2025-05-19

2025年5月,仙台,仙台フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会

 連休明けにでかけた演奏会の記録を忘れないうちに。仙台フィルの定期演奏会に遠征。カバレフスキーの組曲「道化師」作品26,カプースチンのピアノ協奏曲第2番 作品14,ショスタコーヴィチの交響曲第15番 イ長調作品141というラインアップ。ソ連の音楽を堪能した夜でした。会場の日立システムズホール仙台コンサートホールは目の前が深い森でとても素敵。

 カプースチンのピアノは角野隼斗。というわけで仙台まで出かけたのでした。オーケストラの大編成で聴くカプースチンはご機嫌です。本人もノリノリで最高に楽しかった! カーテンコールの写真撮影はいつものようにOKでした。こんな近くで見たよ。もとい聴いたよ。

2025年5月,埼玉北浦和,「メキシコへのまなざし」

 連休明けに,「メキシコへのまなざし」展を見に埼玉県立近代美術館に出かけました。(会期は終了。)「戦後日本とメキシコの美術交流」という副タイトルで,「あの頃,みんなメキシコに憧れた」というコピー(?)がこの展覧会を象徴しています。

 出陳作家は福沢一郎,岡本太郎,利根山光人,芥川(間所)沙織,河原温の日本人作家と,埼玉近美のメキシココレクション。岡本太郎の写真が面白かったのと,利根山光人の数々の著作の展示を興味深く見る。「メキシコの美」はいつかどこかの古書市で求めたものが未読なので,近いうちに読んでみよう。フランシスコ・トレドの馬のモチーフにもとても惹かれました。

 ところでこの展覧会は3月からの長い会期で,序盤に木彫作家のイサイーアス・ヒメネスが来日して製作実演と映像上映があったのだとか! ヒメネスと言えば2023年の民博の「ラテンアメリカの民衆芸術」展で見たナワル像の人だ! 見たかったなあと思ったら,ショップに手頃な大きさの木彫が販売されていました(お値段は手頃ではなかった)。

2025-05-05

2025年5月,東京府中,「かっこいい油絵 司馬江漢と亜欧堂田善」

 気持ちのよい晴天の連休半ば,初めての府中市美術館へ「かっこいい油絵 司馬江漢と亜欧堂田善」展を見に行ってきました。府中駅に降りるのも初めて。コミュニティバスの乗り場は20人ほどの列になっていたのですが,バスが到着すると,老齢とまではいかない女性が一人,向こうからすーっとやってきて,最初に乗車してしまいました。列に気がつかなかったのだろうか,平然と着席してる女性をちらりと見やり,ああいう風には年を取りたくないなあと思いながら,もしかしたら私より年下かも。と何だか複雑な気持ち。

 気を取り直して,府中の森公園に隣接した美術館に到着すると早速2階の展示室へ。毎年開催される「春の江戸絵画まつり」という企画のシリーズです。江戸時代の「油絵」。そもそも絵具は荏胡麻などの油を使って,支持体は薄い絹本なので,「滑らかでさらりとして,明朗かつ落ち着きのある色」をしている,とチラシにあります。なるほど西洋風とも日本風とも言える不思議な雰囲気の絵画がずらりと並びます。

 そんな「洋風画」の代表的な2人の画家,司馬江漢と亜欧堂田善の画業の魅力を堪能。司馬江漢の風景画は水平線が魅力的です。そして一羽の鳥の向こうに地(水)平線が一本引かれると,それは「鳥図」ではなく「鳥のいる空間の図」になるのだという解説に思わず納得。「寒柳水禽図」,なんてかっこいい!

 亜欧堂田善は松平定信のもとで技術を極めたということで,おお,ここでも大河ドラマの背景がまた一つ奥へ深まった感じ。江戸絵画のマイブームは続きます。府中市美術館は建物もかっこいい。カフェもとてもよい感じでおいしくて,朝のバス停事件(?)もどこへやら,よい一日を過ごしました。

 ところで連休中はほかに五島美術館「春の優品展」と称名寺薪能「竹生島」「舟渡聟」を見たのですが,スマホが故障して写真がないのでここに忘備として記録しておきます。薪能は称名寺のライトアップが息を呑むほど美しい。シテは櫻間右陣さん。以前何度か右陣さんの舞台をご一緒してこの春亡くなった知人を想ってちょっとセンチな気分になる。

2025-04-25

2025年3月・4月,東京丸の内・東京成増,「歌舞伎を描く」・「エド・イン・ブラック」

 記録に残してなかった展覧会を2つ(どちらも会期終了してます)。静嘉堂@丸の内には初めて出かけました。岡本の静嘉堂に結構思い入れがあったので,丸の内に移転というのはちょっともやもやしていたもので。明治生命館のビルの中の展示スペースは素晴らしい雰囲気ですが,何だか動線が不思議。ロッカーに荷物を入れたあと,洗面所に行こうとしたら一度退場する必要あり。

 肝心の展覧会は「豊原国周生誕190年 歌舞伎を描く」展。今年も大河ドラマを楽しみに見てるので,解説は版元を確認しながら。蔦屋重三郎だけでなく,鱗形屋や西村屋とか思わずテンションが上がります。ちょうど観能したばかりの「景清」の團十郎絵も発見。「景清」は歌舞伎では歌舞伎十八番のうちの一つで,これは五世市川団十郎を三代歌川豊国が描いたもの(1860)。

  ああ,江戸は面白いなあというわけで,ちょうどお花見の頃にこれも初めての板橋区立美術館へ。評判の「エド・イン・ブラック」は会期終了間近で会場はたくさんの観客。江戸絵画の「黒」を堪能する内容がとても面白かった! 

 「夜」を描いたもの,黒を基調とする浮世絵版画,中国版画の影響を受けて絵や文字が白抜きの黒い背景の絵画などなど。どれも魅力的な作品ばかりでしたが,伊藤若冲の「玄圃瑤華」の黒と白が作る景色には釘付けに。金屏風を暗闇の展示室で見せる趣向も面白く,これは「陰翳礼賛」を体感させる狙いなのだそう。

 美術館の外には満開の桜が咲き誇り,まさに春爛漫。


2025年3月・4月 「景清」・「組踊と宗廟祭礼楽」

 体調がだいぶ恢復して,ちょくちょく出歩いています。ついつい記録は後回しになってしまってますが,忘れないようにちゃんと残しておこう。舞台関係は3月に国立能楽堂の定例公演で狂言「名取川」と能「景清」を拝見。久しぶりに萬斎さんの狂言を見たかったのです。やっぱり凄い迫力。息子の裕基くんが,「くん」なんて失礼と思えるほど立派な舞台を務めていて,感激しきり。こうやって受け継がれていくことの尊さに何だか涙が出そうでした。「景清」も親子の情に思わずホロリ。シテは本田光洋師,ワキは福王和幸師。

 4月は閉場している国立劇場の特別企画公演を文京シビックホールに見に行きました。演目は「組踊と宗廟祭礼楽」。「日韓宮中芸能の共演」という副タイトルの公演です。琉球舞踊と組踊をちゃんと見るのは初めて。「万歳敵討」は兄弟が親の仇を討つという,曽我兄弟ものに似たストーリーが興味深い。

 そして楽しみにしていた「宗廟祭礼楽」。詳しい事前講座も受講したので演奏曲の順序や内容は大体理解できましたが,何よりも2015年に宗廟を訪れたときに,いつか是非,大祭で舞踊や儀式を見てみたいと思ったのがこうして日本で見ることができたのが嬉しくてソワソワすることしきり。2016年のリウム美術館訪問時の映像も思い出します。演目は「保太平」11曲,「定大業」11曲など。詳しいプログラムも配布されてとにかく楽しかった! やっぱり,いつか是非現地で見てみたいと決心。4月から取り組んでいる(二度目なんですが)韓国語学習,頑張ります!

2025-04-16

これから読む本,「世界終末戦争」(マリオ・バルガス=リョサ)



 マリオ・バルガス=リョサの訃報を知る。書棚のリョサの未読の本たち。と思ったが「子犬たち/ボスたち」は既読だった。記録に残しておいてよかった。「世界終末戦争」(旦敬介訳 新潮社,2010)を読むことにしよう。とはいえ,カサーレスに苦戦中なので,手をつけるのは少し先になりそう。

 既読の中では「悪い娘の悪戯」がダントツで面白かった。ロンドン旅行では主人公が滞在したHotel Russelも見たのだった。2011年6月のリョサの来日時には,東京大学での講演を聴講することもできて,同時代の偉人という雰囲気の堂々たる体躯の作家の姿が今も目に焼き付いている。文学の力を強い言葉で語っていたのを思い出す。
 
 他にも「誰がパロミノ・モレーロを殺したか」も強い印象の1冊。2014年に既読。記録を振り返って,ちょうど読了のころにガルシア=マルケスが亡くなっていたことを思い出す。あまりにも遠く偉大な人たちだが,もう自分の存在するこの世界にはいないのだと思うとひどく辛く切ない。私はどんどん残されていく。

2025-04-10

2025年4月,東京用賀,「緑の惑星」・「1980年代のイギリス美術」

 桜満開の砧公園へ。世田谷美術館で「緑の惑星 セタビの森の植物たち」展と「1980年代のイギリス美術 展覧会の記憶とともに」展を見ました。どちらもいかにもセタビというコレクション展で,私的な意味でとにかく懐かしい。

 「緑の惑星」展は趣向を凝らした展示が楽しくて,おお,カミーユ・ボンボワ!とかアンドレ・ボーシャン!とかちょっと興奮しながら歩を進めます。そして久しぶりの荒木経惟「花曲」には言葉を失う。こんなにも美しく妖しくグロテスクな花の写真が目の前にある,という悦び。アラーキーの花の写真はもう十分見たと思ってたけれど,やはりこの大きさでオリジナルプリントを見ると震えます。

 窓の外には満開の桜。2階展示室ではこれまた懐かしい「1980年代のイギリス美術」展(4月6日で終了)。大学時代の恩師が,イギリス美術を見によく世田谷美術館に足を運んだ,と仰っていて,まさにその年代と時間がピタリと符合します。そんな記憶もあって,デイヴィッド・ナッシュとかベン・ニコルソンとか,作家名を見るだけでも鼻の奥がツンとする感じ。丁寧な作家解説と出品リストがうれしい。

2025-04-02

2025年4月,9年ぶりのシンビジウムの開花

 購入したとき,ラベルがなくて「蘭原種」という値札だけがついていたもの。2016年に開花株を入手して,花後に鉢を大きくしたり,数年後に株分けをしてみたりしたものの一向に花芽がつかず,ほとんど観葉植物状態だったのが,突然!開花したのです。嬉しいのはもちろんのこと,ちょっとびっくり状態。シンビジウムの一種だとは思います。

 2016年とはっきり覚えているのは,購入したのが大河ドラマ「真田丸」のトークショーで訪れた上田の駅前の生花店だったからなのです。入場の可否は現地に行ってからの抽選という,昨今のNHKイベントに比べるとアバウトな感じで大泉洋のトークを楽しんだのでした。それ以来,不思議な魅力に惹かれて何度か訪れた上田の記憶にまた一つ,不思議な出来事が書き加えられた,という感じ。 

読んだ本,「富士山」(平野啓一郎)

 久しぶりに平野啓一郎を読む。短編集「富士山」(新潮社 2024)を読了。ここのところ,ラテンアメリカ文学全集をせっせと(?)読んでいたので,あまりに現実的な小説世界がものすごく新鮮に思える。「マッチング・アプリ」や今風の「かき氷」が,小説家の言葉を通して眼前に立ち上がるのに戸惑いさえ覚えてしまうのは,なぜだろう。読書浦島状態? 青年が犬に変身したり,大統領が横暴なふるまいをする世界に脳というよりは身体が馴染んでしまっていたということだろうか。そんな自分の日々こそ小説になりそうだ。

 そんなことはともかく,「富士山」「息吹」「鏡と自画像」「手先が器用」「ストレス・リレー」の5編をどれも至極面白く読んだ。なかでも「息吹」は衝撃的でさえある。平野啓一郎の分人主義が進化すると登場人物はこういう風に描かれるのか,というのが最初に抱いた印象。自らの身体のうちに備えられた複数の人格が,複数の世界に分散している? SFは世読まないので,パラレルワールドの論理が破綻していないのか気になるけれど,小説のラストは私には不可解だった。思わず作家本人の解説を探して,解釈は読者に委ねる,みたいなコメントにそりゃそうだろう,と思いつつやや呆然としてしまった。

 「鏡と自画像」は重いテーマの中でドガの自画像をめぐる考察に惹きこまれた。「僕はまた,ドガの自画像を見た。画家はだれのために,自画像を描いているのだろう? それを見る人間は『誰でもいい』のだろうか?/他人と現実の世界で接する時,僕は彼らの自画像と向き合っているのだと考えた。僕も,鏡に映った自分の姿を,他人の前で再現しようとしている。僕は,鏡に映る僕は,僕が微笑むから微笑み,顔を顰めるから顰めるのだと,当たり前に信じていた。しかし,本当は逆なのだろうか? 鏡の中の僕が微笑むから,他人である僕も微笑むのだろうか? それは同時なのだろうか?...(略)」(p.138)

  「ストレス・リレー」はここまでの読書の心苦しさを痛快に吹き飛ばす面白さ。ちょっと救われた気もしないではない。

2025-03-12

2025年3月,東京目黒・上野毛,「中世の華 黄金テンペラ画」・「中国の陶芸展」

 だいぶ体調も回復してきて,行きたい展覧会がたくさんあります。まずは目黒区美術館で「中世の華 黄金テンペラ画 石原靖夫の復元模写」展を。絵を光り輝かせるために金箔と絵具を組み合わせ,装飾的な刻印を施したテンペラ画の技法を今に伝える石原靖夫氏のまさに神業のような仕事に感動。シモーネ・マルティーニ「受胎告知」の復元模写のあまりにまばゆい黄金の輝きの前に思わず釘付けになります。

 相変わらず,興味はあちこちへ飛びます。五島美術館では「中国の陶芸展」を。ちょうど去年の今頃も同じ主題の展覧会を見ました。今まで気づかなかったけれど,これは毎年の企画なのかな。昨年は鏡のコレクション展が同時開催でしたが,今年は刀剣コレクション。刀剣女子で賑わっているかと思いきや,陶芸展を見に来た客層で静かな空間です。妖しい輝きには思わず力が入ります。写真はこれしかないので後日桜の季節に差し替え予定。

 さて,稿を立てない読書の記録もここに残しておくことに。「老いぼれを燃やせ」(マーガレット・アトウッド 早川書房2024),「原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子」(山我浩 毎日ワンズ2024),「言語学バーリ・トゥードRound2」(川添愛 東京大学出版会)。アトウッドは楽しみにしていただけに,失望感が大きく残念でした。「言語学」はUPの連載をまとめたものの第2弾。こちらは抱腹絶倒の面白さ。 

読んだ本,「大統領閣下」(アストリアス)

   「大統領閣下」(アストリアス 内田吉彦訳 ラテンアメリカの文学2 集英社1984)。読書中に図書館から数冊の予約本の準備ができたという知らせが入り,何度か中断をはさみながら,随分と時間がかかったけれども読了。アストリアスは文庫本で「グアテマラ伝説集」を読んだことがあるだけで,ほぼ初読の作家である。

 「ラテンアメリカ十大小説」(木村榮一)によると,この「大統領閣下」は独裁者小説の傑作のひとつなのだという。ちなみに他の傑作は「方法再説」(アレホ・カルペンティエル),「族長の秋」(ガブリエル・ガルシア=マルケス),「至高の存在たる余」(アウグスト・ロア・バストス)などのタイトルが挙がっている。なるほど,「独裁者小説」というジャンルはラテンアメリカ文学ならでは。

 アストリアス自身が独裁者エストラーダ・カブレラとその後の軍事独裁制と対立してきたということで,この小説は自身と父親の経験をもとに書き上げられたものだという。主人公のミゲル・カラ・デ・アンヘルは大統領と妻カミーラの板挟みとなって文字通り自己を引き裂かれて破滅に至る。ほとんど表に現れずに君臨する大統領の姿は否応にも強烈な存在感を放つ。

 「十大小説」によると,特異な文体と語り口もこの小説の特徴だという。その詩的・魔術的な独自の文体は原文で読んでこそというが,読みやすい訳文からもその魅力は十分伝わってくる。残酷な場面ではあるが,死刑囚が銃殺されるこんな場面。「…続けざまに銃が火を吹きました。一,ニ,三,四,五,六,七,八,九発。なぜか私は指でかぞえていたのですが,それ以来,自分の指は一本多いのだという奇妙な感じに囚われています。」(p.208)


 

2025-02-18

2025年2月,群馬高崎(2),「英国王室に咲くボタニカルアートとウェッジウッド」展

 コンサートの翌日。朝から猛烈な強風で,ホテルを一歩出ると,歩くのはもとより立っているのもやっとです。かみつけの里博物館に「子持勾玉」を見に行こうと思っていたのだけれど,バスを待つのもバス停から10分歩くというのもこりゃあ無理だとあっさり断念しました。タクシーを使うという発想が浮かばなかったのはなんとも貧乏性ゆえ。。

 そこでというわけではなく,もう1つ楽しみにしていた高崎市美術館「英国王室に咲くボタニカルアートとウェッジウッド」展をゆっくりじっくり味わうことに。古書市や神保町の鳥海書房などで買い求めた植物画は大事な宝物なんだ。惹かれるのはイギリスのCurtis Botanical Magazineのものが多いのですが,今展は第2章がまるまる「カーティス・ボタニカル・マガジン」からの展示。英国のボタニカルアートのおいたちをたどる展示を1点1点,じっくり楽しんできました。

 展示はジェームズ・サワビーとシデナム・ティースト・エドワーズが描いた植物画が多い(というかほとんど)。図譜を見るとき,作者はあまり意識しないかもしれないけれど,やはり個性があります。私の所有するエリジウムはシデナム・エドワーズのサイン。第5章にエドワーズが同じエリジウムを描いたものが展示されていて(『ニュー・ボタニック・ガーデン』所収),なんだか嬉しくなってご機嫌で帰路についたのでした。 

2025年2月,群馬高崎(1),角野隼斗 HUMAN UNIVERSE

 角野隼斗Japan Tour 2025 HUMAN UNIVERSEを聴きに高崎へ。東京公演が取れなかったので遠征したのですが,往路の電車で同世代らしき女性ファンのグループと乗り合わせ,聞こえてくる賑やかなおしゃべりによると,複数回の地方公演遠征は当然のことみたい。海外公演も行きましょう!みたいに盛り上がってて,ワタクシはそこまでは…と内心呟いたものの,体調が良くないのに楽しみに出かけるのだから,十分にミーハーなファンですね。

 ソロ公演は2022年の仙台ぶり。前回はショパンやガーシュインに感動したけど,今回のプログラムは宇宙がテーマで壮大かつ哲学的なもの。バッハに始まり,メシアンやドビュッシー,坂本龍一,自作のノクターンなどなどに続いて最後の3曲はスクリャービン,ラヴェル,ストラビンスキー。いやあ面白かった。凄まじい速度で進化していく同時代の才能を目撃できるのは生きている悦びだなあ,と。

 プログラムにはストラビンスキー「火の鳥」に触れて,「不死や再生の象徴として語られ、循環を連想させる作品」と綴る一節に続いて,「私たちが『始まり』や『終わり』として捉えるものも,より大きな視点で眺めれば,果てしない循環の一部にすぎないかもしれません」(プログラムの一部より引用)とあって,はっとする。読んだばかりのフエンテス「聖域」で描かれた「始まりと終わりのある時間を否定すること」の意味を考えながら満月の夜道を宿へと歩いたのでした。

2025-01-30

読んだ本,「聖域」(カルロス・フエンテス)

 

 国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書8「聖域」(カルロス・フエンテス 木村栄一訳 1978)読了。犬に変身する青年ギリェルモの物語だ。その変身は,母である大女優クラウディアへの異様な愛と憎悪の果てに起こる。この物語を青年の狂気の物語と読むのはあまりにも単純だ,と訳者あとがきにある(p.203)。

 ではどう読むか。母親の愛人ジャンカルロの運転で暴走する車の中でギリェルモは「ぼくだって生きのびたいんだ! 車を止めろ! 降ろしてくれ!」と叫ぶ。ジャンカルロの答えは「…生きのびるにはこうするよりほかにないんだ。たえず,べつの存在に変身してゆくことだ。グリェルモ,時間につかまれば,きみは殺されるんだぞ。時間には始まりがあり,発展があり,終わりがある。」(pp.155-156)

   犬に変身したことは「初めと終わりのある時間」を否定して,「新しい浄化された生存へ再生した」ことを意味するのだ…と,これは訳者あとがきの受け売りだと白状しよう。この小説の枠組みであるユリシーズの物語や,ユダヤ教が生み出しキリスト教が受け継ぎ,今もヨーロッパやイスパノアメリカで脈々と生きる「初めと終わりのある時間」の概念を理解していないと,「あまりにも単純な」読みしかできないのだ。

 しかし,単純にも「狂気の物語」として読んだ(としてしか読めない)私には,こんなフレーズがささったりする。「草原は何も知らずに,樹液をもとの土ぼこりに返そうとして注ぎこんでいる。土ぼこりはその樹液を受けてはじめて,同じように生殖を続け,太陽の表面に砂を返すことができるのだ。この砂の返却は,永遠を啓示しているのだろう。亡くなった祖父から,生きている父と生まれたばかりのぼくに相続された蔵書の場合も事情は同じだ。本を開くのは迷路の中に踏みこむことであり,出口を見つけたければ,本を投げ出すこと―つまり,それを閉じ,忘れるーことだ。」(pp.76-77)

 蛇足ながら,この国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書は装幀がとてもカッコよくて,古書市や古書店で見つけると購入している。見返しのドローイングは中西夏之によるもの。たまりませんな。

2025-01-28

2025年1月,東京町田,「イコンにであう」展

 1月に出かけた展覧会をもう1つ忘備として。町田の玉川大学教育博物館に「イコンにであう -キリスト教絵画のみかた-」を会期の最終日に見に行く。10月からの長い会期で,ずっと行きたいと思いつつ,広大なキャンパスのアップダウンを考えて二の足を踏んでいた。これは行かないと後悔すると思い立って最終日に駆け込んだというわけ。

 ロシアとギリシアのイコンを中心に,同大学のコレクションの優品55点がずらりと並ぶ展覧会は静かに深く心に沁みる。展示は5つのセクションで構成され,第1章はイエス・キリストの生涯,第2章が聖母マリヤの姿。どの一つも,人々の信仰生活と密接に結びついた強さが伝わってくる。「薔薇の聖母」(ロシア 17世紀)の圧倒的な様式美。「真善美」という言葉を具現化したものがここにあるのだ,と実感する。

 ところで,この展覧会も私の遠い記憶を呼び覚ます。2010年5月にロンドンとパリを訪れた際,ルーブル美術館に特別展のSainte Russie(聖ロシア展)を見に行った。イコンもたくさん見たし,精緻な工芸もたくさん出陳されていた。フランス語の図録を購入したのが悔やまれる。英語版を買えばよかったな。2冊の図録を手にとってゆっくり眺めていると,やっぱり出かけてよかったと思うことしきり。

2025-01-24

2025年1月,東京六本木,「ルイーズ・ブルジョワ」展

 会期終了間際に訪れた展覧会を忘れないように記録しておこう。森美術館で「ルイーズ・ブルジョワ」展を見る。六本木ヒルズのあの巨大な蜘蛛。国内27年ぶりの大規模個展という。27年前,どこで開催されたのかと調べてみたら,横浜美術館! 記憶が曖昧すぎるのだけれど,横浜美術館には興味のある展覧会の度に足を運んだはず。

 帰宅後に過去の展覧会チラシを探してみたら(コレクションしてます!),あった。確かに27年前,私は横浜美術館でルイーズ・ブルジョワの個展を見ていた。まだ森美術館の開館前だから,「あの巨大な蜘蛛の」という先入観なしに見たことになる。そう言えば,という気もしないではないけれど,ほぼ記憶にない。「ヒステリーのアーチ」(上右写真)も出陳されていたようだ。

 今回のチラシと1997年の横浜美術館のチラシ。ルイーズ・ブルジョワを見て何を感じたかよりも,27年前に見ていた,そしてそれがほぼ記憶にない,という事実の方が私には強烈すぎる出来事だ。こんなふうに人生の中の27年間を切り取るきっかけがやってこようとは夢にも思わなかった。ちなみに今回の展覧会にはこんなタイトルがついている。「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど,素晴らしかったわ」I have been to hell and back.  And let me tell you, it was wonderful.

  私はこの27年間,どこに行っていたのだろう,地獄に行っていたとはまったく思わないけれど,wonderfulな日々だったと胸を張って言えるだろうか?

2025-01-08

読んだ本,「この世の王国」(アレホ・カルペンティエル)

 「この世の王国」(アレホ・カルペンティエル 神代修訳,創土社,1974)読了。いつどこの古書市か古書店で求めたものか,すっかり記憶がない。函の写真が気になって仕方がない。木彫ではなく,金属でできた武士(?)の像のようだ。どこかに記載がないか,何度も頁をめくるも見当たらない。こうなると正体を知りたくてたまらなくなる性分。

 小説は1791ー1804年のハイチ革命を主軸に,18世紀半ば頃から約1世紀のハイチの歴史が,架空の指導者ティ・ノエルを主人公にして描かれる。「序」でカルペンティエルは,ハイチを旅行して「現実の驚異的なもの」に触れてこの小説を執筆したとある。シュルレアリストの作り出す幻想的な世界がそこでは「現実的なもの」だったという。

 人間の世界から動物の世界へ逃げ出そうと決意し,魔術によって鳥やろば,スズメバチ,蟻,がちょうに変身する主人公。彼は「よりよい世界」を探求しているのだという指摘(エミール・ボレーク「カルペンティエルと『この世の王国』」,巻末に所収)を含め,読者はこの「驚異的な現実」を受け止め,読み解いていかなければならない。思わずたじろぐが,それは読書の悦びにほかならない。

 この小説を語るときに多く引用されている箇所。「天国に獲得すべき偉大なものがないのは,そこではすべてのものが規制の秩序に則っており,未知のものは消失し,生活は永遠のものであり,犠牲を課されることがなく,休息と喜びだけがあるからである。これにたいし,この世の王国では,人間は苦痛と苦役に打ちのめされ,貧困の中にありながらも心を美しく保ち,災難の真っ只中においても人を愛することができるのだ。この王国においてこそ,人間としての偉大さ,人間としての最大の可能性を発見することができるのである。」( p.159)

 

 

2025-01-05

2025年1月,横浜日本大通り,「思い出のチマ・チョゴリ」

 新しい年を迎え,穏やかな日常が続きますように祈念いたします。私事では,とにかく健康こそが何より大切という思いを新たにする日々。今年は体調を整えて国内外を旅したい。焦らずゆっくりと身体に向き合おうと思います。今年は新年に美しい色彩の大輪の菊を飾りました。
 さて,新年最初の展覧会は横浜ユーラシア文化館にでかけて「思い出のチマ・チョゴリ」展を。いきなり会期最終日の展覧会にでかけてしまい,意外と混んでる会場にちょっとびっくり。

 韓服のチマ・チョゴリ。チマはスカート,チョゴリは上着を指します。展覧会は4つのセクションから構成されていて,第1章は「悠久なるチマ・チョゴリ」,第2章「人生とチマ・チョゴリ」,第3章「私のチマ・チョゴリ」は3階フロアで,第4章「男性の装い」は2階の常設展示室での展示です。

 展示室の最初の高句麗水山里古墳壁画のパネルを見て,あれ,高松塚古墳の女子群像の衣裳とそっくり。そうか,古墳時代の女性の衣裳は半島由来なわけで,チマ・チョゴリという視点で見たことがなかったので今更ながら瞠目。

 第3章「私のチマ・チョゴリ」がこの展覧会の特徴なのでしょう,横浜ゆかりのコリアンやコリアンと結婚した日本人の,成人式や結婚式などに使用したチマ・チョゴリが展示され,個人的なストーリーが添付されています。読み進めていると,展示すべてが1つの物語を構成しているかのように思えてきます。脈絡なく,ソフィ・カルの私的で親密な体験をテーマとした作品を見たときのことを思い出してしまった(例え方が変かな。)

 久しぶりに中華街にも立ち寄って,新年の買い物は香り豊かな鉄観音や台湾のお菓子などなど。体調が恢復したらまずは韓国へ,それとも台湾へと考えながら帰路につきました。