2025-02-18
2025年2月,群馬高崎(2),「英国王室に咲くボタニカルアートとウェッジウッド」展
2025年2月,群馬高崎(1),角野隼斗 HUMAN UNIVERSE
2025-01-30
読んだ本,「聖域」(カルロス・フエンテス)
国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書8「聖域」(カルロス・フエンテス 木村栄一訳 1978)読了。犬に変身する青年ギリェルモの物語だ。その変身は,母である大女優クラウディアへの異様な愛と憎悪の果てに起こる。この物語を青年の狂気の物語と読むのはあまりにも単純だ,と訳者あとがきにある(p.203)。
ではどう読むか。母親の愛人ジャンカルロの運転で暴走する車の中でギリェルモは「ぼくだって生きのびたいんだ! 車を止めろ! 降ろしてくれ!」と叫ぶ。ジャンカルロの答えは「…生きのびるにはこうするよりほかにないんだ。たえず,べつの存在に変身してゆくことだ。グリェルモ,時間につかまれば,きみは殺されるんだぞ。時間には始まりがあり,発展があり,終わりがある。」(pp.155-156)
犬に変身したことは「初めと終わりのある時間」を否定して,「新しい浄化された生存へ再生した」ことを意味するのだ…と,これは訳者あとがきの受け売りだと白状しよう。この小説の枠組みであるユリシーズの物語や,ユダヤ教が生み出しキリスト教が受け継ぎ,今もヨーロッパやイスパノアメリカで脈々と生きる「初めと終わりのある時間」の概念を理解していないと,「あまりにも単純な」読みしかできないのだ。
しかし,単純にも「狂気の物語」として読んだ(としてしか読めない)私には,こんなフレーズがささったりする。「草原は何も知らずに,樹液をもとの土ぼこりに返そうとして注ぎこんでいる。土ぼこりはその樹液を受けてはじめて,同じように生殖を続け,太陽の表面に砂を返すことができるのだ。この砂の返却は,永遠を啓示しているのだろう。亡くなった祖父から,生きている父と生まれたばかりのぼくに相続された蔵書の場合も事情は同じだ。本を開くのは迷路の中に踏みこむことであり,出口を見つけたければ,本を投げ出すこと―つまり,それを閉じ,忘れるーことだ。」(pp.76-77)
蛇足ながら,この国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書は装幀がとてもカッコよくて,古書市や古書店で見つけると購入している。見返しのドローイングは中西夏之によるもの。たまりませんな。
2025-01-28
2025年1月,東京町田,「イコンにであう」展
2025-01-24
2025年1月,東京六本木,「ルイーズ・ブルジョワ」展
帰宅後に過去の展覧会チラシを探してみたら(コレクションしてます!),あった。確かに27年前,私は横浜美術館でルイーズ・ブルジョワの個展を見ていた。まだ森美術館の開館前だから,「あの巨大な蜘蛛の」という先入観なしに見たことになる。そう言えば,という気もしないではないけれど,ほぼ記憶にない。「ヒステリーのアーチ」(上右写真)も出陳されていたようだ。
今回のチラシと1997年の横浜美術館のチラシ。ルイーズ・ブルジョワを見て何を感じたかよりも,27年前に見ていた,そしてそれがほぼ記憶にない,という事実の方が私には強烈すぎる出来事だ。こんなふうに人生の中の27年間を切り取るきっかけがやってこようとは夢にも思わなかった。ちなみに今回の展覧会にはこんなタイトルがついている。「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど,素晴らしかったわ」I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful.私はこの27年間,どこに行っていたのだろう,地獄に行っていたとはまったく思わないけれど,wonderfulな日々だったと胸を張って言えるだろうか?
2025-01-08
読んだ本,「この世の王国」(アレホ・カルペンティエル)
小説は1791ー1804年のハイチ革命を主軸に,18世紀半ば頃から約1世紀のハイチの歴史が,架空の指導者ティ・ノエルを主人公にして描かれる。「序」でカルペンティエルは,ハイチを旅行して「現実の驚異的なもの」に触れてこの小説を執筆したとある。シュルレアリストの作り出す幻想的な世界がそこでは「現実的なもの」だったという。
人間の世界から動物の世界へ逃げ出そうと決意し,魔術によって鳥やろば,スズメバチ,蟻,がちょうに変身する主人公。彼は「よりよい世界」を探求しているのだという指摘(エミール・ボレーク「カルペンティエルと『この世の王国』」,巻末に所収)を含め,読者はこの「驚異的な現実」を受け止め,読み解いていかなければならない。思わずたじろぐが,それは読書の悦びにほかならない。
この小説を語るときに多く引用されている箇所。「天国に獲得すべき偉大なものがないのは,そこではすべてのものが規制の秩序に則っており,未知のものは消失し,生活は永遠のものであり,犠牲を課されることがなく,休息と喜びだけがあるからである。これにたいし,この世の王国では,人間は苦痛と苦役に打ちのめされ,貧困の中にありながらも心を美しく保ち,災難の真っ只中においても人を愛することができるのだ。この王国においてこそ,人間としての偉大さ,人間としての最大の可能性を発見することができるのである。」( p.159)