2025-08-05

読んだ本,「ティータイム」(石井遊佳)

 「ティータイム」(石井遊佳 集英社 2025)読了。芥川賞を受賞した「百年泥」(新潮社 2018)がとにかくツボだったが,次作の「象牛」(新潮社 2020)には今一つ没入できなかった。そして久しぶりに新刊が出たというので読んでみたところ,これがまた見事にツボにはまってしまった。

 帯の惹句には「注意:本作はまったく優雅ではありません。まず思いつかない,ぶっ飛んだ設定の奇想文学の集合体です。(略)この奇妙さに一度吸い込まれてみましょう。…ちゃんと戻ってきてくださいね。」とある。

 四つの短編には「やたら大人びた兄妹,インドから脱出できない日本人,電車の網ダナの上で生活する女性,恐ろしいサンタクロースが登場」(帯)する。確かに,「奇想」という便利な言葉で一括りにはできそうだが,どれも人間の業が怖ろしいほどの筆力で迫ってきて,頁を繰る手が止まらない。

 著者は東大院のインド哲学出身で,やはり小説を書く行為のすべてを通底するところにインドがあり,仏教があるのだろう。「網ダナの上に」の特急列車の名前は「借馬」と書いて「カルマ」とルビ。「奇遇」で主人公に話しかけてくるインド人の男の名前は「クリシュナ」,彼の思い人の名は「ラクシュミー」。いちいち拾っていくと枚挙に暇がない。読書は私をヴァーラナシーへ,ガンガーの流れへと運んでいく。「ちゃんと戻って」これるのだろうか。

 クリシュナがラクシュミーにヒジュラの「ニルヴァーン(去勢)」について尋ねる場面。「『なんでニルヴァーンをしなければならないの?』『本当のヒジュラになるためよ。以前の身体が一度死に,性力が与えられて生まれ変わるの。わたしたちは神の媒として,赤ちゃんや結婚した人々に祝福を与えるでしょう? それはわたしたちが特別な力を持っているから』『特別な力って?』『〈ニルヴァーン〉とは〈涅槃(ニルヴァーナ)〉,繰り返す輪廻から解放され自由になるの』」(「奇遇」p.136)

2025-08-04

2025年7月,東京渋谷,「レオ・レオーニの絵本作り展」・「アイヌモシリ」

 7月の記録。暑い一日に,渋谷で2つの展覧会を見る。まずヒカリエホールで「レオ・レオーニの絵本づくり」展。「あおくんときいろちゃん」とか「スイミー」とか,やはり名作絵本の原画は気になる。会場は親子連れも多くて和やかな雰囲気。楽しく進んで,おや,と思わず立ちどまる。「平行植物」! そうだ,レオ・レオーニだった。もう釘付けである。

 一見普通の植物画に見えるのだけど,すべて平行世界に棲む植物たち。1つ1つに不思議な名前が付いてるんだよな,家に帰って本棚を探そう,と心に決める。…しかし,見つからない。ちくま文庫の「平行植物」,誰かに貸したままかな,それとも不要な文庫本を処分するときに一緒に段ボールに放り込んでしまったかな。ふと,平行世界へ旅立ったのかも,と思えてきた。ひょっこり帰ってくるかも。そういうわけで買い直すという選択肢はいまのところない。ヒカリエの9階からの渋谷の空。



 國學院大學博物館では「アイヌモシリ アイヌの世界と多様な文化」展を見る。この博物館では2022年に「アイヌプリ」展を見たことがある。今回はウポポイの国立アイヌ民族博物館と共催の特別展。小規模な展示ながら,充実した内容でわくわくする。美しいイタは19世紀後半のシタエーパレ作。
 
 文献類は國學院大學図書館金田一記念文庫の所蔵が多い。これは松浦武四郎の「久摺日誌」の展示。キャプションに「阿寒周辺にて『山中種々の異草有』と記す。延胡索と赤沼蘭の絵図。」とある。時空を隔ててはいるけれど,これはこの世界の植物たち。

2025-07-25

2025年7月,東京六本木,「死と再生の物語 中国古代の神話とデザイン」

  泉屋博古館東京で27日まで開催されている「死と再生の物語 中国古代の神話とデザイン」展を見てきました。「物語」には「ナラティヴ」とルビが振ってあります。中国古代のすぐれた技術によってつくり出されたさまざまな文物の「斬新で刺激的な」(チラシより)デザインをたどり,それらを生み出した思想や物語を展観する,というもの。館蔵の青銅鏡が展示の中心です。

  展示は「動物/植物」「天文」「七夕」「神仙への憧れ」という4つのセクションで構成されています。泉屋博古館学芸員の山本堯氏のスライドトークの日に出かけたので,詳しい解説を聞けてとても面白い体験となりました。古鏡の文様といえば四神とか三足烏くらいしかピンと来なかったけれど,こんなにも饒舌な物語が背景にあったとは。

 特に面白かったのが伯牙(はくが)と子期の「伯牙絶弦」のエピソードなんだけど,それはそうとしてなんで鏡の文様に? それは鏡とは陰のものなので,「伯牙」の発音が「丙午」に通じてとても陽の気にあふれているから,とのこと。「丙午」はよいイメージはなかったけど,「丙」も「午」もどちらも強い陽の気を持つ字なのだとか。ちなみに来年は丙午ですね。

 もう1つ,尾竹国観「黄石公張良之図」は能曲「張良」の元ネタの逸話を描いたもの。これはワキが大活躍する演目らしいので,ぜひ,福王和幸師のワキで見てみたい。

2025-07-22

2025年7月,ベルリンフィル(名古屋)・石川県立図書館・アンティークフェルメール(金沢)

 7月初に名古屋と金沢に短い旅程で出かけてきました。名古屋はグスターボ・ドゥダメル指揮のベルリン・フィル特別公演を聴くために。初めての愛知県芸術劇場コンサートホールでベートーヴェン「エグモント」・チャイコフスキー交響曲第5番というプログラムを堪能。コンサートマスターの樫本大進も素晴らしかったし,とにかく本物のドゥダメルだ!という全き素人の感激の一夜だったのでした。
 一夜明けて名古屋から金沢へ。敦賀で北陸新幹線に乗り換えなくちゃならない。新幹線は快適だったけど,乗り換えなしで特急一本で行ける方が楽だったような。2年ぶりの金沢では石川県立図書館へ行ってみました。あちこちのメディアで話題だし,押さえておかないと。広くてきれいでおしゃれな図書館。蔦屋風? こんな図書館が近くにあったらいいなあ。企画展示が面白かった。(これはチラシ。) 

 体調が万全ではないのであまり歩き回らず,懐かしい友人とおしゃべりしたり,うつのみや書店で古書市を眺めたり。そしてアンティークフェルメールも2年ぶりに訪ねました。店主の塩井さんはロンドンから戻ったばかりということで,店内には届いたばかりの荷物があちこちに。1820年代のカラフェを1つ手に入れて,フラワーベースとして楽しむことにします。鉛を含むガラスのカットが美しく(底面のカットが何とも素敵),暑い時期なのでグラジオラスを短く切って生けてみました。こんな色のグラジオラスはちょっと珍しいかも。

読んだ本,「二十四五」(乗代雄介)・「平家物語の合戦」(佐伯真一)

 積読を片っ端から読み進める一方で,面白そうな新刊や読書サイトのお勧めをつい図書館に予約してしまう。その結果,時間はたっぷりあるのに集中力が続かない散漫な読書をしてしまっている。なんとかしなきゃと思いつつ,とりあえず読み終えた本は記録しておかないと。
 乗代雄介「二十四五」(講談社 2025)はあっという間に読み終える分量で,そして読み終えて物足りなさを感じる物語だった。その物足りなさは分量ではなくて読み手の中への深度のこと。 レビューなどには「十七八より」(2015)の人間関係を押さえておいた方がよい,とある。読んだはずだけど記憶にない。本作を読んで漠然と「眼科医院の2階のおばさんの書庫」は思い出したのだが,どうにも景子とゆき江の物語の核心をつかめないまま読み終えてしまった。

 仙台の地底の森ミュージアムや雷神山古墳など,今作にも魅力的なplacesが登場する。地底の森ミュージアムはもう随分と前に一度行ったことがある。また行きたいなあ,というのと,作家である景子のこんな独白が心に響いた。ただ,それだけかな。「何かについて書き残すということは,遅かれ早かれ自分の間違いを思い知るということなのだから。」(p.66)

 「平家物語の合戦 戦争はどう文学になるのか」(佐伯真一  吉川弘文館 2025)はとても読み易いが深い内容の1冊。平家物語全体の流れに沿って,物語の背景と史実を比較しながら「戦争を描く」こと,「文学とは何か」を読者に問いかけてくる。返却期限が迫ってしまってほとんど飛ばし読みだったので,近いうちに購入して再読するつもり。

2025-06-30

2025年6月,6月の記録・展覧会・コンサート・能楽堂

 ちょっとPCを開くのが億劫な時間が続いてしまった。6月の記録を残しておかないと。展覧会は3つ。東京ステーションギャラリーで「タピオ・ヴィルカラ 世界の果て」展(4/5-6/15)。美しい北欧デザインを楽しむ。最後のグラスだけ撮影可。無色のガラスもよかったけど,ポスターイメージの色ガラスのボトルやプレートがとても素敵だ。北欧は行きたいリストでそれほど優先順位が高くないけれど,益田ミリのエッセイ「考えごとしたい旅 フィンランドとシナモンロール」(幻冬舎文庫 2024)など楽しく読んで,いつか行けたらいいなあと思うところ。

 世田谷美術館では「横尾忠則 連画の河」とコレクション展の「世田谷でインド」の2つを楽しむ。横尾氏の画業にはそれほど執心はないのだけれど,20年以上も前,この美術館の企画でアトリエ訪問とワークショップに参加したことがあって,やはり強烈なオーラが圧倒的だった。当時の担当学芸員氏にはその後もあれこれお世話になり,この春亡くなったその人の姿を探しながら展示室を廻る。2階のコレクション展はとてもエキサイティング!な展示。埼玉のメキシコ展に続いて,利根山光人のインドのスケッチに感動。関連書籍の展示には堀田善衛の「インドで考えたこと」も。横尾忠則の聖シャンバラシリーズは,そうそう,横尾さんはこうこなくちゃ,という感じ。楽しい展示だった。

 横浜ユーラシア文化館では「ゲルと草原の物語」展。展示は絵本の原画と生活道具がメイン。鼻煙壺は私のコレクションのものとよく似てる。こういうところに感激するんだな。展覧会の関連講演の「現代モンゴルにおける仏教実践と化身ラマ」を興味深く拝聴する。講師は国立民族学博物館の島村一平氏。チベット・モンゴル仏教についての深い講義だった。大仏師ザナバザル作の仏像の美しさ。ダライ・ラマ14世の後継者問題。

 サントリーホールでは「ハーモニーの共鳴 韓日友情の旋律」コンサート(6/17)を聴く。四谷の韓国文化院のHPを見て無料招待に申し込んで,いそいそと出かけたのだった。チェロの堤剛をはじめ,豪華な出演者に大感激する。

 そして国立能楽堂では定例公演(6/19)の狂言「秀句傘」と能「六浦」。今年は称名寺の薪能を見ることができたので「六浦」をとても楽しみにでかけたのだが。臨席の外国人観客(若い女性)がスマホをずっといじってるのだ。まぶしい画面がずっと視界に入って幽玄の舞台が台無しに。英語字幕を見ればいいのに(字幕はダークモードだから周りの妨げにはならない)。。会場の係の人は気づかないのだろうか。。佳境の序の舞に入ったのに,舞台も見ずにスマホをいじるその女性に対して,私はついに何かが切れました。手を出して小声でNo!と言ってやったら,すごい形相でにらまれた。。せっかくの観能が台無しだったな。

2025-06-05

読んだ本,「日向で眠れ」「豚の戦記」(ビオイ=カサーレス)


  「日向で眠れ」「豚の戦記」(ビオイ・カサーレス 高見英一・萩内勝之訳 集英社 1983)をようやく読了。途中,面白そうな新書や軽いエッセイ集に何冊も寄り道してしまい,集中力が続かず随分時間がかかった。というか,集中力が続かないから寄り道をしてしまったのかもしれない。

 「日向で眠れ」は主人公ボルデナーベと精神病の妻の物語。妻の変化の真相をつきとめようと懸命に探究するボルデナーベはやがて深入りして恐ろしい科学の領域に巻き込まれる。そして読者も魔力に引きずられるように物語の結末を知ることになる。これは幻想的なSFと読めばよいのだろうか。すがるような思いで訳者解説を読む。「(略)じつは訳者のようにきわめて注意力散漫な読者にも本を投げ出さずおしまいまで〈読ませる〉だけの魅力もちゃんと仕掛けてある。それは〈愛〉だ。」(p.326 萩内勝之)

 では「豚の戦記」も「愛の物語」と読めるのか。この小説の中では,ブエノスアイレスの若者たちがあちこち老人を殺す。若者対老人の戦争は1週間続き,初老の主人公イシドーロ・ビダルと老人仲間は凄惨な殺戮から逃れて身を寄せ合う。そしてビダルは戦いの中で息子を殺されるのだが,彼は娘ほど年の離れた若い娘ネリダを愛する決心をするのだ。

 病院の医者はビダルにこう語る。「このたびの戦争を通して青年が深く痛切に認識したのは,老人すなわち自分たちの未来,ということです。おれたちもやがてこうなるというわけでしょう。さらに面白い事実があります。青年はきまったように,老人ひとりを殺すことは自分が自分を殺すことに相当すると思うようになっているのです。」(p.301)つまり,この物語は世代間の闘争を描くものではない。ビダルの老人たちへの共感と,青年たちに向けた受容の精神が共存する〈愛〉の物語ということなのかもしれない。

 「老い」を実感する日々にこの物語を読み通すのはなかなかエネルギーが必要だった。ビダルのこんな独白はあまりに手厳しい。「老人は未来が残されていないばっかりに人生の大切なことをことごとく避けて通ろうとするのだが,青年にそれがどこまで分かっているだろう。〈病は即ち病人ではない〉ビダルは考えた。〈が,老人とは老いそのものであり,死ぬ以外に出口はない〉。」(p.302)

  この後に続くフレーズに救われる読者は私だけではないだろう。「(略)ネリダの家へと足を速めた。悟りの境地が夢の記憶のごとく消え去らないうちに着くためだ。正確には,自分のような年寄りを愛するなど夢想にすぎない,と言ってネリダに諦めさせるためであり,それは彼女をあまりにも強く愛しているがゆえであった。」(p.302)