桜の季節に注文した「零度の犬」を少しずつ読み進めました。タイトルの「零度の犬」に現れる,犬,少女,灰色の駅,低く暗い池…。建畠晢のイメージはどこまでも果てしなく続き,どこにも収斂しない。詩の言葉は世界のどこか(それは読み手の脳の中かもしれない)へ着地するとは限らない,と詩人は知っていながら,「さあ,よい光景を見つけに行こう。腕の細い灰色の少女を探しに行こう。」と嘯く。そして「その距離で今,零度の犬が吠えている。」(p.41より引用)と続ける。
「歴史姉妹」では詩人の問いかけに絶句する。「どう思う?私たちは反省する者なのか,歴史の中では誰が反省すればいいのか,どう思う?/『自己の形而上学はずいぶん庶民的になってきました』『きょうから新しい抒情が始まります』『これが今日,あれが明日のモダンだと言っている』」(p.61)詩の言葉が抒情の誕生の瞬間(それは読み手の生の瞬間かもしれない)に着地するとは限らないと詩人は教えてくれる。
知人から,雑誌PENの6/15号の建畠晢氏のインタビューが掲載された記事のコピーを頂きました。建畠氏は埼玉県立近代美術館の館長を務めていて,「社会に一定の割合で存在する異質なものは,社会全体の狂気を抑える。それが健全な社会構造だと思うのです。美術は,その一端を担っている」(p.164より引用)という発言に瞠目する。
「私にとっては詩作が本業」とも語り,7月には新しい詩集が刊行されるらしい。首を長くしてその日を待つことにしよう。
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