さまざまな媒体に発表された短い書評を集めた「本の音」は親本が2002年出版で,文庫化されたのが2011年。さらに所収されている一番古い初出は1994年。したがって,出版当時は著者が注目した作家の新刊を紹介する性格のレビュー集だったものが,今読んでみると,ああ,やはり堀江敏幸はこの作家の書評を書いていたのだな,という視点でおもしろい。
ミラン・クンデラ「ほんとうの私」はこの本がきっかけで読んだ1冊。カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」,リチャード・パワーズ「舞踏会へ向かう三人の農夫」などは目次で見つけただけで,「そうでしょう,そうでしょう!」と思わずにんまりする。「本を読む」という行為は孤独な作業ではあるけれど,孤独は荒野ではないのです。(須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」のあとがきからの受け売り。)
一人の作家についての「批評」を書くという行為はかくも深い敬意という土台の上に立つものか,といういささかの驚きを覚えつつ読み進む。p.201からp.202にかけて,カルヴィーノが「ボルヘスがダンテの『神曲』を論じた一節」を引用した部分を,須賀敦子の訳によるイタロ・カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」から引用する,となるともはや離れ業とでも呼びたくなる。
「だが『いろいろ異質な要素を,となり町の山車のようにそのなかに招きいれ』ることができるのは,彼女にとって「文学」以外になかった。迷いを迷いのまま許容してもっと大きな思索へ自身を引きあげてくれる場は「文学」にしかなかったのだ」(pp.202-203)
「そう,ためらえばいい。待てばいいのだ。次の「島」が見えてくるまで,じっと待てばいい。待つことは「現在」にしか許されていない豊かで過酷な選択を強いる精神の営為であり,矛盾を抱えたまま生きていける舞台なのだから。須賀敦子は,積極果敢な迷いの意義を消すことなく,いつまでも待ち続けるだろう,水上バスの発着所でも陸橋のうえでもなく,彼女自身が遺した文章のなかで,そしてついに書かれることなく終わった括弧付きの「小説」のなかで。」(pp.203-204)
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