2024-11-13

2024年11月,東京日本橋,「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」展

 だいぶ体調も回復してきて,三井記念美術館の「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」展の最終日に何とか駆け込んできました。展覧会場を歩き回るのが不安だったけど,帰宅後も翌朝も身体に痛みが出なくて一安心。自信も回復中。

 バーミヤンの東西二体の大仏の壁画には「太陽神」と「弥勒」の姿が描かれていたということ。この展覧会は特にその「未来仏」である弥勒信仰の流れをたどるもの。楽しみにしていたのはインド・ガンダーラの仏像群です。うっとりするばかり。 
 出品目録を見ると,京都や奈良の古寺の仏像・仏画も多いのですが平山郁夫シルクロード美術館の所蔵品がたくさん。気になってる美術館の一つなので,是非行ってみたい。とにかく右も左も魅かれるものばかりなのですが,弥勒信仰のインドから中国・朝鮮を経て日本へという流れがわかりやすくてとても面白かった。

 朝鮮の菩薩半跏像を見て,おお,去年の今頃は元気に韓国の古都めぐりをしていたなあ,と思わず嘆息。健康は何ものにも代え難いものと痛感している今日この頃。

2024-10-30

2024年10月,東京東銀座,錦秋十月大歌舞伎

 歌舞伎座にでかけて錦秋十月大歌舞伎の夜の部を観劇。ぎりぎりで取れた席は3階の袖の席。半分くらいは見切れるかと思ったけど,意外とよく見えます。オペラグラスは必携ですが。お目当てはなんといっても「源氏物語 六条御息所の巻」。染五郎が光源氏,六条御息所は玉三郎という組み合わせ(年齢差は不問に!)。染五郎の光源氏は,新聞評で「時分の花」と書かれていた通り,まさに花であり光であり。とにかく二人が美しかったことは言わずもがな,舞台セットが幻想的で感動。


 

2024-10-27

読んだ本,「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋)


  すっかりラテンアメリカ文学モードに入っていたら,図書館に予約していた芥川賞受賞作の順番がきた。「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋 新潮社, 2024)を読了。朝比奈氏を読むのは初めて,ストーリーなど事前知識もなし,唯一知っているのはこの作家は医師だということ。

 読み始めてすぐに,その奇抜な身体性の設定に驚き,これからすごいものを読むのではないかと期待が高まったのだが。哲学的な思索が印象的なエピソードとともに読みやすい言葉で綴られていて,そればかりが読後の記憶に残る。

 そして、物語は今一つ盛り上がらないまま,終盤はちょっと肩すかしの印象。結合双生児の杏と瞬の刺激的な「物語」が読みたかった。ただ,「意識の死」についての考察のくだりは刺激的だ。「肉体を離れても意識はある。死んでも,意識は続く。死が主観的に体験できない客観的な事実で,本当に恐れるべきは肉体の死ではなく意識の死ならば,どういったことで意識は死を迎えるのだろうか。」(p.123)

2024-10-20

読んだ本,「百年の孤独」(G・ガルシア=マルケス)

 文庫化されて話題になっている「百年の孤独」。マルケスの他の多くの作品に影響していたり,それらの解説やあとがきを読んだりしてすっかり読んだ気になっていたけれど,未読のままだった。体調のすぐれない日が続き,この本を読まないままでは終わるまじ,と真剣に思うようになったというわけ。私が読んだのは新潮社の「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの鼓直訳(2006)。美しい装丁の本。

 ペースをつかむまでは少し時間を要したが,この小説世界に一度はまると,文字通りどっぷりとはまって一気に読了。読後はしばし呆然となって,ただただすごいとしか言葉が浮かばない。

 マコンドの街の百年の歴史が,幻想と現実が溶け合って語られる。この不思議な街で起こる奇想天外というべき数々の出来事と,そして登場する男たち女たち。木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書 2011)では彼らのことを「途方もない人物たち」と指摘している。

 ここに何か感想めいたものを書いても,前述の書を始めラテンアメリカ文学の指南書からの受け売りになってしまうが,やはり衝撃を受けたのはラスト近くで語られる2つの出来事だ。1つははるか昔に亡くなったメルキアデスの残した羊皮紙が町もろとも吹き飛ばされていくこと。もう1つはアマランタ・ウルスラとアウレリャノの間に産まれたアウレリャノについて,「この百年,愛によって生を授かった者はこれが初めて」(p.467)という一節。物語はここで終わるけれど,読者は歴史とは何か,そして愛とは何かを考え続けなければならないのだ。
 蛇足ながら,「ラテンアメリカ十大小説」を読み返して,これも未読のコルタサル「石蹴り」も読まずば終わるまじ。次の一冊。

2024年10月,東京千駄ヶ谷,「天鼓 弄鼓之楽」



 体調がすぐれないまま,時間ばかりが過ぎてしまいます。暗いトンネルの中で行きつ戻りつしているような日々ですが,少しずつは前進しているよう。何か楽しみがなければ,と国立能楽堂の10月普及公演のチケットを予約して,楽しみに出かけました。

 晩夏のような陽ざしと気温でしたが,中庭には萩が開花していました。この日の番組は狂言が三宅右近シテの「舟渡聟」と,能は「天鼓 弄鼓之楽」。シテは梅若紀彰,ワキの勅使は福王和幸師。福王さんの美しい舞台を見ると沈んだ気分も吹っ飛びます!

 「天鼓」はたぶん初見です。素筋によれば「美しい音の出る鼓を持つ少年・天鼓は,帝の命に背き呂水に沈められます」とあり,となれば成仏できない魂が舞う哀しい話なのかと思いきや,これが正反対。弔いの管弦講に現れた天鼓の霊は,帝の御弔いによって成仏したことに深く感謝し,本当にありがたいと言って鼓を打ち,舞うのです。

 その舞楽はゆったりと始まり,次第に速まるテンポに乗って,少年らしい明るさに満ちています。老親との別れを嘆くというよりも,やがて輪廻転生してまた親子の縁を結ぶ日を鼓の音とともに楽しみに待つとでもいうのか,夜明けとともに消えていく姿は希望にも満ちて。

2024-09-16

読んだ本,「大転生時代」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊「大転生時代」(文藝春秋)読了。生涯読者(?)なので新刊が出れば速攻で入手。単行本で読みたいので文芸誌で連載中はぐっとこらえる。そして通読して,ああ,これぞ待ちかねていたのだと感激する…はずなのだが,今作はちょっと戸惑う読後となった。

 「転生」とか「生まれ変わり」のテーマは昨今のライトノベルやSFの定石らしい。そのあたりをよく知らなかったせいか,何だか不可解な場面にたびたび遭遇してしまい,頭の中ははて?の連続だったかも。「宿主」の肉体に「転生」する転生者が複数いた場合,宿主は多重人格になるということなのか? 異世界から転送されてきたゲノム情報を自分のボディに移植する(p.186),となるともはや想像も理解も追い付かない。

 帯の惹句には「ライトノベル的想像力の彼方へ読者を運ぶ『異世界転生』文学爆誕!」とあって,遠くへ運ばれてしまった一読者である私は呆然自失状態である。「ハニカミ屋」と横溝時雨の会話。「(略)私たちが『意識』と呼んでいるものは,実は自分が生まれる遥か以前からあるものなんです。かつて無数の肉体に宿り,乗り換えを重ねてきた意識を,ある日,突然,我が身に引き受けるのです。生きているあいだはその意識のユーザーになるが,死後,その意識は誰かの肉体に乗り移ることになる。それが転生というものなんです。」「自分というのは唯一無二で,この肉体は自分だけのものかと思ってましたけどね。」「(略)老化が進み,半分ボケてくると,自分が誰だかわからなくなったりする。それは意識が使い古した肉体から離れたがっている兆しなんですよ。」(pp.139-140)

2024-08-26

読んだ本,「アフリカのひと」(ル・クレジオ)

 「アフリカのひと 父の肖像」(ル・クレジオ 菅野昭正訳 集英社 2006)読了。ル・クレジオは大部の著が多いので,つい身構えてしまうけれどこの本は文字が大きいしボリュームも少な目で読みやすそう,と思って手に取った。

 確かにすらすらとは読めるのだけれど,あとがきには,小説家ル・クレジオはラウル・ル・クレジオ医師を「ひとりの父親の枠のなかに囲いこもうとしていない」,「《ポスト・コロニアリズム》の先駆者の像を見たのだった」,その点で,この「アフリカのひと」は一篇の回想記の域を越えるのだ,とある。(pp.169-172)

  そして全編を通して,彼の作品に通底する大地と自然への畏怖が,少年時代にアフリカという大地で身につけたものであることが伝わってきて感動的ですらある。「さまざまな身体の匂い,手ざわり,ざらざらしてはいないが温かく軽やかで,たくさんの体毛が逆だっている肌。私のまわりのさまざまな身体の大変な身近さ,その数の多さを私は今も感じている,なにかそれ以前には私の知らなかったもの,恐ろしさを取りのぞく,なにか新しいと同時に親しみやすいものを。」(「身体」p.15)