Les Fausses Positions
読書,アート,古いもの,ときどき旅の記憶
2024-11-13
2024年11月,東京日本橋,「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」展
2024-10-30
2024年10月,東京東銀座,錦秋十月大歌舞伎
2024-10-27
読んだ本,「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋)
すっかりラテンアメリカ文学モードに入っていたら,図書館に予約していた芥川賞受賞作の順番がきた。「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋 新潮社, 2024)を読了。朝比奈氏を読むのは初めて,ストーリーなど事前知識もなし,唯一知っているのはこの作家は医師だということ。
読み始めてすぐに,その奇抜な身体性の設定に驚き,これからすごいものを読むのではないかと期待が高まったのだが。哲学的な思索が印象的なエピソードとともに読みやすい言葉で綴られていて,そればかりが読後の記憶に残る。
そして、物語は今一つ盛り上がらないまま,終盤はちょっと肩すかしの印象。結合双生児の杏と瞬の刺激的な「物語」が読みたかった。ただ,「意識の死」についての考察のくだりは刺激的だ。「肉体を離れても意識はある。死んでも,意識は続く。死が主観的に体験できない客観的な事実で,本当に恐れるべきは肉体の死ではなく意識の死ならば,どういったことで意識は死を迎えるのだろうか。」(p.123)
2024-10-20
読んだ本,「百年の孤独」(G・ガルシア=マルケス)
2024年10月,東京千駄ヶ谷,「天鼓 弄鼓之楽」
晩夏のような陽ざしと気温でしたが,中庭には萩が開花していました。この日の番組は狂言が三宅右近シテの「舟渡聟」と,能は「天鼓 弄鼓之楽」。シテは梅若紀彰,ワキの勅使は福王和幸師。福王さんの美しい舞台を見ると沈んだ気分も吹っ飛びます!
「天鼓」はたぶん初見です。素筋によれば「美しい音の出る鼓を持つ少年・天鼓は,帝の命に背き呂水に沈められます」とあり,となれば成仏できない魂が舞う哀しい話なのかと思いきや,これが正反対。弔いの管弦講に現れた天鼓の霊は,帝の御弔いによって成仏したことに深く感謝し,本当にありがたいと言って鼓を打ち,舞うのです。
その舞楽はゆったりと始まり,次第に速まるテンポに乗って,少年らしい明るさに満ちています。老親との別れを嘆くというよりも,やがて輪廻転生してまた親子の縁を結ぶ日を鼓の音とともに楽しみに待つとでもいうのか,夜明けとともに消えていく姿は希望にも満ちて。
2024-09-16
読んだ本,「大転生時代」(島田雅彦)
「転生」とか「生まれ変わり」のテーマは昨今のライトノベルやSFの定石らしい。そのあたりをよく知らなかったせいか,何だか不可解な場面にたびたび遭遇してしまい,頭の中ははて?の連続だったかも。「宿主」の肉体に「転生」する転生者が複数いた場合,宿主は多重人格になるということなのか? 異世界から転送されてきたゲノム情報を自分のボディに移植する(p.186),となるともはや想像も理解も追い付かない。
帯の惹句には「ライトノベル的想像力の彼方へ読者を運ぶ『異世界転生』文学爆誕!」とあって,遠くへ運ばれてしまった一読者である私は呆然自失状態である。「ハニカミ屋」と横溝時雨の会話。「(略)私たちが『意識』と呼んでいるものは,実は自分が生まれる遥か以前からあるものなんです。かつて無数の肉体に宿り,乗り換えを重ねてきた意識を,ある日,突然,我が身に引き受けるのです。生きているあいだはその意識のユーザーになるが,死後,その意識は誰かの肉体に乗り移ることになる。それが転生というものなんです。」「自分というのは唯一無二で,この肉体は自分だけのものかと思ってましたけどね。」「(略)老化が進み,半分ボケてくると,自分が誰だかわからなくなったりする。それは意識が使い古した肉体から離れたがっている兆しなんですよ。」(pp.139-140)
2024-08-26
読んだ本,「アフリカのひと」(ル・クレジオ)
確かにすらすらとは読めるのだけれど,あとがきには,小説家ル・クレジオはラウル・ル・クレジオ医師を「ひとりの父親の枠のなかに囲いこもうとしていない」,「《ポスト・コロニアリズム》の先駆者の像を見たのだった」,その点で,この「アフリカのひと」は一篇の回想記の域を越えるのだ,とある。(pp.169-172)
そして全編を通して,彼の作品に通底する大地と自然への畏怖が,少年時代にアフリカという大地で身につけたものであることが伝わってきて感動的ですらある。「さまざまな身体の匂い,手ざわり,ざらざらしてはいないが温かく軽やかで,たくさんの体毛が逆だっている肌。私のまわりのさまざまな身体の大変な身近さ,その数の多さを私は今も感じている,なにかそれ以前には私の知らなかったもの,恐ろしさを取りのぞく,なにか新しいと同時に親しみやすいものを。」(「身体」p.15)