Les Fausses Positions
読書,アート,古いもの,ときどき旅の記憶
2025-08-05
読んだ本,「ティータイム」(石井遊佳)
2025-08-04
2025年7月,東京渋谷,「レオ・レオーニの絵本作り展」・「アイヌモシリ」
一見普通の植物画に見えるのだけど,すべて平行世界に棲む植物たち。1つ1つに不思議な名前が付いてるんだよな,家に帰って本棚を探そう,と心に決める。…しかし,見つからない。ちくま文庫の「平行植物」,誰かに貸したままかな,それとも不要な文庫本を処分するときに一緒に段ボールに放り込んでしまったかな。ふと,平行世界へ旅立ったのかも,と思えてきた。ひょっこり帰ってくるかも。そういうわけで買い直すという選択肢はいまのところない。ヒカリエの9階からの渋谷の空。
2025-07-25
2025年7月,東京六本木,「死と再生の物語 中国古代の神話とデザイン」
展示は「動物/植物」「天文」「七夕」「神仙への憧れ」という4つのセクションで構成されています。泉屋博古館学芸員の山本堯氏のスライドトークの日に出かけたので,詳しい解説を聞けてとても面白い体験となりました。古鏡の文様といえば四神とか三足烏くらいしかピンと来なかったけれど,こんなにも饒舌な物語が背景にあったとは。
2025-07-22
2025年7月,ベルリンフィル(名古屋)・石川県立図書館・アンティークフェルメール(金沢)
読んだ本,「二十四五」(乗代雄介)・「平家物語の合戦」(佐伯真一)
2025-06-30
2025年6月,6月の記録・展覧会・コンサート・能楽堂
ちょっとPCを開くのが億劫な時間が続いてしまった。6月の記録を残しておかないと。展覧会は3つ。東京ステーションギャラリーで「タピオ・ヴィルカラ 世界の果て」展(4/5-6/15)。美しい北欧デザインを楽しむ。最後のグラスだけ撮影可。無色のガラスもよかったけど,ポスターイメージの色ガラスのボトルやプレートがとても素敵だ。北欧は行きたいリストでそれほど優先順位が高くないけれど,益田ミリのエッセイ「考えごとしたい旅 フィンランドとシナモンロール」(幻冬舎文庫 2024)など楽しく読んで,いつか行けたらいいなあと思うところ。
世田谷美術館では「横尾忠則 連画の河」とコレクション展の「世田谷でインド」の2つを楽しむ。横尾氏の画業にはそれほど執心はないのだけれど,20年以上も前,この美術館の企画でアトリエ訪問とワークショップに参加したことがあって,やはり強烈なオーラが圧倒的だった。当時の担当学芸員氏にはその後もあれこれお世話になり,この春亡くなったその人の姿を探しながら展示室を廻る。2階のコレクション展はとてもエキサイティング!な展示。埼玉のメキシコ展に続いて,利根山光人のインドのスケッチに感動。関連書籍の展示には堀田善衛の「インドで考えたこと」も。横尾忠則の聖シャンバラシリーズは,そうそう,横尾さんはこうこなくちゃ,という感じ。楽しい展示だった。
横浜ユーラシア文化館では「ゲルと草原の物語」展。展示は絵本の原画と生活道具がメイン。鼻煙壺は私のコレクションのものとよく似てる。こういうところに感激するんだな。展覧会の関連講演の「現代モンゴルにおける仏教実践と化身ラマ」を興味深く拝聴する。講師は国立民族学博物館の島村一平氏。チベット・モンゴル仏教についての深い講義だった。大仏師ザナバザル作の仏像の美しさ。ダライ・ラマ14世の後継者問題。サントリーホールでは「ハーモニーの共鳴 韓日友情の旋律」コンサート(6/17)を聴く。四谷の韓国文化院のHPを見て無料招待に申し込んで,いそいそと出かけたのだった。チェロの堤剛をはじめ,豪華な出演者に大感激する。
そして国立能楽堂では定例公演(6/19)の狂言「秀句傘」と能「六浦」。今年は称名寺の薪能を見ることができたので「六浦」をとても楽しみにでかけたのだが。臨席の外国人観客(若い女性)がスマホをずっといじってるのだ。まぶしい画面がずっと視界に入って幽玄の舞台が台無しに。英語字幕を見ればいいのに(字幕はダークモードだから周りの妨げにはならない)。。会場の係の人は気づかないのだろうか。。佳境の序の舞に入ったのに,舞台も見ずにスマホをいじるその女性に対して,私はついに何かが切れました。手を出して小声でNo!と言ってやったら,すごい形相でにらまれた。。せっかくの観能が台無しだったな。
2025-06-05
読んだ本,「日向で眠れ」「豚の戦記」(ビオイ=カサーレス)
「日向で眠れ」「豚の戦記」(ビオイ・カサーレス 高見英一・萩内勝之訳 集英社 1983)をようやく読了。途中,面白そうな新書や軽いエッセイ集に何冊も寄り道してしまい,集中力が続かず随分時間がかかった。というか,集中力が続かないから寄り道をしてしまったのかもしれない。
この後に続くフレーズに救われる読者は私だけではないだろう。「(略)ネリダの家へと足を速めた。悟りの境地が夢の記憶のごとく消え去らないうちに着くためだ。正確には,自分のような年寄りを愛するなど夢想にすぎない,と言ってネリダに諦めさせるためであり,それは彼女をあまりにも強く愛しているがゆえであった。」(p.302)