2025-12-30

2025年12月,東京六本木ほか,展覧会の記録

 12月の忘備録として。フジフィルムスクエアにエドワード・マイブリッジの写真を見に行く。「連続写真に取り憑かれた男」という副タイトルがついている。取り憑かれたっていうのは穏やかじゃないな,と思いつつも,その生涯と撮影手法の詳しい解説を読むとなるほど,である。

 マイブリッジの連続写真は写真史の展覧会とかで数点ずつ見たことはあるけれど,まとまった形で見るのは初めてでちょっと感激。プリントは19世紀末のオリジナルではなくて,富士フィルムが所蔵するフォトグラヴィアの展示。関連書籍は原本の展示。 

 四谷の韓国文化院に「浅川兄弟の遺した道」という展示を見に行く。兄弟の旧蔵の朝鮮陶磁器などの展示がメインかと思っていたら,それらは展示の一部で,むしろ彼らの生涯そのものを丁寧に紹介する企画展。夥しい数の付箋がそれ自体美しい「朝鮮半島窯跡分布図」はまさに彼らが辿った軌跡を示すもの。記念講演会も聴講した。北杜市に浅川兄弟の資料館があるらしい。暖かくなったら行ってみたい。それまでに復習しておかなくちゃ。 
 12月はほかに,山種美術館で「LOVE いとおしい…っ!」展を見る。タイトルで損してるのではないかと思うけど,中身は濃い展示で見ごたえたっぷり。LOVEが題材の日本画といえば,浄瑠璃や能・歌舞伎を題材にしたものが多くて,画面から物語が立ち上がってくるものばかり。小林古径の「清姫」の連作は全8点が展示されていて,お能や歌舞伎のそれぞれの場面を思い出して興奮!

2025-12-27

2025年12月,東京六本木ほか,コンサート・観能の記録

 12月はあれこれと楽しい外出が続いて,記録が追い付かないまま。このまま年を越すのは気がかりなので,簡単に忘備録として。クリスマスも間近い休日に,サントリーホールで三浦一馬キンテートのピアソラ・ザ・ベストを聴きに行きました。ファン感謝祭と銘打って,メンバーの短いおしゃべりもあり,後半にはサンタ登場の趣向もあり,とにかく最高!の夜。最高のプログラムの中でもお約束の「リベルタンゴ」,それから「鮫」がよかった。

 がらりとかわって今月は2回,お能の公演にでかけました。初めての川崎能楽堂で定期能第一部の「井筒」と狂言「福の神」を拝見。実は久しぶりに福王和幸師の舞台が見たいなあと思って見つけた公演。大好きな井筒だし。業平の衣裳をまとった井筒の女の霊が業平の面影をなつかしんで舞う姿に泣きそうになる。川崎能楽堂は思ったよりこじんまりしてて(屋根も白洲もないんだ),舞台が目の前でちょっとびっくり。
 そして思いがけずチケットが手に入った12月国立能楽堂特別公演では「綾鼓」と,野村万作・萬斎・裕基そろい踏みの狂言「野老(ところ)」を拝見。「綾鼓」はたしか初見のはず。三島由紀夫「近代能楽集」のインパクトが大きいだけに,字幕で詞章を追いながらドキドキしつつ舞台を見つめます。中入りの直前,庭掃きの老人が入水すると,見ているこちらが胸が張り裂けそうに。来年は観能の機会をもっと増やしたいなあと思いながら,冷たい雨の中,帰路に着きました。

2025-12-25

読んだ本,「研修生」(多和田葉子)

 多和田葉子の新刊「研修生」(中央公論社 2025)読了。大部なので時間がかかるかと思いきや,読み始めたら一気だった。とにかく面白いの一言。大学を卒業した「わたし」がドイツにある書籍取次会社で研修生として働く夏から冬への日々。職場の同僚や,旅で知り合った人たちと濃密に「ドイツ語」で関係を築きながら生活を送る。筆者の自伝的要素もあるとのことだけど,どこまで実際にあった出来事でどこからフィクションなのか,最初は読み手が主導権を握っているようでいて,終盤にかけては作者の掌の上で転がされたような読後感だ。

 日々の何気ないエピソードに,突然長い時間を経た視点が差し込まれることがあって,「わたし」はいつどこにいるのだろう,そして多和田葉子という小説家はどこから「わたし」のドイツの日々を見ているのだろう,と不思議な感覚に陥るのだが,小説のラストに辿り着いたときにその疑問は氷解する。

 いかにも多和田葉子というドイツ語や日本語の言葉遊び的な,しかし深遠な言語哲学のあれこれも面白く,こうやって彼女の小説は紡がれ始めたのだろう,と得心がいく。奈良で出会って再会したハンブルグ在住のマグダレーナとの共依存的同性愛関係が通奏低音のように胸に迫ってくる。二人はこの後,どんな人生を辿るのだろう。

 ちょうどクリスマスに読み終えたので,「わたし」がドイツで初めて迎えるクリスマスが近づく頃の一節。「クリスマスは毎日近づいてくるようで,遠ざかっていくようでもあった。クリスマスを遠ざけているのはわたしの心であったかもしれない。待ちわびている人がもしかしたら来ないかもしれないという不安から,どうせすぐには来ないだろうとわざと手の届かない未来に押しやってしまう心理と似ている。/十二月には会社の「クリスマス食事会」というものがあることを知った。(略)確か日本にも「忘年会」という飲み会があったが,それと同じようなものなのかもしれない。「忘年会」という言葉をあらためて思うと,年の苦労を「忘」れるために飲む,というのは消極的だという気がした。どうしてその年の楽しかったことを思い出して飲む「楽年会」ではないのか。わたしは今年起こったことで忘れたいことってあるだろうか。嫌なことも含めて全部保存しておきたい気がする。」(pp.452-453)
 

2025-12-18

2025年12月,神奈川川崎ほか,英伸三展ほか

  展覧会の記録をいくつか。川崎市市民ミュージアムの企画展が向ヶ丘遊園駅前の商業ビルで開催されている(21日まで)。スーパーやファミレスの入るちょっと年季の入ったビルなのだけれど,写真展の会場はまるで異世界のよう。平日の昼間,来場者も少なく,静かにモノクロの世界に向き合うのは久しぶりに美しい時間だった。ただ会場がコンパクトなので,展示はぎっしり感。

 「英伸三 映像日月抄 そのときのあのこと あのときのそのひと」というタイトルの写真展は,その通りにノスタルジックな内容。しかし,美しいプリントには瑞々しい強さが漲り,会場全体に緊張感をもたらす。

 展覧会のイメージになっている波打ち際ではしゃぐ少女たちの遠景は,「集団就職の若者」の1枚で,彼女たちはふるさとの海に別れを告げているのだった。写真家の眼が捉えたこの海の光は,若者たちの前途を願っているだけではないだろう。その未来に横たわるそれぞれの不安や故郷との別れの哀しみが,寄せては返す波となって,今ここに生きる私の眼に届いて胸が熱くなる。

 英伸三はまったく未知の写真家だった。「町工場」シリーズの工業製品のイメージも,中国を撮影したイメージもとてもよかった。知らない写真家がまだまだいっぱいいるなあ,もっともっと見てみたいと思った冬の午後。

 ほとんど葉を落とし,わずかに紅葉が残る。五島美術館では「古染付と祥瑞 愛しの青」展を見る。古染付の方が余白が多くて好みだけど,祥瑞は「しょんずい」という響きが好き。タイトル通り,これでもかという美しい青の器の数々を堪能。 
 渋谷ヒカリエホールでは「ハンス・ウェグナー展 至高のクラフツマンシップ」展を見る。このホールは展覧会専用ではないと思うけど,ドラマチックに演出されていて楽しい。ただ,フライヤーが小さくてぺろっとしてて,文字も読みにくい。そのせいで展覧会というよりは家具の展示会みたいな印象を受けてしまう。ささいなことなんだけどね。右の写真はウェグナー邸のミニチュアの内部の一部。本のタイトルまで芸が細かい!

2025-12-11

読んだ本,「他人の顔」(安部公房)

 「他人の顔」(安部公房 新潮文庫 1964・2013改版)読了。安部公房は代表作と呼ばれるものは大体読んだつもりでいたが,この長編は未読だった。きっかけはNHKのクラシック番組。この小説の映画音楽を武満徹が手掛けていたのを知ったことだった。映画の脚本も安部公房自身が手掛けたということ。不穏なワルツに心惹かれる。

 事故で自分の顔を喪失した男が,「他人の顔」を仮面に仕立て,失われた愛を取り戻す目的で妻を誘惑する。その長く暗い過程の中で男が行う,人間存在についての考察は,とりも直さず読者に,「顔」とともに生きる人間の存在とは,そして行為とは何かを考えさせる導きとなる。

 思考の羽搏きは幅広く,肖像画とは,フランケンシュタインとは,能面の美とは,ととりともなく広がっていくようでありながら,小説全体の中で無意味な細部など何一つない。深く印象に残った細部をいくつか。

 「肖像画が普遍的な表現として成り立つためには,まずその前提として,人間の表情に普遍性が認められなければならないだろう。(略)その信念を支えるものは,むろん,顔とその心が一定の相関性をもっているという,経験的な認識にほかなるまい。もっとも,経験がつねに真実であるという保証は,どこにもない。さりとて,経験がつねに嘘のかたまりだという断定も,同様に不可能なのだ。」(pp.64-65)

  (フランケンシュタインの小説について)「ふつう,怪物が皿を割れば,それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが,この作者は逆に,その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては,ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに,犠牲者の脆さが,やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。(略)もともと怪物の行為に,発明などありっこなかったのだ。彼こそまさに,犠牲者たちの発明品にほかならなかったのだから…」(p.89)
 
 (デパートの能面展の会場で,能面のおこりは頭蓋骨だったのでは,と思い至り)「初期の能面作者たちが,表情の限界を超えようとして,ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは,一体どういう理由だったのか? おそらく,単なる表情の抑制などではあるまい。(略)普通の仮面が正の方向へ脱出をはかったのに対して,こちらは負の方向を目指しているというくらいのことだろう。容れようと思えば,どんな表情でも容れられるが,まだなんにも容れていない,空っぽの容器…」(pp.100-101)

  映画も未見だが,結末が小説とは異なるということなので,見てみたい。映画音楽について武満徹が何か言及しているかと思い,随筆集を繰ってみた。「他人の顔」に直接言及したものは見つけられなかったが,「時間の園丁」(1996)に「映画音楽 音を削る大切さ」,「エピソード―安部公房の『否(ノン)』」の二編,「遠い呼び声の彼方に」(1992)に「仲代達矢素描」の一編を見つけて,読む。

2025-11-28

読んだ本,「ジョンソン博士とスレイル夫人の旅日記 ウェールズ(1774年)とフランス(1775年)」(S.ジョンソン研究チーム訳)

 「ジョンソン博士とスレイル夫人の旅日記 ウェールズ(1774年)とフランス(1775年)」(S.ジョンソン研究チーム訳 中央大学出版部 2016)読了。アンティークフェルメールの店主塩井さんから頂いたお勧め本である。18世紀英国の文人サミュエル・ジョンソンはともかく,スレイル夫人とは何者で博士とどういう関係なのか,まずは第3部の「解説にかえて(1.ジョンソンの旅,2.ヘスター・リンチ・ピオッツィ(スレイル夫人)小伝)」を読んでから本編の旅日記を読む。

 旅の紀行文は大好き。ぱっと思いつくだけで田村隆一「詩人の旅」,串田孫一「北海道の旅」など詩人の旅,河口慧海「チベット旅行記」みたいな歴史・宗教をたどる旅,ご存知(?)沢木耕太郎「旅のつばくろ」,ぐっとカジュアルに益田ミリの旅日記も楽しくて乗り物の中でよく読む。

 ところがこの1冊は,旅する二人があまりに時空を超えた存在なので,頁を繰りながらまるで語り手が二人登場する映画を見ているようだ。先日,「グランドツァー」を観たばかりだからかもしれない。解説に倣えば,ウェールズ旅行は「産業革命萌芽期」の英国を,フランス旅行では「フランス革命14年前」のフランスの様子が描かれるという,興味深いもの。

 なるほど,そういう読み方のコツをつかむと俄然面白くなる。興味をひかれたエピソードは数多いが,博士がフランス国王の文庫を訪ねた記述(1775.10.24)は,木活字と木版彫りと金属活字の違いを指摘していて面白い。西洋美術館常設展示の西洋写本コレクションを見に行きたくなる。

 もう一つ,夫人がフランス王立博物館を訪ねた記述(1775.10.12)には「最近ビュフォン氏〔フランスの博物学者〕自身が配列した」という珍しい博物標本が詳細に綴られていて,思わず興奮。2023年に町田国際版画美術館で見た「自然という書物」展に出陳されていたビュフォン著「博物誌」を思い出す。そして,神保町で手にいれたビュフォン(風)(オリジナルではないはず)の一葉を手にして,この時空を超えた旅に思いを馳せる。私の宝物の一つ!

2025-11-24

2025年11月,茨城ひたちなか,虎塚古墳の一般公開

 快晴の11月某日,春と秋の年2回のみ一般公開されるのに合わせて,茨城の虎塚古墳に出かけました。関東にも彩色装飾古墳があるんだ!ということを知ったのは確か2年くらい前に明治大学博物館の考古部門の展示を見たときだったか,そのくらいの知識です。九州にしかないのかと思ってた。便利なバスツァーを利用して,古墳内部の見学(4~5人ずつ,5分程度)のあと,隣接のひたちなか市埋蔵文化財調査センターと,十五郎穴横穴群も見学。

 古墳内部の撮影はできません。これは調査センターに展示されている復元です。本物は保存のためにガラス越しの見学ですが,さすがに7世紀初めごろに描かれた文様が鮮やかに残る様子には感動。現地の解説員の方によると,西壁の円文は銅鏡を表しているとのこと,埋蔵品の代わりに壁画を描いた? 諸説あるみたいけど,なるほどなあと得心したのでした。

 十五郎穴横穴群は東日本最大規模の横穴墓群ということで,見学路を進むと穴だらけ。面白かったのはその名前の由来で,江戸時代ころ,人気のあった曽我物語の曽我兄弟にあやかる伝説が生じたのだろうということ。江戸時代の人たちが,古墳時代に歴史ロマンを感じたのかと思うと,バスに揺られてはるばる訪れた身としては激しく共感! 

 さて,この日の旅程は,酒列磯前神社と大洗磯前神社の見学と,大串貝塚の見学まであって,ちょっと過密日程。結構疲れました。

2025年11月,神奈川日本大通り,ネザーランド・ダンス・シアター(NDT2)来日公演2025

 ネザーランド・ダンス・シアターの来日公演を見る。2024年にNDT 1が来日したのに続いて,若いダンサーが集うNDT 2の舞台を堪能。とにかくその驚くべき身体能力と表現力を持った若き身体のエネルギーに圧倒されて,ただただ興奮するばかりの約2時間だった。

 作品は3つ,マルコス・モラウ振付のFolka,アレクサンダー・エクマン振付のFIT,ボティス・セヴァ振付のWatch Ur Mouth。どれも素晴らしいの一言だけど,個人的には現代社会を映し出すコンセプト性が濃厚な後の2作品に対して,祝祭・儀式の色が濃いモラウ作品が刺激的だったな。「意味」を超えた「動き」の強さが直接,観客の五感を揺さぶるというか。

 とにかくも終演後はただただぼーっとして帰路に着き,翌日書棚から引っ張り出したのはこの1冊「バレエの現代」(三浦雅士 文藝春秋1995)。刊行が1995年だから30年前の著作なんだけど,私にとっての舞踊のバイブルなんだな。ちなみに,前橋文学館で来年1月まで三浦雅士の仕事を振り返る企画展が開催されている。ちょっと遠いけど,行きたい。

 「どんな舞踊も生と死の両極を秘めている。(略)舞踊は生と死にかかわらないと成立しないのである。身体を表現の手段にするということはそういうことなのだ。人間は,身体という場において,生まれ,成熟し,老いて,死ぬ。舞踊が,時には恐怖を感じさせるまでに美しいことの,それが理由である。舞踊ほど宇宙を,コスモスを感じさせる芸術はない。」(p.11プロローグより)

2025-11-15

2025年11月,東京東麻布ほか,潮田登久子写真展ほか

 あちこち出かけて記録が追い付かない。東麻布PGIで潮田登久子の写真展を見る。タイトルは「玉里文庫」。「鹿児島大学附属図書館貴重書庫の景色」という副タイトルが示すように,玉里島津家文書を収蔵する鹿児島大学図書館の蔵書を撮影した作品群である。玉里島津家は島津本家の分家にあたる。本家の島津家文書はかつて勤務した職場が関わっているので,私的に思い入れが強い。

 潮田登久子の本の景色シリーズは横浜市民ギャラリーでまとめて見たことがあるので,あくまで「本の(ある)景色」の写真は想定内だけれど,島津家文書のような貴重書となると話は違うというか,「学林玉篇大全」の写真のような古書の扱いには戸惑いしか覚えない。写真家が美しいと思う景色と,貴重書庫の機能の保全とは別の次元のような気がする。もやもやした気分でギャラリーを後にした。


 別日,早稲田大学キャンパスへ出かける。毎秋,ベルリンから帰国する多和田葉子と高瀬アキ(ピアノ)のパフォーマンス「君死にたまふことなかれ」を聞きに行く。毎年,行きたいと思いながら機会を逃していたのでうれしい。

 多和田葉子のテキスト朗読に合わせて高瀬アキのピアノ演奏,赤い日ル女の声のパフォーマンス。1時間ほどの上演時間で与謝野晶子が語られる。面白かったけれども,多和田葉子と与謝野晶子はあまり親和性がないような。「群像」で連載が始まった「不在事件」はこの先が気になるいつもの多和田ワールド。

 開演時間の前に早稲田キャンパスで充実の時間を過ごす。會津八一記念博物館では「リトグラフで辿るアトリエMMGの33年」・「特集展示 奥村秀雄氏書写『東大寺献物帳』」・「富岡重憲コレクション 書と文具」という3つの展覧会が同時開催。こんなに充実した展示が無料でいいんですか?と感動しながら,国際文学館へ。「黒人女性の文学とジャズ展」はまだ準備中だった(13日から開催)。ここは言わずと知れた(?)村上春樹ライブラリーなわけで,とにかくおしゃれ。ハルキ文学のシンパではないので,あくまでそのおしゃれな雰囲気を楽しむ。
 広尾の山種美術館では「日本画聖地巡礼2025」という面白い展覧会を見る。平日午前中なのに,人がいっぱい(自分もその一人なわけ)。みんな日本画が好きなのね,と思いながら楽しく鑑賞。聖地巡礼というわけで現場写真や当時の作家の言葉が添えられていて興味深い。日本だけでなく,中国,イギリス,シルクロードなども。吉岡堅二の「龍門幻想」に感動。そして何より山口晃の「東京図1・0・4輪之段」が最高! 大河ドラマ「いだてん」のオープニングに使われていたとのことで,思わずじっくり覗き込む。ほんと,天才だな。

2025-11-04

2025年11月,神奈川海老名・東京渋谷,ガルシア・ガルシア,グランドツァー

 11月連休は楽しみにしていたコンサートと映画を楽しむ。まずは海老名市文化会館でマルティン・ガルシア・ガルシアのピアノリサイタル。2021年のショパンコンクールで三位入賞,NHKの番組にも出演して大人気のピアニストだけあって,チケットは早々に完売だったとか。何度も来日してるけど,機会を逃していたので今回は期待度満点。

 海老名駅で降りるのは初めて。海老名市文化会館はなかなか年季が入ったホールで,広々とした前庭に中垣克久作のブロンズ像。タイトルは「武満徹『雨の樹 素描Ⅱ』に寄す」(2011)。素描Ⅱは確かメシアンの追憶に捧げられていたよな,とこの夏のメシアンの興奮の記憶が蘇る。

 ガルシア・ガルシアは前半のショパンが素晴らしく,アンコールも5曲も演奏して大喝采。グールドばりのハミングや,パワフルな演奏は陽気なキャラクター全開といった感じ。あくまで私の好みで言えば,後半のリストよりショパンだったな。 

 連休最終日は人込み覚悟で渋谷へ。ル・シネマでミゲル・ゴメスの「グランドツァー」を観る。アジアの迷宮を逃げる男と追う女の摩訶不思議な境地〈グランドツァー〉は,「西洋人には東洋を理解することは到底できないのだ」と主人公エドワードに嘯く老人の台詞が全てを統括(?)している。東洋人が字幕を追いながらこの映画を見るのは何だか本末転倒のような気がしてきた。ベトナム人女性ゴック役はトラン・アン・ユン監督の娘のラン=ケー・トラン。その美しさと言ったら!

2025-10-27

2025年10月,展覧会・観劇・読書など

 10月の忘備録。歌舞伎座では通し狂言義経千本桜のBプロ第三部を3階席1列目で見ました。やっぱり気持ちのいい席だな。お目あては右近の狐忠信。「川連法眼館」は今までに見た中で一番の興奮です。狐も素晴らしかったし,本物の忠信も,隼人と巳之助の駿河・亀井に囲まれたスリーショットが決まった時は,見てるこちらが爽快感に包まれました。

 展覧会は五島美術館で19日まで開催されていた秋の優品展「武士の雅遊」展を。「サムライ」をキーワードにとにかく「名品」がこれでもかと並びます。「紫式部日記」の特別展示もあるし,特集展示は蔦谷重三郎だし。頭の中は「真田丸」,「鎌倉殿」,「光る君へ」,「べらぼう」と大河ドラマの名場面がフラッシュバック! 楽しい時間でした。

 展覧会はもう一つ,國學院大學博物館で「中世日本の神々」展を。謎と魅力に満ちた中世日本の神々の様子が生き生きと展示されていて,まだ会期は長いので再訪の予定。「春日社鹿曼荼羅」は理屈を超えて大好きな図像。

 10月は武蔵野大学能楽資料センター主催の公開講座にも参加。「生誕100年記念 三島由紀夫と能楽・歌舞伎」の「『熊野』を巡って 三島と六世歌右衛門」を聴講しました。『熊野』は三島歌舞伎と近代能楽集の両方で扱う唯一の演目なので,興味深く拝聴しました。講師は織田紘二氏。学びが多かったので,またいずれ稿を改めて。

 読書は何冊かノンフィクションを。「香薬師像の右手 失われたみほとけの行方」(貴田正子 講談社 2016)、「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹 中央公論新社 2020)。いずれもNHKの番組を見て読んでみました(どれだけテレビ漬けの生活。。)。どちらも映像は面白かったけど,活字を追うのはちょっと時間がかかりました。反動でとびきり面白い小説が読みたくなっている今日この頃。 

2025-10-24

2025年10月,埼玉北浦和,Nerhol展

  10月に入っていろいろ活動中です。記録を残してなかったいくつかを忘備録として。久しぶりの埼玉県立近代美術館で13日まで開催されていたNerhol(ネルホル)の「種蒔きと烏 Misreading Righteousness」展を見ました。昨年,千葉市美術館の個展が話題になっていたときに初めてその名を知って興味を持ったアーティスト。作品を見てみたいというのと,謎かけのような展覧会のタイトルが気になったのでした。

 会場の最後にタイトルそのものの作品が展示されています。10,000枚の白と黒の手漉き和紙のポストカードが床に積み上げられていて,鑑賞者はそれを1枚,持ち帰ることができます。そしてその謎解きは作品リストの解説を読めばわかる仕組み。カードにはポピーの種が一粒漉き込まれているとのこと。

 このタイトルについて展覧会チラシには「蒔かれた種がその場で育つことと,掘り返されて運ばれてどこか別の地で芽吹くこと」という「両義的な世界のあり様をその複雑さのまま掬い上げようとする制作の営為」とあります。

 なるほど,そう言われるとわかりやすい。なにしろ彼らの作品も言葉も,鑑賞者の挑戦を受けて立とう,みたいな壁を感じてしまう強度があります。作品リストの最後の彼らの言葉をしめくくるのはこんな一節。「烏も種を食べた後,お腹の中の種のことは考えない。見えないことは考えない事と同じように。」

 私は黒のポストカードを1枚もらって,庭先のプランターにそのまま埋めることにしました。誰かに送った方がよかったかな。「誤読」の主体は一体誰なんだ?

2025-10-09

読んだ本,「文学は何の役に立つのか?」(平野啓一郎)

 平野啓一郎の新刊「文学は何の役に立つのか?」(岩波書店 2025)読了。この一冊が丸ごと文学の意義を思索する書だと思って心して手にとったのだが,冒頭の一篇「文学は何の役に立つのか」という講演録の後はさまざまなエッセイや書評,講演などで構成されている。大きな三つの章立てはⅠ.文学の現代性,Ⅱ.過去との対話,Ⅲ.文学と美。

 どの一つ一つも深い思索の沃野を堪能できる。タイトル通りの深い命題を著者の導きで学ぶというより,平野啓一郎の思考の断片を辿って楽しく読み通した,というのが正直な読後感だ。

 とりわけ今年はあちこちで三島由紀夫について考える場面が多いので,「文学は何の役に立つのか」の中で「共感できない作者について考える」として三島について語っている部分はとても興味深く読んだ。「ああいう小説,ああいう登場人物を書いた小説家が,なんでああいう最期に至ったのか,それが無くて最初から拒絶反応だと,俺とは考え方が違う,というだけになってしまうんですが,むしろ文学というのは作品を通じて,共感できない作者のことを考える,という一つの手立てにもなっている。」(p.31)この後に「金閣寺」の「認識か,行動か」という二者択一が「何か変」と続けるくだりにはなるほどと深く共感する。

 「Ⅲ.文学と美」は著者の「カッコいい」という審美的判断基準に関する言説がとても面白く,とりわけ森山大道の写真という「カッコいい」の最上級のようなアートについて論じる「二度目の『さようなら』はなかった」から。「何故,何が,『カッコいい』と感じられているのか? それは全体的に黒くて,何となくニヒリスティックな雰囲気だから,というだけではないはずである。/なるほど,すべての被写体を『等価』に眺める森山氏の写真に,ある種のニヒリズムを認めるのは,必ずしも見当違いではないだろう。被写体は,色彩を剥奪されて,光と影だけの姿に裸にされている。(略)しかし,その作品を魅力的にしているのは,やはり森山氏自身の意図に反して,そこはかとなく漂う情緒であろうと思う。それは甘く融け入っている情緒というより,自責的な矛盾として,何かが引っかかっているという風な現れ方の情緒である。」(p.269-270)

 

2025-10-07

2025年9月,京都(4),「朝鮮の文字図とかわいい絵」展

 京都3日目,久しぶりの高麗美術館へ。市バス9番は堀川通をひたすら北上します。バス停「賀茂川中学前」で下車してびっくり。美術館の隣の敷地に忽然とコンビニが現れた! 確か竹林だったような。景色ってこんなに変わるものなんだ,としばし呆然となりましたが気を取り直して秋季展の「朝鮮の文字図とかわいい絵」展を観賞。

 朝鮮の文字図はこれまで「民画」というくくりの中で見ていました。改めて「文字図」というくくりで,その道徳的意味から,庶民への普及と装飾性の重視による生活美として定着していく流れがよくわかり,今も古びないその魅力を再認識したのでした。

 「かわいい絵」の代表は何といってもこの「虎鵲図」かな。いつ来ても何回来ても,美しい朝鮮に感動して,韓国に行きたくなってしまう美術館。短い京都への旅はこれでおしまい。


2025年9月,京都(3),京都南座,「流白浪燦星」

 京都で歌舞伎を見るのは2回目。南座は改築前の歌舞伎座みたいで,何だか懐かしいと感じてしまいます。演目は「流白浪燦星」、ルパン三世と読むのです! 片岡愛之助のルパン,尾上右近の石川五右衛門。弾ける舞台は傑作としか言いようがない盛り上がりです。全体的に「白波五人男」風の伝統的な歌舞伎の世界観だったかな。楽しい夜を過ごしました。 

2025年9月,京都(2),「宋元仏画」展

 今にも雨が降り出しそうな朝。荷物に小さな傘を入れておけばよかったな,と後悔しつつコンビニで小さく軽い傘を買う。その小ささと軽さが嬉しくて,これで雨が降っても大丈夫と一安心する。宿泊先からバスを乗り継いで東山七条の京都国立博物館へ。

 今年の春から楽しみにしていた「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち」展を見る。開幕してまだ日が浅い時期だったので,朝一の会場は人もまばらで静かに名画に向き合える,と思いきや。観光バス2台分くらい?の団体さんがどっと会場に。ちょっと(かなり)がっかり。

 係の人が「お静かに」とか「撮影禁止」とか書かれた札を差し出して何となくは落ち着くけど,気が散ってしまってじっくり鑑賞する環境ではなかったかも。途中で,会場が落ち着くまで図録を読みながら椅子に座って過ごすことにした。

 こちらも気を落ち着けて会場を見渡すと,鎌倉時代や室町時代に「海を越えて」やってきた仏画の数々を国の宝や重要文化財として敬い,今なおこんなにも大切に美しく保存していることがとても誇らしく思えてくる。

 展覧会の内容の素晴らしさや充実ぶりは日曜美術館でも紹介されたし,あちこちで大評判なので私ごときが改めてここに記すことではないかな。「孔雀明王像」の美しさ。「老子図」(牧谿)の荘厳さ。

 それから第一章の「宋元文化と日本」の展示もとても面白かった。大好きな屈輪文の器物がたくさん。そういえば,と思って帰宅後に2014年三井記念美術館の「東山御物の美 足利将軍家の至宝」の図録を再見。おお,徽宗皇帝や牧谿がこんなに出品されてたんだ。すでに忘却の彼方だったけど,すごい展覧会だったんだ。

 宋元仏画展は前期と後期ではかなり入れ替えがあるので,後期も見に行きたいなあ。正倉院展や大阪市立美術館の根来展も気になるし。

2025-10-04

2025年9月,京都(1),「どこ見る?どう見る?西洋絵画」・「民藝誕生100年」展

  9月末,2泊3日で京都へ行ってきました。展覧会と南座の歌舞伎見物が目的です。まずは初日はゆっくり移動して京都市京セラ美術館に。「どこ見る? どう見る? 西洋絵画」展は春に上野西洋美術館で開催されていたときに見逃して後悔していたのでした。やはりコターンの「マルメロ,キャベツ,メロンとキュウリのある静物」は見ておきたかった。

 モチーフが面白いのか,構図が面白いのか,陰翳が面白いのか,そのすべてなのか,とにかく面白い。数多のアーティストにインスピレーションを与えたのだろうな,とサイ・トゥオンブリーのキャベツの写真を思い出しながら何度も前を行ったり来たり。

 ファン・サンテス・コターンはもう1点,同じ部屋に「聖セバスティアヌス」が出品されていて,サイズが小さいので思わず欲しく(?)なる。自室の壁にかけて毎日眺めることができたらいいなあ,などと思って見ていたら,傍らの若いカップルの女性がこんなことを言う。 
 「金閣寺の人だよね?」…あ,そうか。篠山紀信が撮った三島由紀夫の写真のことだ。三段跳びみたいな発想だな,と思いつつ,彼氏さんがどんな返しをするのか興味シンシンで聴き耳を立てたけど,何のことかわからない様子だった。思わず彼女さんに話しかけたくなってしまったけど,そんな怪しいオバアサンにだけはならないでおこう。この旅で一番の衝撃的出来事ではありました。

 京セラ美術館ではもう一つ,「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展も。民藝の展覧会はいつどこで見ても,何かしら新鮮な悦びがある。黒田辰秋の螺鈿の函や鍵善良房のくずきり容器。