2025-05-19
2025年5月,仙台,仙台フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会
2025年5月,埼玉北浦和,「メキシコへのまなざし」
連休明けに,「メキシコへのまなざし」展を見に埼玉県立近代美術館に出かけました。(会期は終了。)「戦後日本とメキシコの美術交流」という副タイトルで,「あの頃,みんなメキシコに憧れた」というコピー(?)がこの展覧会を象徴しています。
出陳作家は福沢一郎,岡本太郎,利根山光人,芥川(間所)沙織,河原温の日本人作家と,埼玉近美のメキシココレクション。岡本太郎の写真が面白かったのと,利根山光人の数々の著作の展示を興味深く見る。「メキシコの美」はいつかどこかの古書市で求めたものが未読なので,近いうちに読んでみよう。フランシスコ・トレドの馬のモチーフにもとても惹かれました。
ところでこの展覧会は3月からの長い会期で,序盤に木彫作家のイサイーアス・ヒメネスが来日して製作実演と映像上映があったのだとか! ヒメネスと言えば2023年の民博の「ラテンアメリカの民衆芸術」展で見たナワル像の人だ! 見たかったなあと思ったら,ショップに手頃な大きさの木彫が販売されていました(お値段は手頃ではなかった)。
2025-05-05
2025年5月,東京府中,「かっこいい油絵 司馬江漢と亜欧堂田善」
気持ちのよい晴天の連休半ば,初めての府中市美術館へ「かっこいい油絵 司馬江漢と亜欧堂田善」展を見に行ってきました。府中駅に降りるのも初めて。コミュニティバスの乗り場は20人ほどの列になっていたのですが,バスが到着すると,老齢とまではいかない女性が一人,向こうからすーっとやってきて,最初に乗車してしまいました。列に気がつかなかったのだろうか,平然と着席してる女性をちらりと見やり,ああいう風には年を取りたくないなあと思いながら,もしかしたら私より年下かも。と何だか複雑な気持ち。
気を取り直して,府中の森公園に隣接した美術館に到着すると早速2階の展示室へ。毎年開催される「春の江戸絵画まつり」という企画のシリーズです。江戸時代の「油絵」。そもそも絵具は荏胡麻などの油を使って,支持体は薄い絹本なので,「滑らかでさらりとして,明朗かつ落ち着きのある色」をしている,とチラシにあります。なるほど西洋風とも日本風とも言える不思議な雰囲気の絵画がずらりと並びます。
そんな「洋風画」の代表的な2人の画家,司馬江漢と亜欧堂田善の画業の魅力を堪能。司馬江漢の風景画は水平線が魅力的です。そして一羽の鳥の向こうに地(水)平線が一本引かれると,それは「鳥図」ではなく「鳥のいる空間の図」になるのだという解説に思わず納得。「寒柳水禽図」,なんてかっこいい!
亜欧堂田善は松平定信のもとで技術を極めたということで,おお,ここでも大河ドラマの背景がまた一つ奥へ深まった感じ。江戸絵画のマイブームは続きます。府中市美術館は建物もかっこいい。カフェもとてもよい感じでおいしくて,朝のバス停事件(?)もどこへやら,よい一日を過ごしました。
ところで連休中はほかに五島美術館「春の優品展」と称名寺薪能「竹生島」「舟渡聟」を見たのですが,スマホが故障して写真がないのでここに忘備として記録しておきます。薪能は称名寺のライトアップが息を呑むほど美しい。シテは櫻間右陣さん。以前何度か右陣さんの舞台をご一緒してこの春亡くなった知人を想ってちょっとセンチな気分になる。2025-04-25
2025年3月・4月,東京丸の内・東京成増,「歌舞伎を描く」・「エド・イン・ブラック」
記録に残してなかった展覧会を2つ(どちらも会期終了してます)。静嘉堂@丸の内には初めて出かけました。岡本の静嘉堂に結構思い入れがあったので,丸の内に移転というのはちょっともやもやしていたもので。明治生命館のビルの中の展示スペースは素晴らしい雰囲気ですが,何だか動線が不思議。ロッカーに荷物を入れたあと,洗面所に行こうとしたら一度退場する必要あり。
肝心の展覧会は「豊原国周生誕190年 歌舞伎を描く」展。今年も大河ドラマを楽しみに見てるので,解説は版元を確認しながら。蔦屋重三郎だけでなく,鱗形屋や西村屋とか思わずテンションが上がります。ちょうど観能したばかりの「景清」の團十郎絵も発見。「景清」は歌舞伎では歌舞伎十八番のうちの一つで,これは五世市川団十郎を三代歌川豊国が描いたもの(1860)。
ああ,江戸は面白いなあというわけで,ちょうどお花見の頃にこれも初めての板橋区立美術館へ。評判の「エド・イン・ブラック」は会期終了間近で会場はたくさんの観客。江戸絵画の「黒」を堪能する内容がとても面白かった!
「夜」を描いたもの,黒を基調とする浮世絵版画,中国版画の影響を受けて絵や文字が白抜きの黒い背景の絵画などなど。どれも魅力的な作品ばかりでしたが,伊藤若冲の「玄圃瑤華」の黒と白が作る景色には釘付けに。金屏風を暗闇の展示室で見せる趣向も面白く,これは「陰翳礼賛」を体感させる狙いなのだそう。
美術館の外には満開の桜が咲き誇り,まさに春爛漫。
2025年3月・4月 「景清」・「組踊と宗廟祭礼楽」
4月は閉場している国立劇場の特別企画公演を文京シビックホールに見に行きました。演目は「組踊と宗廟祭礼楽」。「日韓宮中芸能の共演」という副タイトルの公演です。琉球舞踊と組踊をちゃんと見るのは初めて。「万歳敵討」は兄弟が親の仇を討つという,曽我兄弟ものに似たストーリーが興味深い。
そして楽しみにしていた「宗廟祭礼楽」。詳しい事前講座も受講したので演奏曲の順序や内容は大体理解できましたが,何よりも2015年に宗廟を訪れたときに,いつか是非,大祭で舞踊や儀式を見てみたいと思ったのがこうして日本で見ることができたのが嬉しくてソワソワすることしきり。2016年のリウム美術館訪問時の映像も思い出します。演目は「保太平」11曲,「定大業」11曲など。詳しいプログラムも配布されてとにかく楽しかった! やっぱり,いつか是非現地で見てみたいと決心。4月から取り組んでいる(二度目なんですが)韓国語学習,頑張ります!
2025-04-16
これから読む本,「世界終末戦争」(マリオ・バルガス=リョサ)
2025-04-10
2025年4月,東京用賀,「緑の惑星」・「1980年代のイギリス美術」
桜満開の砧公園へ。世田谷美術館で「緑の惑星 セタビの森の植物たち」展と「1980年代のイギリス美術 展覧会の記憶とともに」展を見ました。どちらもいかにもセタビというコレクション展で,私的な意味でとにかく懐かしい。
「緑の惑星」展は趣向を凝らした展示が楽しくて,おお,カミーユ・ボンボワ!とかアンドレ・ボーシャン!とかちょっと興奮しながら歩を進めます。そして久しぶりの荒木経惟「花曲」には言葉を失う。こんなにも美しく妖しくグロテスクな花の写真が目の前にある,という悦び。アラーキーの花の写真はもう十分見たと思ってたけれど,やはりこの大きさでオリジナルプリントを見ると震えます。
窓の外には満開の桜。2階展示室ではこれまた懐かしい「1980年代のイギリス美術」展(4月6日で終了)。大学時代の恩師が,イギリス美術を見によく世田谷美術館に足を運んだ,と仰っていて,まさにその年代と時間がピタリと符合します。そんな記憶もあって,デイヴィッド・ナッシュとかベン・ニコルソンとか,作家名を見るだけでも鼻の奥がツンとする感じ。丁寧な作家解説と出品リストがうれしい。2025-04-02
2025年4月,9年ぶりのシンビジウムの開花
2016年とはっきり覚えているのは,購入したのが大河ドラマ「真田丸」のトークショーで訪れた上田の駅前の生花店だったからなのです。入場の可否は現地に行ってからの抽選という,昨今のNHKイベントに比べるとアバウトな感じで大泉洋のトークを楽しんだのでした。それ以来,不思議な魅力に惹かれて何度か訪れた上田の記憶にまた一つ,不思議な出来事が書き加えられた,という感じ。
読んだ本,「富士山」(平野啓一郎)
2025-03-12
2025年3月,東京目黒・上野毛,「中世の華 黄金テンペラ画」・「中国の陶芸展」
だいぶ体調も回復してきて,行きたい展覧会がたくさんあります。まずは目黒区美術館で「中世の華 黄金テンペラ画 石原靖夫の復元模写」展を。絵を光り輝かせるために金箔と絵具を組み合わせ,装飾的な刻印を施したテンペラ画の技法を今に伝える石原靖夫氏のまさに神業のような仕事に感動。シモーネ・マルティーニ「受胎告知」の復元模写のあまりにまばゆい黄金の輝きの前に思わず釘付けになります。
相変わらず,興味はあちこちへ飛びます。五島美術館では「中国の陶芸展」を。ちょうど去年の今頃も同じ主題の展覧会を見ました。今まで気づかなかったけれど,これは毎年の企画なのかな。昨年は鏡のコレクション展が同時開催でしたが,今年は刀剣コレクション。刀剣女子で賑わっているかと思いきや,陶芸展を見に来た客層で静かな空間です。妖しい輝きには思わず力が入ります。写真はこれしかないので後日桜の季節に差し替え予定。
さて,稿を立てない読書の記録もここに残しておくことに。「老いぼれを燃やせ」(マーガレット・アトウッド 早川書房2024),「原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子」(山我浩 毎日ワンズ2024),「言語学バーリ・トゥードRound2」(川添愛 東京大学出版会)。アトウッドは楽しみにしていただけに,失望感が大きく残念でした。「言語学」はUPの連載をまとめたものの第2弾。こちらは抱腹絶倒の面白さ。読んだ本,「大統領閣下」(アストリアス)
「ラテンアメリカ十大小説」(木村榮一)によると,この「大統領閣下」は独裁者小説の傑作のひとつなのだという。ちなみに他の傑作は「方法再説」(アレホ・カルペンティエル),「族長の秋」(ガブリエル・ガルシア=マルケス),「至高の存在たる余」(アウグスト・ロア・バストス)などのタイトルが挙がっている。なるほど,「独裁者小説」というジャンルはラテンアメリカ文学ならでは。
アストリアス自身が独裁者エストラーダ・カブレラとその後の軍事独裁制と対立してきたということで,この小説は自身と父親の経験をもとに書き上げられたものだという。主人公のミゲル・カラ・デ・アンヘルは大統領と妻カミーラの板挟みとなって文字通り自己を引き裂かれて破滅に至る。ほとんど表に現れずに君臨する大統領の姿は否応にも強烈な存在感を放つ。
「十大小説」によると,特異な文体と語り口もこの小説の特徴だという。その詩的・魔術的な独自の文体は原文で読んでこそというが,読みやすい訳文からもその魅力は十分伝わってくる。残酷な場面ではあるが,死刑囚が銃殺されるこんな場面。「…続けざまに銃が火を吹きました。一,ニ,三,四,五,六,七,八,九発。なぜか私は指でかぞえていたのですが,それ以来,自分の指は一本多いのだという奇妙な感じに囚われています。」(p.208)
2025-02-18
2025年2月,群馬高崎(2),「英国王室に咲くボタニカルアートとウェッジウッド」展
2025年2月,群馬高崎(1),角野隼斗 HUMAN UNIVERSE
2025-01-30
読んだ本,「聖域」(カルロス・フエンテス)
国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書8「聖域」(カルロス・フエンテス 木村栄一訳 1978)読了。犬に変身する青年ギリェルモの物語だ。その変身は,母である大女優クラウディアへの異様な愛と憎悪の果てに起こる。この物語を青年の狂気の物語と読むのはあまりにも単純だ,と訳者あとがきにある(p.203)。
ではどう読むか。母親の愛人ジャンカルロの運転で暴走する車の中でギリェルモは「ぼくだって生きのびたいんだ! 車を止めろ! 降ろしてくれ!」と叫ぶ。ジャンカルロの答えは「…生きのびるにはこうするよりほかにないんだ。たえず,べつの存在に変身してゆくことだ。グリェルモ,時間につかまれば,きみは殺されるんだぞ。時間には始まりがあり,発展があり,終わりがある。」(pp.155-156)
犬に変身したことは「初めと終わりのある時間」を否定して,「新しい浄化された生存へ再生した」ことを意味するのだ…と,これは訳者あとがきの受け売りだと白状しよう。この小説の枠組みであるユリシーズの物語や,ユダヤ教が生み出しキリスト教が受け継ぎ,今もヨーロッパやイスパノアメリカで脈々と生きる「初めと終わりのある時間」の概念を理解していないと,「あまりにも単純な」読みしかできないのだ。
しかし,単純にも「狂気の物語」として読んだ(としてしか読めない)私には,こんなフレーズがささったりする。「草原は何も知らずに,樹液をもとの土ぼこりに返そうとして注ぎこんでいる。土ぼこりはその樹液を受けてはじめて,同じように生殖を続け,太陽の表面に砂を返すことができるのだ。この砂の返却は,永遠を啓示しているのだろう。亡くなった祖父から,生きている父と生まれたばかりのぼくに相続された蔵書の場合も事情は同じだ。本を開くのは迷路の中に踏みこむことであり,出口を見つけたければ,本を投げ出すこと―つまり,それを閉じ,忘れるーことだ。」(pp.76-77)
蛇足ながら,この国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書は装幀がとてもカッコよくて,古書市や古書店で見つけると購入している。見返しのドローイングは中西夏之によるもの。たまりませんな。
2025-01-28
2025年1月,東京町田,「イコンにであう」展
2025-01-24
2025年1月,東京六本木,「ルイーズ・ブルジョワ」展
帰宅後に過去の展覧会チラシを探してみたら(コレクションしてます!),あった。確かに27年前,私は横浜美術館でルイーズ・ブルジョワの個展を見ていた。まだ森美術館の開館前だから,「あの巨大な蜘蛛の」という先入観なしに見たことになる。そう言えば,という気もしないではないけれど,ほぼ記憶にない。「ヒステリーのアーチ」(上右写真)も出陳されていたようだ。
今回のチラシと1997年の横浜美術館のチラシ。ルイーズ・ブルジョワを見て何を感じたかよりも,27年前に見ていた,そしてそれがほぼ記憶にない,という事実の方が私には強烈すぎる出来事だ。こんなふうに人生の中の27年間を切り取るきっかけがやってこようとは夢にも思わなかった。ちなみに今回の展覧会にはこんなタイトルがついている。「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど,素晴らしかったわ」I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful.私はこの27年間,どこに行っていたのだろう,地獄に行っていたとはまったく思わないけれど,wonderfulな日々だったと胸を張って言えるだろうか?
2025-01-08
読んだ本,「この世の王国」(アレホ・カルペンティエル)
小説は1791ー1804年のハイチ革命を主軸に,18世紀半ば頃から約1世紀のハイチの歴史が,架空の指導者ティ・ノエルを主人公にして描かれる。「序」でカルペンティエルは,ハイチを旅行して「現実の驚異的なもの」に触れてこの小説を執筆したとある。シュルレアリストの作り出す幻想的な世界がそこでは「現実的なもの」だったという。
人間の世界から動物の世界へ逃げ出そうと決意し,魔術によって鳥やろば,スズメバチ,蟻,がちょうに変身する主人公。彼は「よりよい世界」を探求しているのだという指摘(エミール・ボレーク「カルペンティエルと『この世の王国』」,巻末に所収)を含め,読者はこの「驚異的な現実」を受け止め,読み解いていかなければならない。思わずたじろぐが,それは読書の悦びにほかならない。
この小説を語るときに多く引用されている箇所。「天国に獲得すべき偉大なものがないのは,そこではすべてのものが規制の秩序に則っており,未知のものは消失し,生活は永遠のものであり,犠牲を課されることがなく,休息と喜びだけがあるからである。これにたいし,この世の王国では,人間は苦痛と苦役に打ちのめされ,貧困の中にありながらも心を美しく保ち,災難の真っ只中においても人を愛することができるのだ。この王国においてこそ,人間としての偉大さ,人間としての最大の可能性を発見することができるのである。」( p.159)