04

2025年11月,神奈川海老名・東京渋谷,ガルシア・ガルシア,グランドツァー

 11月連休は楽しみにしていたコンサートと映画を楽しむ。まずは海老名市文化会館でマルティン・ガルシア・ガルシアのピアノリサイタル。2021年のショパンコンクールで三位入賞,NHKの番組にも出演して大人気のピアニストだけあって,チケットは早々に完売だったとか。何度も来日してるけど,機会を逃していたので今回は期待度満点。

 海老名駅で降りるのは初めて。海老名市文化会館はなかなか年季が入ったホールで,広々とした前庭に中垣克久作のブロンズ像。タイトルは「武満徹『雨の樹 素描Ⅱ』に寄す」(2011)。素描Ⅱは確かメシアンの追憶に捧げられていたよな,とこの夏のメシアンの興奮の記憶が蘇る。

 ガルシア・ガルシアは前半のショパンが素晴らしく,アンコールも5曲も演奏して大喝采。グールドばりのハミングや,パワフルな演奏は陽気なキャラクター全開といった感じ。あくまで私の好みで言えば,後半のリストよりショパンだったな。 

 連休最終日は人込み覚悟で渋谷へ。ル・シネマでミゲル・ゴメスの「グランドツァー」を観る。アジアの迷宮を逃げる男と追う女の摩訶不思議な境地〈グランドツァー〉は,「西洋人には東洋を理解することは到底できないのだ」と主人公エドワードに嘯く老人の台詞が全てを統括(?)している。東洋人が字幕を追いながらこの映画を見るのは何だか本末転倒のような気がしてきた。ベトナム人女性ゴック役はトラン・アン・ユン監督の娘のラン=ケー・トラン。その美しさと言ったら!