2020-05-31

読んだ本,「地上の見知らぬ少年」(J・M・G・ル・クレジオ)

 ずっと気になっていたル・クレジオの「地上の見知らぬ少年」(河出書房新社 2010)。ストーリー展開のないエッセイというか散文で,訳者(鈴木雅生)あとがきによれば,「本書の軸となっているのは,初めてこの地上に降り立った子どもの無垢な瞳に,この世界はどのように映るのだろうという夢想だ」。(p.352)
 
  で,告白してしまうと,この大著を読み通すのはなかなか大変だった。少しずつ,美しい文章を読み進めるのは楽しい時間だったけれども,世界を見つめる少年の夢想が約350ページ延々と続く。最後の方はお手上げ,という感じで読み飛ばしてしまった。
 
 石川直樹の写真展会場で,数え切れない付箋が挟まれていたのがこの本だった。旅をして世界を見つめる写真家の魂が共振した書物の前で,あえなく挫折してしまった自分にがっかり。いったんは登頂断念,またいつか再アタックしてみようか,と。(←高尾山しか登ったことないですが。。BSの登山番組ばかり見てるもので。。)
 
 「美に心奪われた人は,いつまでもそこに留まっていることができる。すっぽりと美に包まれてぼくは立ちつくす。まるで瞳と後頭部で同時に美を眺めているようだ。澄んだ海が波立ち,波頭のひとつひとつがくっきりと見える、頭上にはなめらかな大空,足元には黒ずんだ大地。太陽がゆっくりと進んでいく。これまで夥しい数の人間が,そして動物が,来る日も来る日もこの光景を眼にしてきた。だけどその痕跡は何も残っていない。生命の歴史のなかに現れて,動き回り,愛し合い,そして死んでいっただけ。彼らが眼にしていたのは,今まさにここにある鮮明に澄み渡った美,ぼくが見ていると同時にぼくを見ている美だ。これこそが,消えることのない光のなかにある唯一の真実なのだ。」(p.147)

2020年5月,パフィオ・デレナッティの開花

  丈夫なパフィオですよ,と言われて購入したデレナッティの株が今年も開花しました。とてもとても嬉しい。世界にはどうしてこんなに美しいものが存在するのだろう,と思うほどに。

2020-05-28

何度も見る写真集,「POSESSION」(首藤康之 操上和美 )

  たまたまFMで首藤康之出演の番組を聞き,その直後に彼を含む4人のアーティストのオンライン対談を視聴しました。そのアーティストの一人が操上和美で,司会役の女性作家は「操上さんは首藤さんの筋肉を撮っていらっしゃるんですよね」なんて言ってました。筋肉って。。まあ,そうなんだけど。
 
 首藤康之を操上和美が撮影した写真集は3冊上梓されてて,この「POSESSION」(光琳社 1997)はその第1作。今から20年以上も前の刊行ですね。もちろん,時間の分だけ若いことは若いのだけど,今の首藤康之と全然変わらない。ダンサーという生を生きている人。
 
 ページを繰る私もあちら側へ連れて行かれる感覚は,生の舞台を見ているときに感じるのと同じ。カメラを構える操上和美は演出家なのか,振付家なのか,撮影の現場での二人はどういう関係なのだろう,と想像するだけでぞくぞくしてきます。
 
 舞台の上の彼はいつも,この世の存在とは思えないのですが,この写真集でもまた。動物の頭蓋骨の傍らに横たわる姿。ここは一体,此岸なのか,それとも彼岸なの? 
 


2020-05-24

2020年5月,デンドロビウムの開花

  何年かぶりでデンドロビウムが開花しました。2年くらい前に根腐れでほとんど絶命(?)寸前だったのを,何とか生き返らせた株です。とっても嬉しい。薔薇を育ててる知人によると,今年はいつもより大輪の花が咲くとか。自然が人間を励ましてくれてるのかも。
 
  昨日,FMから流れてきたイツァーク・パールマンのバッハにノックアウトされて,早速CDを注文しました。ダウンロードじゃ嫌なんだ。ポストに届くのが今の何よりの楽しみ。

2020-05-23

読んだ本,「にぎやかな湾に背負われた船」(小野正嗣)

  小野正嗣は翻訳の仕事しか知らなくて,何か面白そうな小説を読んでみたいと思っていてこの1冊を選んでみた。「にぎやかな湾に背負われた船」(朝日新聞社 2002)。三島由紀夫賞受賞時に,筒井康隆氏が「少しほめ過ぎになるが、小生は『ガルシア=マルケス+中上健次』という感銘を得た」と評したのだそう。

 舞台は「浦」。4人の老人の昔語りは脱線に脱線を重ね,時も場所も澱む。亡霊のように浦の沖に現れた「緑丸」はどこから来たのか,誰が錨を下したのか,教師と恋愛ごっこをする少女はそこで何を見つけるのか。

 面白いのだけれど,この澱んだ「浦」に惹かれるかどうかは読者を選ぶのではないか,と感じたのが正直なところ。読み終えて,そうだった,私はガルシア=マルケスは好きだけれど,中上健次は苦手だったんだ,と気付いた。

 「わたしたちは黙って湾の上にぽつんと浮かぶ船を見ていた。船はずっと同じ場所から動かなかった。忘れ去られることと思い出されることとのあいだに挟まれて身動きの取れない何かの痕跡のようだった。でも,それが何の痕跡なのかわたしにはわからなかった。」(p.70)

 小野正嗣には「水死人の帰還」という、これぞマルケス(?)というタイトルの作品もある。次はこれかな,と。 

2020-05-19

古い展覧会の記録,イヴォン・ランベール・コレクション展(1998年4月 横浜美術館)

  1998年に横浜美術館で開催されたイヴォン・ランベール・コレクション展の図録を久しぶりにめくってみました。おお,そういえばこんな展覧会だったなあ,と感慨深いです。こういう,記憶の彼方へ追いやられてしまった(?)図録が本棚にぎっしり。

  コロナの日々,ネット上のヴァーチャル展覧会もそれなりに楽しいのだけれど,こうやって昔見た展覧会の記憶を辿るというのもなかなかよいものだと思う今日この頃。

 イヴォン・ランベールのさりげなく品のよいコレクションの数々が蘇ってくる。このリチャード・タトル「わが心の3つの色」(1973)は3色の配色と配置がとても好きで,家に帰ってすぐに水彩絵の具を取り出してスケッチブックに真似してみたのでした。 
 サイ・トゥオンブリもこんなにたくさん見たのだったか,と新鮮な驚き。アンドレ・セラーノやナン・ゴールデンの写真なども。
 
 調べてみると,パリのYvon Lambert Galleryは2014年に閉廊してしまったらしいけれど,Yvon Lambert Bookshopや,アヴィニョンには私設美術館Collection Lambertが運営されているらしい。2018年には代官山でポップアップギャラリーも開催されたのだとか。ちゃんとキャッチアップしていれば,1998年の展覧会の未来を確認できたのに。「あの時の未来」がするりと私の横を零れ落ちてしまっていた,みたいな不思議な感じ。

2020-05-17

2020年5月,シランの開花

  去年の今頃も,あれ,シランってこんなに可憐な花だっけ,と思ったのでした。庭先に群生してる姿もきれいだし,ガラスの一輪挿しに生けてテーブルに置いてみてもきれい。

2020-05-14

2020年5月,ナショナルジオグラフィックのDVD

  自粛生活にひとすじの光が! いつ応募したのかも忘れてしまっていた懸賞プレゼントに当選。ナショナルジオグラフィックのDVDが5枚,届きました! やったー。 深海生物やら,宇宙最大の謎ダークマターやら,どういうチョイスかよくわからないんだけど。。

2020-05-10

読んだ本,「冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ」「ラダック ザンスカール スピティ」(山本高樹)

 
  いつかきっと,またインドへ行こう。行ってみたいエリアはいろいろあるのだけれど,ラダックという魅力的な場所の存在を知ったのは最近のこと。まずは地球の歩き方のビジュアルブックシリーズの1冊「ラダック ザンスカール スピティ」(ダイヤモンド社 2018)を注文してみたら,表紙に著者名が入っている。美しい写真が満載で,文章も読みやすい。というわけで,著者の山本高樹氏に大注目。ちょうどのタイミングで新刊が出ていた。一気に読了。遠い遠いところへ連れて行ってもらった。
 
 「冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ」(雷鳥社 2020)は冬になると峠道が雪で塞がり,行き来ができなくなるザンスカール地方へ,「氷の道=チャダル」を通って旅をした記録だ。ラダック地方へ流れ出るザンスカール川が凍結して氷の上を歩いて行き来できるようになるのだという。著者にとって2度目のチャダルの旅は,前回果たせなかったルンナクの最深部にある「プクタル・ゴンパ」の祭礼を取材すること。
 
 なるほど,旅の動機はそういうことか,と思いつつ,もはやそこに行かずにはいられない著者のsoulが頁の間から溢れ出てくるようだ。placeに魅入られた人の写真は魅力的で,文章はまっすぐに届く。
 
 「どう思う?こういう場所で過ごすミツェ(人生)のことを?」/「えっ?」/「こんな大変な場所に生まれて,人生を送ることに,意味はあると思うか?」(p.170)
 
  ホームステイ先の主人との会話と,その返答に迷う著者の内面がそのまま写真と文章で差し出される。読者である私もその問いに立ちどまり,途方に暮れる。
 
 しかし,この美しき魂を持つ旅人に,ザンスカールの人々はちゃんと答えを示してくれるのだ。ずっと一緒に旅をしたガイドのパドマが旅の最後に,仲間のザンスカール人と焚き火を囲んでぽつりともらす言葉に思わず息を呑み,涙腺がゆるんでしまう。
 
 新刊の購入特典で「夏の旅 ラダック、東の高地へ」という小冊子がついてきた。冬の旅はとても無理だけど,いつか夏のラダックへ行ってみよう。その日が来ることを信じて。 

2020-05-06

読み返した本,「他者の苦痛へのまなざし」(スーザン・ソンタグ)

  数日前のこと,朝日新聞の一面に,インドの人たちが頭上に荷物を載せて歩く写真が掲載されていた。その写真にはこんなキャプションがついている。「インドで全土封鎖が敷かれた3月26日,首都ニューデリーから故郷へ徒歩で向かう出稼ぎ労働者たち」(ロイター)。

 前日に解雇されたという42歳のある運転手は,ニューデリーからウッタルプラデシュ州の故郷の村まで約150キロを2日かけて歩いて帰ったという。チャパティ4枚と下着,150ルピーがすべての所持品だったという。

 コロナ禍が収束したらまたいつかインドに行きたい,と呑気に考えていた私はインドの地図でウッタルプラデシュ州を探して唖然とする。ヴァラナシの属する州じゃないか。デリーからヴァラナシまで,ほんの1時間半ほどの快適なフライトを楽しんだのがこの2月のことだ。150ルピーは約200円くらい。空港で買った紅茶は1袋500ルピーくらいだった。ほんの数か月前のあの時,今のこの世界のありようなど,想像だにできなかった。

 スーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」(みすず書房 2003)は「戦争写真」への論考である。権力を持つ一部の人間が引き起こす戦争という「悪」と,それを写す「残酷な」写真を見ることへの洞察の書は,自分たち自身が今,コロナ禍という苦痛の中で生きている私たちにとって,文脈が異なるものだろう。

 しかし,と思う。世界の「貧困」に苦しむ人たちがこの災禍の中で受けている苦痛を写すこの1枚の写真は,経済大国のシステムの中で生きる富める者にとって,思わず目を背けたくなる「残酷な」写真であることに違いはない。私たちはこの光景の「当事者」と自覚しなければならないのではないだろうか。

 ソンタグの論考について語るような不遜な真似は私には決してできないし,ここでこの本からいくばくかの文章を引用すること自体が,己が無知を露呈するようなものと思うのだけれど,1枚の写真の衝撃から思わず読み返した忘備録として。

 「同情を感じるかぎりにおいて,われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は,われわれの無力と同時に,われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて,それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ無罪ではあっても,無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに,彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し,或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように,われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない―われわれが想像したくないような仕方で―という洞察こそが課題であり,心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。」(pp.101-102) 

2020年5月,スズランの開花

  5月1日にスズランを贈ると,相手が幸せになると聞いたことがあります。少し遅れましたが,今年も庭先にかわいい花が咲きました。花言葉は"return of happiness"。

2020-05-04

読んだ本,「スノードロップ」(島田雅彦)

 
 こんな時には島田雅彦に限る,という感じのタイミングで新刊「スノードロップ」(新潮社 2020)を読了。『無限カノン』三部作の第四部に当たるという惹句に,期待度満点で届くのを待った。そして寝食を忘れて読み終えた。「良心=美しい魂」の復活に心が震える!この非常時に,権力者の無責任体質を嘆き罵るだけでは生きていけない。「美しい魂」は不滅なのだ,と信じること。
 
 「いつの時代とも知れないが,そう遠くない未来」が舞台で,「スノードロップ」とは皇后不二子が「ダークネット」で用いるハンドルネームである。彼女がダークネットを駆使して企むのは「令和の改新」。
 
 …荒唐無稽な設定だろうか?否,これは無限カノンの続編。不二子と消えたカヲルの魂が行き着いた先なのであって,現代日本のパラレルワールドなのであって,だからこそ,私たちのあり得るかもしれない未来がここに描かれているのだ。島田雅彦という同時代を生きる作家の手によって。
 
 「死者がいつまでも生きている者たちの心にとどまるのは,彼らが身近にいる証しなのだそうです。儀式を通じて,また折々に故人を偲ぶ時,ああまだ身近にいるなと感じます。往年の笑顔や話し声がまざまざと甦ることもあり,そんな時は自分も半身だけあの世の側にいるのではないかと思うことがあります。」(p.73)
 
 「自暴自棄になっている自分は醜い。できれば見たくないが,ため息を一つついた後,やや醒めた目で惨めな自分を見つめる余裕を持ちたいものです。その時,他人事のように自分の恨みを聞いてやるのです。自分が抱え込んだ恨みつらみを箇条書きにしてみるのです。そうやって自分の心の闇に蝋燭を灯してやれば,自暴自棄になること自体に飽きるはずです。一生を復讐のために費やすのはもったいない。復讐は結局は未遂に終わるか,自らの死によって終止符を打つことになり,自己満足さえも得られないでしょう。」(p.137)