2018-12-24

2018年12月,ソウル(3),「大高麗展」(韓国国立中央博物館)

  ソウル2日目は早起きして中央博物館へ。地下鉄出口から博物館前の広場の雪景色を眺めて1枚。「冬のソナタ」みたいな感じである(年がばれる。。)
 
 平日だからか団体の子どもたちがたくさんいて,博物館全体がうきうきしています。今回の旅行の目的の企画展「大高麗」展は平常展示館の向かいにある企画展示室で開催されています。高麗建国1100年記念の大きな展覧会とのことで,東博みたいに大行列かと思いきや,チケット購入も入場もすんなりでした。ちょっと肩すかしをくらった気分。
 「高麗」はGORYEOなんだな。「大高麗」はハングルで대고려。一応,入門コース3か月で読むだけなら何とかなってるよ! さて,展示は4つのパートで構成されていて,当時の新技術への挑戦という位置づけの高麗青磁の逸品の数々と,その結果として到達した芸術性の頂点という位置づけの高麗仏画や螺鈿漆器が展示のメインです。しかし!どの展示を見ても,あまりのすばらしさに言葉も出ない。
 
 青磁にしても仏画にしても,日本の美術館で見るのとはなんというか迫力が段違いで,圧倒されっぱなしでした。第2章のWisdom of 1100 years -The way to the Temple-の経典や仏像の展示には,ここを通って日本へ来たのだ,という精神性の源流が具現化しているわけで,ぐうの音も出ない。海印寺の大蔵経はいつか見に行きたいなあ。
 
 第3章のA place of Teaも「茶」の精神性とはこういうものだ,と言わんばかりの美しい展示と,お茶の香りが漂うおしゃれな会場の仕掛けにやられました。
 
 日本語の案内には「高麗げた融合統合成果韓国人内在するもうつの遺伝子なのです本特別展から高麗われた中世王朝としてえるのではなく現在における高麗意味つけることができるでしょう。 」とあります。 
 美しい青磁や仏画がきっかけで惹かれた「高麗」の世界と精神に触れることができて,本当に来てよかった! このあと,平常展示館でも高麗青磁や李朝白磁などを。考古展示では新羅の金製の指輪に再会して大満足でした。見終えて疲労度もマックスだったので,特集展示「カザフスタン」展は翌日に持ち越し。 

2018年12月,ソウル(2),尹亨根展(韓国国立現代美術館)

 出発前の天気概況を見てかなりの寒さを覚悟していたものの,金浦空港に着陸間近の機内で「到着地の天候は雪です」というアナウンスを聞いて動揺しまくり。ただ,降雪は到着日の朝までだったらしく,市内へ入るころには気持ちのよい青空が広がり,雪景色がまぶしい午後です。ソウルは冬がきれい,と言ってた知人の言葉を思い出しました。
 
 まずはMMCA韓国国立現代美術館へ,尹亨根(Yun Hyong-Keun)展を見に出かけます。ちょうど昨年の今頃,東京オペラシティアートギャラリーで見た「単色のリズム 韓国の抽象」展で魅了された作家。まとめて見ることができてとてもうれしい。美術館はシンプルそのもので潔い美しさ。
 尹亨根の作品はほとんど"Burnt Umber & Ultramarine Blue"のように色そのものがタイトルになっていて,その名のとおり深い茶色と青の絵具によって構成されていて,それは大地の色と空の色ということ。つまり,万物がそこに還る場所という意味がそこに込められています。
 壁面に画家の言葉が引用されていて,思わず引き込まれます。1980年の日記の一節を思わずメモする。(ハングルと英語の併記でした。)
 When we get emotional, it's because we're feeling all emotions at once; joy, sorrow, grief, and happiness.  Sorrow is the inverse of joy.  In other words, the ultimate beauty is joy and sorrow, simultaneously.  That's why art -especially the most beautiful art- is always sad.
 
 究極の美しさとは悦びであり,哀しみである,か。隣国とはいえ,異国で一人,美しい抽象画を前に何だかじわっときました。単色画の画家でもう一人,同館のコレクションに入っている鄭相和CHUNG Sang-Hwaが気になっていて,Book Shopで作品集がないか尋ねてみるも,No book!の一言で撃沈。残念。
 
 MMCAではほかにハルーン・ファロッキのビデオアートと,チェ・ジョンファ展を。あっという間に夕暮れ時になって,ほど近いタンパッチュ(甘くないお汁粉)の人気店へ。えっと。お汁粉は甘いほうがおいしいな。と思いました。。 

2018-12-16

2018年12月,ソウル(1),買ってきた古いもの・木人形

  少し間が空いてしまいました。新しい案件を抱えつつ,2泊3日の旅程で極寒のソウルに行ってきました。ソウルは3回目。市内の移動くらいはさすがに慣れてきて,いろいろ詰め込みましたがほぼ予定通りに回れました。前々回に木製品をいくつか買い求めた骨董街では今回はこんな木人形(モギン)を。

 朝鮮時代後期の木彫像です。喪輿(サンヨ・柩を載せる輿)などを装飾したものということらしい。韓国のトラのモチーフが大好きなので,思わず手に取って一緒に日本へ。骨董街では李朝の水滴も探したのですが,その顛末はまた後日。

2018-11-25

2018年11月,東京竹橋,「インゲヤード・ローマン展」/「アジアにめざめたら」

 
  うっとりするほどシンプルで美しい器たちが配されたポスターに惹かれて,竹橋の国立近代美術館工芸館へ。工芸館はほとんど足を運んだことがありません。レンガ造りの端正な建物です。金沢市への移転が決定しているとのこと。
 
 スウェーデンのデザイナーであり,陶芸家でもあるインゲヤード・ローマンの作品はいずれも日常つかいの食器や花器が中心。シンプルで美しいそれらの器たちが,これ以上の配置はなかろう,というくらい完璧(と私には思えました)な展示構成で並んでいて,展示室で至福のひとときを過ごしたのでした。
 
 チラシによると,彼女は自分のことを"form-giver"と呼ぶのだそう。「形を与える者」とは,素材に対して,ということだろうか。「この世界の美しきもの」に対してかもしれない。会場に流れるビデオを見てさらに驚いたのは,彼女には識字障がいがあるのだということ。言葉を超えるものが彼女の核となるものを培ってきたということだろうか。「シンプルで美しい」生き方をする人の姿勢がたまらなくまぶしい。 
 
  国立近代美術館では「アジアにめざめたら」展が開催中です。興味を惹かれるものと惹かれないものがはっきりしてしまうのですが,リ・ウーファンの鉄と綿のオブジェには,それこそ言葉にならない衝撃を受けました。綿を使った作品を見たのは初めて。こんなシリーズがあったのか。

 そしてもう一つびっくりしたのがPROVOKEの「復刻版」の展示。ページを解体しているので,全体を見渡して見ることができて感激でした。常設展示では森山大道のにっぽん劇場と並んで中平卓馬のパリビエンナーレ出品作がタブロイド印刷版で展示されていて,こちらも感激。

2018-11-23

2018年11月,東京日吉,「日曜日の散歩者 忘れられた台湾詩人たち」

 昨年の公開時に見に行けなかった台湾映画「日曜日の散歩者」の上映会&シンポジウムが慶應の日吉校舎で開催されたので,出かけてきた。1933年,日本統治下の台南が舞台で,日本語で新しい台湾文学を作ろうとしたモダニスム詩人たちの姿が描かれる。
 
 「風車詩社」の存在を知らなかった私にとっては,すべてが驚きの連続である。すべてが,というのは,彼らの存在・活動・作品のことであり,全編を通して登場人物の「顔」を映さない映像のことであり,まるでパッチワークのようにスクリーンに映し出される写真・アート作品の数々のことである。
 
 林永修氏の人生が中心に据えられる。ただ,詩作は字が小さくてあっという間に次の場面に転換するのでほとんど読めていない。印象に残るものは後日,参考文献に当たってみよう,という気になる。劇的な人生にばかり吸い込まれていく。
 
 個人的には,桑原甲子男や中山岩太のモノクロームの写真や古賀春江の作品が映し出されるたびに心が躍る。映画全編を通して,どこか美術館のホールでシュルレアリスムの映画を一編見たような感覚だ。 
 
 時間の都合が合わず,シンポジウムは聴講しなかった。日吉キャンパス内の来往舎では関連の写真や文献の展示があり,興味深く拝見。世界には知らないことがいっぱいあるな,という想いを抱えて初冬のキャンパスを後にした。

2018-11-18

2018年11月,東京上野,フェルメール展

  「東京ノート」から時を経て,上野の森美術館で開催中のフェルメール展にでかけました。入場が予約制になっていて,長蛇の列は回避できます。指定の時間帯の開始時間には少し行列ができていましたが,すんなり入場できて会場内もそれほど混雑していませんでした。

 熱狂的なファンというわけではないのですが,8点が勢ぞろいしているフェルメールルームの迫力たるや圧倒的です。一瞬を切り取るというより,「時間」が描かれているこれら絵画を前にして,でてくるのは溜息ばかり。

 個人的な思い入れが強いのはアムステルダムで見た「牛乳を注ぐ女」との再会かな。色も質感も大きさも,画集で見るのとは違ってとても強い。たくさん美術館をまわった,あの初冬のオランダでの高揚感をまざまざと思い出しながら,絵を見るという行為の個人的経験としての楽しさを再認識した一日となりました。

2018-11-11

2018年11月,東京駒場「ソウル市民」/読んだ本,「東京ノート」(平田オリザ)

  劇作家平田オリザの名前と著作は,同時代に生きていて知識としてはよく接してきた気がするが,実際に舞台を見たのは今回が初めてだ。駒場アゴラ劇場に「ソウル市民」を見に行った。
 
 きっかけは飯田橋文学会の文学インタビューの平田オリザの回に参加したこと。著作3冊が事前に提示されるのだが,そのうちの一つが「ソウル市民」「ソウル市民1919」の舞台だった。それはそうだろう,劇作家に「あなたの代表作は」と問うたのだ。
 
 「ソウル市民」は1989年初演された「現代口語演劇の出発点」となった平田オリザ代表作の再演ということ。幸運にも席を取れた。見終えて感じたことはまず,「間に合ってよかった」ということ。平田演劇を知らずに過ごしてしまうところだった。そしてまた,「再演」ということの意味も考えている。
 
 今では何の不自然も感じない「現代口語演劇」の舞台に違和感なく没入できる。しかし,そこで繰り広げられているのは「人が人を支配する社会」だ。劇団のフライヤーには「押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で,運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる」とある。
 
 いくつもの印象に残る逸話の中で,文通相手の恋人の来訪を待ちわびる次女の無垢で残酷な自意識が痛々しい。
 

 著作として「東京ノート」の脚本も読んでみた(ハヤカワ演劇文庫 2004)。登場人物たちの会話を活字で読む行為は,オーケストラの五線譜を読む行為にも似ている。この舞台は1994年初演ということ。美術館の片隅のロビーが舞台なので,個人的に親近感を覚えて読み始めたが,穏やかな時間の裏でヨーロッパでは戦火が広がり,多数の美術品が疎開してきている。こんな会話の先に,答えなどない。
 
 木下「フェルメールの絵ってさ,みんな人が,窓の方向いてんだって。」野坂「うん。」木下「知ってた?」野坂「うん。」木下「あ,そう。」野坂「だって,見れば判るじゃない。」木下「あぁ,そうか。」(略)木下「あれは,画家と一緒に人を見てる気がするでしょ。」野坂「だまされましたね,うまく。」木下「えぇ?」野坂「あのね,絵を見て綺麗だなと思うのは何故でしょう?」木下「え?」野坂「本当の景色とかね,本物の人間よりも,絵を見て綺麗だなって思うのはどうしてでしょう?」木下「さぁ、」野坂「…」木下「どうして?」野坂「さぁ」木下「なんだよ。」(略)(pp.191-192より)

2018-11-04

2018年10月,東京渋谷ほか,「大名家の能装束と能面」「東西数寄者の審美眼」「松浦武四郎」展


  10月の週末,まだ紅葉には少し早い秋の一日に,日本美術を堪能してきました。展覧会を4つハシゴしてしまった。忘備録として。

 まずは泉屋博古館に「加納芳崖と四天王」展の後期展示(10月28日まで)を見に。前期と後期でこんなに入れ替えるんだ,とびっくり。狩野芳崖の「悲母観音」がやはり圧倒的な迫力です。

 渋谷へ向かい,松涛美術館で「大名家の能装束と能面」展(11月25日まで)を。意外なほど(失礼ですね)会場に人が多くてびっくり。能舞台で生身の人間が身につける装束や面が展示室のガラスの向こうに並んでいるわけですが,それらの「もの」そのものが持つ「魂」のようなものと,能役者と彼らが演ずる能曲の登場人物の「生命感」のようなものが絡まりあって,静かなうねりのように迫ってきます。井関河内の手による般若の面は,面そのものがこの世のものとは思えない。1時間ほど滞在して,腰が砕けるような感覚で美術館を後にしました。

 次は五島美術館で「東西数寄者の審美眼」展(12月9日まで)を。逸翁美術館と五島美術館の銘品が並ぶ展覧会。眼福としか言いようのない,美しい茶道具や書画の銘品を前にしてひたすら楽しい。長沢芦雪の「降雪狗児図」にほっこりして,堆黒屈輪文盆はいいなあ~となって,ガレのガラス壺を茶器に見立てる軽やかな精神にうっとりです。

 最後は静嘉堂文庫美術館の「幕末の北方探検家 松浦武四郎展」(12月9日まで)で締めくくり。北海道の名付け親の生誕200年を記念した展覧会です。各地で開催されているそうで,静嘉堂文庫美術館では同館所蔵の武四郎の旧蔵品の展示がメイン。で,玉や金環を集めた「大首飾り」が圧巻。北蝦夷余誌などの古書展示が面白かったけど,全体的にちょっと地味な印象の展覧会でした。4館まわってさすがに疲れたな。

2018-11-03

読んだ本,「路上の人」(堀田善衛)

  富山の高志の国文学館で「堀田善衞―世界の水平線を見つめて」展が12月まで開催されている。行きたいとは思うものの,初冬の北陸の天候を考えると二の足を踏んでしまっている。事情があって金沢へでかける頻度も減っているので,このまま会期の終了を迎えてしまうかも。
 
 そして,実はもう一つ二の足を踏む理由がある。展覧会のチラシやポスター,HPの解説文,そのいたるところに「スタジオジブリ」と「宮崎駿」氏の文字や原画が踊っているのだ。宮崎氏は,自身の作品に大きな影響を与えたのが堀田善衛だと広言している。アニメをほとんど見ない昔からの読者の私は,こんなにスタジオジブリをフィーチャーしなくても,というちょっと複雑な想いを抱いている。アマノジャクなんだろうか。
 そんな気分で「路上の人」(新潮社 1985)を読み返してみた。初読はかなり前なのでほとんど忘却の彼方だった。路上のヨナが語り手となり,信仰とは何か,宗教とは何かを問う。物語の後半,ヨナは教皇の使者であり、異端審問の査察官であるアントン・マリア伯爵と行動を共にし,異端カタリ派最後の拠点モンセギュール城攻防が語られる。
 
 腐敗したバチカン教会が,「異端」であるという理由で,純粋な信仰を持つ人々を追い詰めていく過程とその結果が時に冷静に,時に壮絶に語られる。アントン・マリアの,ルクレツィアという女性への恋慕の情が切なくやるせない。
 
 「旦那,そんなにも何もかもに反対なのでしたら,旦那は何に賛成なさいますんで?」「おれか,おれは人が生きることに賛成なのだ」「へえ…。それでは神様は旦那の挙げなさったもののうちで,何にご賛成ですかい?」「それがわからぬ。神がかくも多くの解決不可能事を擁して,しかもなお平然としておいでであろうとも思われぬ」「それはあれですかい,この世はやっぱり教会の穴倉の扉にありますような,蟇やら蜥蜴やら蜘蛛やら蠍やらだらけのところで,天国へ行かないことには楽にはなりませんのですかい?(後略)」(pp.279-280より) 

読んだ本,「空港時光」(温又柔)

 作家は台北生まれで3歳で来日,日本語がほぼ母語なのだろうか。温又柔(オン・ユウジュウ)の「空港時光」(河出書房新社 2018)を読んでみた。台湾と日本の政治的・歴史的な背景がある程度は頭に入っていないと,あまり楽しめないかもしれない。逆説的に言えば,ボーダーレスな文学を楽しもうとするためには歴史や政治の知識が必要なのだ,ということ。今更ながら,はっとする。
ただ,幾つかのアイデンティティーを抱える作家が,まさに境界である「空港」を舞台にした小説ということで抱いた期待はあまり充たされなかったのが正直なところ。読み始めてすぐにこれが連作短編ではないことに軽く衝撃を受けた。

 1つ1つの短編が浅い。これらはどこかで絡み合ってくるのだろうと思って読み進めてもまったくその気配ななく,いろいろなパターンの台湾人と日本人が次々に登場する10篇の短編が並んでいるのだ。タイトルの「時光」が日本語のようで日本語でないように,どこかもどかしい読書体験だった。

 しかし,巻末のエッセイ「音の彼方へ」はとても魅力的な内容・文体。このジョン・トービーやスーザン・ソンタグの著書からの引用なども含まれる40数頁のおかげで私は温又柔をまた読んでみたい,と思う。台東のギャラリーでスペイン語で書かれた短冊を見つけた場面。
 
 「これを書いたひとは,どこからやってきたのだろう? スペイン? メキシコ? あるいは,もっと他の… いずれにしろ,ここに来た記念をスペイン語で綴るひとがここにいた。短冊の文字はその痕跡だ。そのひとは想像しただろうか。自分の書きつけた文字を読み,スペイン語だ,と日本語で喜ぶ人がいることを。ふしぎな興奮が募る。文字は,言葉の跡だ。書く,という響きが,掻く,と通ずることを思い知る」(p.174より)

2018-11-02

2018年11月,フラグミペティウムの開花

  南米由来の蘭。「フラグミペティウム」という名前をなかなか覚えることができず,思い出そうとするとなぜか「ピルグリムファーザーズ」がいつも頭に浮かんでしまいます(??)。花はパフィオそのものなんだけど,葉の感じはまるで春蘭。とても不思議。

 開花したのはそれはそのはず,蕾のついた株を購入したのです。NHKの「植物男子 ベランダー」にすっかりはまっていて,「なじみの花屋」のPROTOLEAFを時々のぞくようになりました。珍しい植物が多くてとても楽しい。先月はリュウビンタイの小株も買ってみました。原作のいとうせいこう「ボタニカルライフ」も読んでみなくちゃ。

2018-10-27

2018年10月,皇居,秋の雅楽演奏会

  秋の一日,皇居へ出かけて宮内庁式部職楽部による雅楽演奏会を拝聴してきました。秋の演奏会は3回目かな。往復はがきで応募するのですが,意外と当たる確率が高いかも。強運を喜んでいたら,今年は当選者数を増やしたらしいと聞きました。ありがたいことです。
 
 曲目は管弦が「平調音取」,「催馬楽 更衣」,林歌」,「雞徳」。舞楽が左方の舞は「春鶯囀(颯踏・入破)」,右方の舞は「地久」でした。「催馬楽」は初めて聴きました。歌詞がまったく聞き取れませんでした。。舞楽は「地久」の大きな鼻の面が不思議な雰囲気を醸し出していて,この世のものとは思えない舞人たちの動きに吸い込まれてあっという間に終演。
 
 ぼーっと外苑を歩いていたら,桜の開花?! 時空を旅して目の錯覚?! いやいや, 「十月桜」という品種なのだそう。

2018年10月,東京上野,「マルセル・デュシャンと日本美術」展

 東博で開催中のマルセル・デュシャン展を見てきました。この展覧会は「…と日本美術」がポイント。マルセル・デュシャンの展覧会は様々な取り上げ方をされているので,東博ならではというところが興味の対象になるのかと。

 とはいえ,第1部はフィラデルフィア美術館からのコレクションがこれでもか,と並んでいて壮観です。東大駒場博物館の大ガラスの展示も。「遺作」は2005年の横浜美術館の展覧会(「マルセル・デュシャンと20世紀美術」)での再現展示に衝撃を受けたので,今回のような細部展示や映像展示はその記憶をたどる作業になってしまった感じ。
 
 第2部の「デュシャンの向こうに日本が見える」は面白かったけれど,ちょっと無理くり感が否めない。。竹製の花入れを「レディメイド」と言うのはいかがなものでしょうか。あれは「竹でできた花入れ」なのですよね。。
  
 ところで余談ですが,先日横浜美術館のコレクション展で2005年のデュシャン展にも出品されていた吉村益信の「大ガラス」を見て(「イメージの引用と転化」),今回の展覧会と同じタイミングだったので面白かった!

 実は2005年当時,デュシャンのどの作品よりもこのでっかいカラスの印象が強烈で,デュシャン展にでかけてパロディが一番強烈だったとは,それこそデュシャンのワナにはまったのか!と思ったものでした。(⇒日本語限定だと後で気付いたけどね。今回,横浜美術館のコレクション展リストにはこんな解説が付いてました。Oh-Garasu (Japanese homonym of "The Large Glass" and "a big crow"これなら外人さんにも大うけ?!)
(横浜美術館のコレクション展です。東博のデュシャン展とは関係ないのであしからず。)
  東博ではほかに「大報恩寺 快慶・常慶のみほとけ」展と東洋館の「中国書画精華」の後期展示も。

2018-10-08

読んだ本,「エバ・ルーナのお話」(イザベル・アジェンデ)

  イザベル・アジェンデ「エバ・ルーナのお話」(国書刊行会 1995)を読了。「日本人の恋人」が面白かったので,読んでみた。全部で23扁の短編集である。とにかく「物語」の人だ。ガルシア・マルケスに似ているという書評をどこかで読んだことがある。

 最初と最後に「千夜一夜物語」からの引用があり,現代のシェヘラザードたるアジェンデの語り手としての自負が伝わってこようというもの。解説で木村栄一氏は,アジェンデは神話的祖形の鋳型を使って物語を創造しているのだと結論づけているが,その物語世界は幻想的でありながら現実的,陰惨でありながらユーモラスだ。殺人も復讐も替え玉も,世界のすべてが渾然一体となって読者を魅了する。

 どの短編もそれぞれの魅力があって忘れがたいが,「北への道」「無垢のマリーア」「終わりのない人生」「幻の宮殿」などなどがとりわけ心に残る。不治の病の老妻を手にかけて,自らも致死量の毒を入れた注射器を手にした老人はしかし,自分の血管に注射を打つことができなかった、そんな夫婦の愛の物語である「終わりのない人生」はこんな風に始まる。

 「お話にはいろいろな種類がある。話しているうちに生まれてくるものもあるが,だれかが言葉にして語る前は,とりとめのない感動,ふとした思いつき,あるイメージ,おぼろげな記憶といったものがやがてお話になる。ただ,どんなお話も言葉でできている点が共通している。中にはまるでリンゴのように最初から完全な形で生まれてくるものもあるが,(略)また,記憶の奥底に秘められているお話もある。そういうものは生命組織のようなもので,根を張り,触手を伸ばし,付着物や寄生植物をまとう。時間が経つとともに,それは悪夢の種になって行く。時々記憶から生まれてくる悪魔を祓うために,物語として話さなければならなくなる」(p.214)

 

読んだ本,「ヘンな日本美術史」(山口晃)

 泉屋博古館で日本画の展覧会を見てから,思い立って手に取った本。小林秀雄賞を受賞したときのすずしろ日記(UP版第104回)がケッサクだったので購入してそのまま本棚に眠っていた。
  文章は平明だけれど,山口晃という絵師にしか書けない・見えないものがちりばめられていて夢中で読み終えた。図版も美しいけれど,本人のさらさらっと書いた挿図もまたお見事。(「慧可断臂図」の顔の説明。これはキュビズム!だ!)

 もともと講演で話した内容を文章にまとめたものらしい。「山口晃という絵師にしか書けない」という点が小林秀雄賞につながったのだろうか。「すずしろ日記」では小林秀雄を「ヘリクツの王様」扱いで思わず苦笑。河鍋暁斎を扱う次のような文章ではその面目躍如といった感じだろうか。芳崖や雅邦を見た後なので,尚更面白く読んだ。

 「近代の日本画は,私などには天心の危機意識と同志フェノロサの理想の押し付けが生み出した外発性の高い人工的な代物に見えるのです。先述した旧来伎藝の再編入以上に近代日本画に見られるのは,バルールの重視と透視図法の導入です。この二つは多分に西洋画的な要素であり,暁斎の描く実感による画と相いれませんが,西欧や欧化への対処の為にあえて加えられたのです。これを試した芳崖や雅邦の後の人たちは,パースのきちんととれた画を描くようになります。/パースに関しては暁斎は「とれない」と云うことになるのですが,私はあえて「とれない事ができる」と言い換えます。」(p.229)

2018-09-27

2018年9月,東京上野,「世界を変えた書物」・「藤田嗣治」・「海の道」・「中国書画精華」

 初秋というよりは晩夏の一日,上野で展覧会三昧を楽しんできました。暑い夏だったけれど,8月・9月は随分たくさん見たな。駆け足の忘備録として
 
  まずは上野の森美術館で「世界を変えた書物」展を。金沢工業大学の所蔵する「工学の曙文庫」から選りすぐりの稀覯書が並んでいます。並んでいる書物のすごさへの興味は半分,展示の面白さや楽しさに興味半分といった感じ。SNSで話題らしく,展示をバックに必死で自撮りする若い人たちがいっぱいだった。ご苦労さま。
  東京都美術館では「没後50年 藤田嗣治展」を。肉声を公開したテレビ番組を見て,見ておこうと思いたった展覧会。裸婦や猫よりも,戦後日本を離れてフランス人となってからの宗教絵画(第8章 カトリックへの道行き)に胸を打たれました。日本への募る思いを耐えたのは,信仰があったからなのだろうと,観る者をねじ伏せるように納得させる絵画や十字架が並んでいました。
 
 東京国立博物館へ向かって,久しぶりに法隆寺宝物館を見てから東洋館へ。「博物館でアジアの旅」は今年はインドネシアがテーマです。「海の道 ジャランジャラン」というタイトルは「散歩」という意味なんだとか。影絵芝居ワヤン・クリの上演があったと後で知って,まさにあとの祭り。万難を排して(?)行けばよかったなあ。しかも抽選ではなくて先着順だったらしい。今年最大の後悔かも。美しいバティックやイカットなども。
 
 そして中国書画のフロアでは中国書画精華展を。李迪の紅白芙蓉図軸を展示ケースで至近距離で見た! こういう見方があったのか! しかも一人占め! 

2018-09-24

2018年9月,東京松涛,「詩人 吉増剛造展 涯の詩聲」

 
  松涛美術館で「詩人 吉増剛造展 涯の詩聲」を見る。この詩人について何かを語ることなど,とても私の手に負えない。いつものことだ。
 
 今回も,ただただ圧倒されて,沈黙するのみ。「詩集の彼方へ」で中平卓馬を3点見る。若林奮のドローイング。島尾敏雄の書簡・写真。
 
 展示されている詩集を見ていると,意外と私もたくさん持っている。ちゃんと読み通した詩集があるだろうか。太刀打ちできず,がっくりと膝をついてしまうのだ。いつもいつも。
 
 吉増剛造の写真集は繰り返し見る。多重露光の写真は彼の詩の世界そのものだ。詩を読むかわりに,写真を見る。詩を読めなくても,写真を読む。時を忘れる。いつまでもいつまでも。
 
 In-betweenのアイルランド。遠いその場所へ。私を呼ぶ声がする。此処へ。此処へ。

2018年9月,横浜みなとみらい,「モネ それからの100年」展・「水・空気・光」

  横浜美術館で「モネ それからの100年」展を見てきました。評判の展覧会です。会場は大混雑。ただ,「モネ」を見に来た人が多いのか,「それからの100年」に含まれる作品の前ではあからさまに戸惑う感じの人がいて,ちょっと残念だったな。中西夏之の前で「何なの,これ」と大声をあげてた若いカップルはレッドカード(?)だな。
  会期中に行われた林道郎氏の講演記録が公式HPで読めるので,とても参考になりました。戦中から戦後へかけてのフランスでのモネの評価や,戦後アメリカの評論家による再評価についてなど,そうだったのか!と目から鱗でした。「抽象表現主義との関係の中で、大画面やオールオーバー構造などが評価された」とあり,マーク・ロスコやサム・フランシスの展示がますます興味深いものになりました。

 そして横浜美術館らしいというか,スティーグリッツやスタイケンの写真もあり,後半では鈴木理策あり,とまさに「わたしがみつける新しいモネ」を体験できる展覧会で楽しかった!

 ところで会期中にみなとみらいホールで行われた『「モネ それからの100年」によせて』という副題のついた「音楽と舞踊の小品集 水・空気・光」公演にもでかけました。横浜ダンス・ダンス・ダンス2018との共催で,第2部の舞踊プログラムの首藤康之と中村恩がお目当て。

 首藤康之が踊ったのはスクリャービンのピアノエチュードと,メシアンの四重奏曲。いやあ,よかった!途中,「見ざる聞かざる言わざる」みたいな手ぶりの振り付けがあって,踊り手は五感を超えた世界にいるのだろうか,そこはどんな色彩に満ちているのだろうか,と不思議に思う。

 そしてコダーイのピアノ小品にのせてマーサ・グラハム舞踊団の折原美樹がLAMENTATIONを踊りました。これを見ることができたのはすごいことらしい,とは分かったものの,今一つピンと来なかったのですが,三浦雅士の「バレエの現代」(文芸春秋 1995)を紐解いてびっくり仰天。

 第2章「グレアム」の中に,「グレアムは東洋的な身振りを愛したし,また日本人を愛した。アキコ・カンダ以降,タカコ・アサカワからミキ・オリハラにいたるまで,その舞踊団に日本人は少なくない」(p.78)という記述があるのです!ミキ・オリハラを眼前に(席は前から2列目だった)見ることができたわけ。後からじわじわ感動です。

古いもの,アンティークフェルメールで買ったもの,薔薇のインク壺

  この夏,金沢のアンティークフェルメールで出会ったもの。おとしを入れて,インク壺として使われていたものとのこと。BLOOR DERBYと読める刻印があります。ブルーア期のダービー窯のもので,1820年頃のものだそうです。200年も前とは思えない絵付けの鮮やかなローズ柄がとても上品で素敵。

  香炉として使おう!とその場で思いついたのですが,実際にお香を焚いてみたら予想以上に熱がこもってしまって,磁器の色味に影響がありそうで心配になってあわてて消した(汗)。中に不燃布を敷いて,その上にプラスチックの小さな香台を置いたのだけれど,熱が外に逃げないからだな。。

2018-09-21

2018年9月,東京六本木,「狩野芳崖と四天王」展

   地下鉄六本木一丁目駅から泉屋博古館分館へは屋外エスカレーターを使ってアプローチするのですが,なんとなく,日常が「下界」のように思えてきてしまいます。とりわけ,「悲母観音」の狩野芳崖を見に行くとなれば,美術館が近づくにつれて空気も清らか(?)に感じます。  「狩野芳崖と四天王 近代日本画、もうひとつの水脈」展が10月28日まで開催されています。

 狩野芳崖と,その四人の高弟,岡倉秋水・岡不崩・高屋肖哲・本多天城を紹介する展覧会です。それぞれの画業は今まで目にしたことがあったかもしれないけれど,師と弟子という関わりを意識して見ると,瞠目するばかり。師の絶筆「悲母観音」の模写(高屋肖哲)など,師の魂をなぞるような凄まじい迫力に圧倒されます。狩野芳崖「岩石」は光と影の表現が斬新でかっこいい。
美術館より特別に撮影の許可を頂きました。以下同。
  ところで,芳崖の「悲母観音」ほか三大名画の展示は後期(10月10日)です。これはぜひもう一度足を運ばなければ。構図がよく似た「出山釈迦図」(観音ではなく釈迦の図)は通期展示で,目を凝らすと岩の上に真白の獅子の姿が見えます。そのすぐ近くに橋本雅邦「神仙愛獅図」と狩野芳崖「獅子図」が並んでいるのが面白い。横顔の仙人はフェノロサの顔とも言われているそうで,確かに西洋人のように見えるから不思議。
 
 個人的には本多天城がとても面白かった。「日之出波涛図」のダイナミックな荒波! そして岡不崩の繊細な花鳥図も美しい。後半生は本草学に傾倒したのだとか。 

  展覧会の後半は,岡倉天心が率いた日本美術院に属した横山大観,下村観山,菱田春草,西郷孤月,木村武山の展示です。芳崖四天王は日本美術院には参加しなかったということ。かたや狩野派の残光,一方は近代化を克服した日本画の大家たちという図式がわかりやすく,見終えて「近代日本画」という一コマの講義を受けた気分です。

2018-09-16

読んだ本,「雪の練習生」「球形時間」(多和田葉子)

 ようやく夏を乗り越えて,多和田葉子の旧作を2冊。「雪の練習生」(新潮社 2011)はホッキョクグマの三代記。「祖母の退化論」「死の接吻」「北極を想う日」の三章はそれぞれ,ベルリン動物園のクヌートの祖母,母トスカ,そしてクヌートが主人公となる。
 
 「毎日少しずつ涼しくなっていくということは,遠くから冬がやってくるということだ。もし近かったらベルリンの夏の暑さで暖まってしまったはずなのに,とても冷たい風が吹いてくるということは,冷たさを保ったまま,町の熱をこうむらない「遠く」があるということだ。遠くへ行きたい。」(p.251)
 
 小説を読みながら,この小説はクマが書いているのかヒトが書いているのか,だんだんその境界が曖昧になってくる。そしてふと気づく。読んでいる私は誰だ? いや,私はクヌートの母なのか,祖母なのか,いや,ヒトなのか,雪なのか。ぬいぐるみなのか,クヌートの死んだ兄なのか。
 
 「それにしてもマティアスはいつになったら姿を現すんだろう。そう考え始めると我慢できなくなってきて,これが「時間」というものなのだ,と突然クヌートは悟った。窓がだんだん明るくなっていく,その遅さ,それが時間だ。時間というものは一度現れるといつ終わるか分からない。」(p.185)
 
  「確かにマティアスは自分のことを「マティアス」とは呼んでいない。「マティアス」というのは他の人がマティアスを呼ぶ時に使う言葉で,本人は使っていない。これまで気がつかなかったが,なんと不思議な現象だろう。それでは自分のことをどう言っているかよく聞いていると,「わたし(イッヒ)」と言っている。しかも驚いたことにクリスティアンも自分自身を「わたし」と呼んでいる。みんなが自分自身のことを「わたし」と呼んでいて,それでよく混乱しないものだ。」(p.210) 
 「球形時間」(新潮社 2002)は,歪んだ時空を生きる悩める高校生男女のストーリー。太陽を崇拝する大学生が登場するあたりから読めなくなってしまった。いくら好きな作家でも,相性が悪いということはままあるものだ,と独りごちながら,それでも一応は通読した。やっと読み終えた。

2018-09-08

2018年9月,東京初台,イサム・ノグチ展

 オペラシティアートギャラリーで「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展を見てきました。とてもとても面白かった!自分の中で次々に繋がっていくものがあって,ぞくぞくする思い。
(「彫刻家の手紙」表紙の写真はイサム・ノグチではなくてエドゥアルド・チリーダ《風の櫛》です)
「身体との対話」「日本との再会」「空間の彫刻ー庭へ」「自然との交感ー石の彫刻」の4章で構成されています。「身体との対話」は,そうか,ここが彫刻家の出発点なのか,という驚きに満ちた展示。「中国人の少女」という小さな像は離れた位置から見ても中国人にしか見えない。その存在の核みたいなものがそこにあるからか。そしてブロンズ「伊藤道郎」にはやられました。能面の形態を模していながら,その人でしかない。しかし仮面である,という幾重にも重なった不思議に満ちています。

 そしてこの章では,イサム・ノグチとマーサ・グラハムの関係が展示されていて,それは私にとっては事件(!)でした。8月末にみなとみらいホールで横浜ダンスダンスダンスの一環「音楽と舞踊の小品集」を見に行って(首藤康之がお目当て),マーサ・グラハム舞踊団の折原美樹の”LAMENTATION”を見たのでした。

 展示は,イサム・ノグチが手掛けた舞台装置や「ヘロディアド」の映像などなど,衣装デザインもてがけたらしい。イサム・ノグチが舞台美術を手がけたのは18作品あるらしいけれど,”LAMENTATION”が含まれているかはこれから調べてみようと思っているところです。ネットで検索してダンス関係のHPにノグチのこんな言葉を発見。

 「永遠の時間という独自の世界の中で、舞台上で彫刻に命が吹き込まれるのを見るのは喜びです。次第に空気が意味や感情に満ち溢れ、形が儀式を再現する上で不可欠な役割を果たします。劇場は式場であり、パフォーマンスは儀式です。日常生活における彫刻もかくあるべきであり、またその可能性を秘めています。その一方で、劇場は私に、詩的で高貴な等価物を与えてくれています。」(https://www.hermanmiller.com/ja_jp/stories/why-magazine/dance-partners/)より引用。

 さてさて,「空間の彫刻ー庭へ」では日本の禅宗の寺院の影響がとても面白かった。「スライド・マントラ」の関連ではジャイプルのジャンタル・マンタルの写真に感激。私も行ったよ!「自然との交感ー石の彫刻」の「下方へ引く力」は,あれ,横浜美術館に同じシリーズのがあったはず,と思ったら横浜美術館の所蔵品でした。こんな調子で子どものように興奮してしまった。

 いやあ,楽しかった。ミュージアムショップで「彫刻家への手紙 現代彫刻の世界」(酒井忠康著 未知谷 2003)を見かけて,大急ぎで帰宅して書棚を探しました。

 「彫刻の原点が空間についての思索の運動であるとすれば,人生についての思惟は時間の意識に関連します。空間は未来を,時間は過去(記憶)を暗示しますが,晩年のノグチは徐々に、この「時」の経過が刻む「沈黙」の意味について関心を深めていったように感じられます」(p.42より引用)

2018-09-02

2018年8月・9月,東京汐留ほか,河井寛次二郎展,縄文展,琉球展,ゴードン・マッタ=クラーク展

 急に涼しくなってきて,暑かった今年の夏のあれこれを整理中(怒涛の勢い)。話題の展覧会や印象に残った展覧会を3つ,夏の忘備録として。
 
 汐留のパナソニック汐留ミュージアムで「没後50年 河井寛次郎展」。極私的な思い入れとして,河井寛次郎は一点所有していて,京都の河井寛次郎記念館に鑑定と桐箱作成を依頼しに出かけたことがあるのです。
 
 なので,ついつい「好き」という基準と「モノとしての価値」を混同してしまうのだけれど,ああ,いいなあと思うものの前に立つと自然と頬がゆるんできてしまう。意外だったのが,詩を書く人だったのか,ということ。「好きなものの中には必ず私はゐる」。写真撮影可のものも多かった。鉄釉抜蝋扁壺をアップで。
  サントリー美術館では「琉球 美の宝庫」展を。2015年に,町田市立博物館で「沖縄の工芸」展を見た記憶も鮮明です。今回は琉球王国の美が,東アジアとの交易,土着の信仰,薩摩藩との関係などなど,歴史のうねりの中に位置づけられて展示されていて,一編の小説とか映画を見るようでなんとも刺激的。町田市立博物館で感激した美しい琉球漆器の数々も堪能。メインイメージになっている王冠も,その威厳に満ちた美しさに圧倒されます。
 
 最後にもう一つ,この夏の話題だった「縄文展」を東京国立博物館で。「1万年の美の鼓動」とか「ニッポンの,美の原点」とか,大変だわ,こりゃ。という感じの展覧会でした。展示の最後の,柳宗悦ら民藝の作家たちが愛玩した像たちとか,岡本太郎が撮影した縄文土器写真とか,「位置づけられたもの」としては美しいなあと思ったけれど,土偶や土器は遺跡資料館みたいなところで「発掘品」として見るほうが楽しいなあと思ってしまった。これだけ盛り上がってる展覧会でそんなことを考えてしまうのは不埒者ですな。
 
 平成館企画展示室で開催されていた「平成29年度 新収品」展示は面白かった!インドネシアの影絵芝居人形「ワヤン・クリ デウォブロト」,梅若家伝来「能面 伝山姥」などなど。
 
 追加でもう一つ。東京国立近代美術館で「ゴードン・マッタ=クラーク展」を。ビルディング・カットの写真や模型展示に度肝を抜かれました。映像も多く,会場のデザインがとてもかっこいい。屋外の「ごみの壁」は東京で再作成されたもの。そして一番印象に残ったのは,クラークの弟の死についてのエピソードだったかもしれない。



読んだ本,「日本人の恋びと」(イザベル・アジェンデ)

  イザベル・アジェンデ「日本人の恋びと」(河出書房新社 2018)を読了。今年まだ寒いころに新聞の書評欄に掲載されていたのを読んで惹かれたもの。手にしたとき,まずゴッホのカバー絵の美しさに心躍る。
  イザベル・アジェンデを読むのは初めて。「精霊たちの家」が池澤夏樹編集の世界文学全集に所収されていて,ずっと気になっているのだが,「ラテンアメリカ文学」の旗手という認識だったので,この物語にはちょっと面喰ってしまった。

 アメリカの老人ホームが舞台となり,80台の謎めいた女性アルマの「生涯の愛」がミステリー仕立てで語られていく。愛の対象は日系人のイチメイ。モルドバ出身の若い女性イリーナが語り手となる。出版社の惹句には「現代の嵐が丘」とある。

 なにしろ盛り沢山なストーリーで,頁を繰る手を止められない。老い,ユダヤ人迫害,移民問題,児童ポルノ,同性愛などなど,読者は忙しい。「老人ホームに住む家族」がいて,自分が「日本人」の読者である私は,アルマとイチメイの愛の物語を息苦しく感じる場面も少なくはなかったが,読書の至福を味わえたことは間違いない。

 ところで,どんな愛の表現よりも印象に残ったのは,こんな場面の一節。老いることの醜さ,恐ろしさ。夫のナタニエルが撮った若いころの自分をモデルにした写真展の会場で。

 「当時のモデルのまま見てもらうほうがいい。いまの老婦人として人に見られるのはいやだという。うぬぼれているわけじゃなく,控えめにしていたいのと,彼女はイリーナにうちあけた。自身の過去の幻像を見返すだけのエネルギーがない,裸眼で見えなくてもカメラが暴露しかねないものを,アルマは怖れたのだ。」(p.176より引用)

2018-09-01

2018年9月,龍岩素心の開花

今年も美しく開花した龍岩素心。葉がやけてしまっているのが気になります。うつむき加減が愛らしい。