2025-10-27

2025年10月,展覧会・観劇・読書など

 10月の忘備録。歌舞伎座では通し狂言義経千本桜のBプロ第三部を3階席1列目で見ました。やっぱり気持ちのいい席だな。お目あては右近の狐忠信。「川連法眼館」は今までに見た中で一番の興奮です。狐も素晴らしかったし,本物の忠信も,隼人と巳之助の駿河・亀井に囲まれたスリーショットが決まった時は,見てるこちらが爽快感に包まれました。

 展覧会は五島美術館で19日まで開催されていた秋の優品展「武士の雅遊」展を。「サムライ」をキーワードにとにかく「名品」がこれでもかと並びます。「紫式部日記」の特別展示もあるし,特集展示は蔦谷重三郎だし。頭の中は「真田丸」,「鎌倉殿」,「光る君へ」,「べらぼう」と大河ドラマの名場面がフラッシュバック! 楽しい時間でした。

 展覧会はもう一つ,國學院大學博物館で「中世日本の神々」展を。謎と魅力に満ちた中世日本の神々の様子が生き生きと展示されていて,まだ会期は長いので再訪の予定。「春日社鹿曼荼羅」は理屈を超えて大好きな図像。

 10月は武蔵野大学能楽資料センター主催の公開講座にも参加。「生誕100年記念 三島由紀夫と能楽・歌舞伎」の「『熊野』を巡って 三島と六世歌右衛門」を聴講しました。『熊野』は三島歌舞伎と近代能楽集の両方で扱う唯一の演目なので,興味深く拝聴しました。講師は織田紘二氏。学びが多かったので,またいずれ稿を改めて。

 読書は何冊かノンフィクションを。「香薬師像の右手 失われたみほとけの行方」(貴田正子 講談社 2016)、「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹 中央公論新社 2020)。いずれもNHKの番組を見て読んでみました(どれだけテレビ漬けの生活。。)。どちらも映像は面白かったけど,活字を追うのはちょっと時間がかかりました。反動でとびきり面白い小説が読みたくなっている今日この頃。 

2025-10-24

2025年10月,埼玉北浦和,Nerhol展

  10月に入っていろいろ活動中です。記録を残してなかったいくつかを忘備録として。久しぶりの埼玉県立近代美術館で13日まで開催されていたNerhol(ネルホル)の「種蒔きと烏 Misreading Righteousness」展を見ました。昨年,千葉市美術館の個展が話題になっていたときに初めてその名を知って興味を持ったアーティスト。作品を見てみたいというのと,謎かけのような展覧会のタイトルが気になったのでした。

 会場の最後にタイトルそのものの作品が展示されています。10,000枚の白と黒の手漉き和紙のポストカードが床に積み上げられていて,鑑賞者はそれを1枚,持ち帰ることができます。そしてその謎解きは作品リストの解説を読めばわかる仕組み。カードにはポピーの種が一粒漉き込まれているとのこと。

 このタイトルについて展覧会チラシには「蒔かれた種がその場で育つことと,掘り返されて運ばれてどこか別の地で芽吹くこと」という「両義的な世界のあり様をその複雑さのまま掬い上げようとする制作の営為」とあります。

 なるほど,そう言われるとわかりやすい。なにしろ彼らの作品も言葉も,鑑賞者の挑戦を受けて立とう,みたいな壁を感じてしまう強度があります。作品リストの最後の彼らの言葉をしめくくるのはこんな一節。「烏も種を食べた後,お腹の中の種のことは考えない。見えないことは考えない事と同じように。」

 私は黒のポストカードを1枚もらって,庭先のプランターにそのまま埋めることにしました。誰かに送った方がよかったかな。「誤読」の主体は一体誰なんだ?

2025-10-09

読んだ本,「文学は何の役に立つのか?」(平野啓一郎)

 平野啓一郎の新刊「文学は何の役に立つのか?」(岩波書店 2025)読了。この一冊が丸ごと文学の意義を思索する書だと思って心して手にとったのだが,冒頭の一篇「文学は何の役に立つのか」という講演録の後はさまざまなエッセイや書評,講演などで構成されている。大きな三つの章立てはⅠ.文学の現代性,Ⅱ.過去との対話,Ⅲ.文学と美。

 どの一つ一つも深い思索の沃野を堪能できる。タイトル通りの深い命題を著者の導きで学ぶというより,平野啓一郎の思考の断片を辿って楽しく読み通した,というのが正直な読後感だ。

 とりわけ今年はあちこちで三島由紀夫について考える場面が多いので,「文学は何の役に立つのか」の中で「共感できない作者について考える」として三島について語っている部分はとても興味深く読んだ。「ああいう小説,ああいう登場人物を書いた小説家が,なんでああいう最期に至ったのか,それが無くて最初から拒絶反応だと,俺とは考え方が違う,というだけになってしまうんですが,むしろ文学というのは作品を通じて,共感できない作者のことを考える,という一つの手立てにもなっている。」(p.31)この後に「金閣寺」の「認識か,行動か」という二者択一が「何か変」と続けるくだりにはなるほどと深く共感する。

 「Ⅲ.文学と美」は著者の「カッコいい」という審美的判断基準に関する言説がとても面白く,とりわけ森山大道の写真という「カッコいい」の最上級のようなアートについて論じる「二度目の『さようなら』はなかった」から。「何故,何が,『カッコいい』と感じられているのか? それは全体的に黒くて,何となくニヒリスティックな雰囲気だから,というだけではないはずである。/なるほど,すべての被写体を『等価』に眺める森山氏の写真に,ある種のニヒリズムを認めるのは,必ずしも見当違いではないだろう。被写体は,色彩を剥奪されて,光と影だけの姿に裸にされている。(略)しかし,その作品を魅力的にしているのは,やはり森山氏自身の意図に反して,そこはかとなく漂う情緒であろうと思う。それは甘く融け入っている情緒というより,自責的な矛盾として,何かが引っかかっているという風な現れ方の情緒である。」(p.269-270)

 

2025-10-07

2025年9月,京都(4),「朝鮮の文字図とかわいい絵」展

 京都3日目,久しぶりの高麗美術館へ。市バス9番は堀川通をひたすら北上します。バス停「賀茂川中学前」で下車してびっくり。美術館の隣の敷地に忽然とコンビニが現れた! 確か竹林だったような。景色ってこんなに変わるものなんだ,としばし呆然となりましたが気を取り直して秋季展の「朝鮮の文字図とかわいい絵」展を観賞。

 朝鮮の文字図はこれまで「民画」というくくりの中で見ていました。改めて「文字図」というくくりで,その道徳的意味から,庶民への普及と装飾性の重視による生活美として定着していく流れがよくわかり,今も古びないその魅力を再認識したのでした。

 「かわいい絵」の代表は何といってもこの「虎鵲図」かな。いつ来ても何回来ても,美しい朝鮮に感動して,韓国に行きたくなってしまう美術館。短い京都への旅はこれでおしまい。


2025年9月,京都(3),京都南座,「流白浪燦星」

 京都で歌舞伎を見るのは2回目。南座は改築前の歌舞伎座みたいで,何だか懐かしいと感じてしまいます。演目は「流白浪燦星」、ルパン三世と読むのです! 片岡愛之助のルパン,尾上右近の石川五右衛門。弾ける舞台は傑作としか言いようがない盛り上がりです。全体的に「白波五人男」風の伝統的な歌舞伎の世界観だったかな。楽しい夜を過ごしました。 

2025年9月,京都(2),「宋元仏画」展

 今にも雨が降り出しそうな朝。荷物に小さな傘を入れておけばよかったな,と後悔しつつコンビニで小さく軽い傘を買う。その小ささと軽さが嬉しくて,これで雨が降っても大丈夫と一安心する。宿泊先からバスを乗り継いで東山七条の京都国立博物館へ。

 今年の春から楽しみにしていた「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち」展を見る。開幕してまだ日が浅い時期だったので,朝一の会場は人もまばらで静かに名画に向き合える,と思いきや。観光バス2台分くらい?の団体さんがどっと会場に。ちょっと(かなり)がっかり。

 係の人が「お静かに」とか「撮影禁止」とか書かれた札を差し出して何となくは落ち着くけど,気が散ってしまってじっくり鑑賞する環境ではなかったかも。途中で,会場が落ち着くまで図録を読みながら椅子に座って過ごすことにした。

 こちらも気を落ち着けて会場を見渡すと,鎌倉時代や室町時代に「海を越えて」やってきた仏画の数々を国の宝や重要文化財として敬い,今なおこんなにも大切に美しく保存していることがとても誇らしく思えてくる。

 展覧会の内容の素晴らしさや充実ぶりは日曜美術館でも紹介されたし,あちこちで大評判なので私ごときが改めてここに記すことではないかな。「孔雀明王像」の美しさ。「老子図」(牧谿)の荘厳さ。

 それから第一章の「宋元文化と日本」の展示もとても面白かった。大好きな屈輪文の器物がたくさん。そういえば,と思って帰宅後に2014年三井記念美術館の「東山御物の美 足利将軍家の至宝」の図録を再見。おお,徽宗皇帝や牧谿がこんなに出品されてたんだ。すでに忘却の彼方だったけど,すごい展覧会だったんだ。

 宋元仏画展は前期と後期ではかなり入れ替えがあるので,後期も見に行きたいなあ。正倉院展や大阪市立美術館の根来展も気になるし。

2025-10-04

2025年9月,京都(1),「どこ見る?どう見る?西洋絵画」・「民藝誕生100年」展

  9月末,2泊3日で京都へ行ってきました。展覧会と南座の歌舞伎見物が目的です。まずは初日はゆっくり移動して京都市京セラ美術館に。「どこ見る? どう見る? 西洋絵画」展は春に上野西洋美術館で開催されていたときに見逃して後悔していたのでした。やはりコターンの「マルメロ,キャベツ,メロンとキュウリのある静物」は見ておきたかった。

 モチーフが面白いのか,構図が面白いのか,陰翳が面白いのか,そのすべてなのか,とにかく面白い。数多のアーティストにインスピレーションを与えたのだろうな,とサイ・トゥオンブリーのキャベツの写真を思い出しながら何度も前を行ったり来たり。

 ファン・サンテス・コターンはもう1点,同じ部屋に「聖セバスティアヌス」が出品されていて,サイズが小さいので思わず欲しく(?)なる。自室の壁にかけて毎日眺めることができたらいいなあ,などと思って見ていたら,傍らの若いカップルの女性がこんなことを言う。 
 「金閣寺の人だよね?」…あ,そうか。篠山紀信が撮った三島由紀夫の写真のことだ。三段跳びみたいな発想だな,と思いつつ,彼氏さんがどんな返しをするのか興味シンシンで聴き耳を立てたけど,何のことかわからない様子だった。思わず彼女さんに話しかけたくなってしまったけど,そんな怪しいオバアサンにだけはならないでおこう。この旅で一番の衝撃的出来事ではありました。

 京セラ美術館ではもう一つ,「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展も。民藝の展覧会はいつどこで見ても,何かしら新鮮な悦びがある。黒田辰秋の螺鈿の函や鍵善良房のくずきり容器。

2025-09-23

2025年9月,東京六本木,石川直樹 Ascent of 14 2001-2024,読んだ本,「最後の山」(石川直樹)

 フジフィルムスクエア企画写真展「石川直樹 Ascent of 14 2001-2024」を見る(9/18で終了)。2024年のシシャパンマ登頂によって,世界の8000メートル峰14座の完全登頂を達成したのだという。23年間をかけたその足取りが,ここにある。それらはすべて「自分の生の記録」だと写真家は言う。その「生」とは死と隣り合わせでもある。

 本人のトークを聞くことができた(大変な盛況ぶり!)。シシャパンマの1枚を指して淡々と,この黒い点はアメリカ人女性の隊で,この写真を撮った直後に雪崩で流されたのだ,と語る。他にもこの14座登頂については新刊「最後の山」(石川直樹 新潮社 2025)に詳しい。

 写真を撮るのも,記録を書き残すのも「忘れたくない。あの苦しさと喜びを忘れたくない。いくつもの出会いと別れを忘れたくない」からだという(写真展チラシにも新刊帯にも同じ文言がある)。その切実で誠実な姿に触れることができて,同時代に生きる幸せを感じる。今までもたくさん彼の写真展を見てきたし,これからも見続けるだろう。

 K2の7045メートルのキャンプで停滞中に。「下界とは異なる鮮明な夢を見た。(略)夢の手触りというか感触のようなものが,街で眠っているときよりも具体的で,妙な感覚がある。現実と幻のあいだを行き来しながら見る高所での夢は,いつも鮮やかで輪郭がはっきりしている。眠りが極端に浅いからだろうか。」(p.79) 
 
 最後の遠征中に。「重さが苦しさとなって跳ね返ってくる高所登山において,小ぶりな岩石ほどもある中判カメラと,予備を含めたフィルムの束を持っていくようなバカげた登山者はいない。ぼく自身,何度も捨てたくなったが,『登山者としてではなく,写真家として登っている』という思いがそれを押し留め,どうにか頂上までカメラとフィルムを持ち上げてきた。(略)空気の薄い環境で,朦朧とした意識の中,確かに自分が向き合った風景をぼくは忘れたくない。記録したいのである。」(p.161)

2025年9月,神奈川新百合ヶ丘,「六つの顔」

  川崎市アートセンター映像館で映画「六つの顔」を見てきました。映画は記録に残さないこともしばしばだけど,これは忘れないように。

 野村万作師。94歳の今も現役の舞台「川上」が収録されています。万作師の狂言は何度か見たことがありますが,舞台上のカメラワークは見所から見るのとまったく異なる世界を楽しむことができて,感激。滑稽な狂言とは異なる,美しい夫婦愛の物語にも胸を打たれます。奈良の川上村の原風景も美しい。

 言葉を選んで語るインタビューも心に残ります。父の萬蔵師の俳句「ややあってまた見る月の高さかな」を引いて,まだまだ上を見続ける姿勢は厳かです。萬斎師の強く優しい妻ぶりや,思わず裕基君と呼んでしまいたくなる若き才能の,眼を見張る芸も素晴らしい! これぞ至高の芸道映画と言えるのでは。

2025-09-22

2025年9月,東京千駄木,東京2025世界陸上

  熱狂の9日間が終わりました。3日目のイブニングセッションのチケットが取れて見てきました! 国立競技場は初めて。東京五輪のチケットが取れてたけど無観客だったし,サッカーはもっぱらDAZN観戦になってるし。で,競技場に到着して座席を探すとおお,2層でもこんなに近い。そしてスタジアム全体の異様な盛り上がり。日本選手の応援の声援は地響きみたい。

 お目当ては3000メートル障害決勝。スタート直後に1枚写真を撮って,あとは目に焼き付けてきました。三浦選手はラストが残念だったけど,次があるさ! 順天堂の新人駅伝メンバーの頃から応援してるので,親戚のおばさん気分です。

 そしてすごいニュースになった棒高跳び。生のデュプランティス選手を見たよ! こちらもものすごい盛り上がり。 

 つくづく思うのは,人間の身体の不思議なこと。100メートルを9秒台で走るとか,棒1本で6メートル30センチのバーを越えるとか。その瞬間,肉体に宿る精神はどこを,何を見ているのだろう。肉体を離れた高いところ(私が座っていた座席のあたり?)から俯瞰してるのだろうか,とかそんな箸にも棒にもかからないことを考えてしまいます。
 どこかの古書市で見つけたこんな1冊を読んでみようかと思っているところ。「空から女が降ってくる」(富山太佳夫 岩波書店1993)。

2025年9月,東京六本木,深瀬昌久「洋子|遊戯」

 

 ミッドタウンのフジフィルムスクエア写真歴史博物館で深瀬昌久の写真を見る。2023年の東京都写真美術館の大規模な展示でもこのシリーズを見たのだが,その時にも感じた写真家の狂気じみた眼差しが怖ろしい。怖ろしくて映画館に行けなかった『レイブンズ』をやはり見てみようか。配信なら自宅で見れるのだし。

 と場で黒マントを纏って躍る洋子。その後10年間結婚生活を続けるが,「10年もの間,彼は私とともに暮らしながら,私をレンズの中にのみ見つめ,彼の写した私は,まごうことない彼自身でしかなかった」(「救いようのないエゴイスト」『写真家100人 顔と作品』1973年)と綴ったという。(展覧会チラシより)

 2023年の展示のときには気づかなかったが,洋子は金沢出身なのだという。結婚生活の後半,謡曲や仕舞の稽古に打ち込んでいたといい,その精神風土にシンパシーを感じる。狂気の人に惹かれたという事実も含めて。

2025-09-09

2025年9月,龍岩素心の開花

 あまりの暑さにすっかり手入れを怠り,もはや命尽きて(?)いるのではと心配だった龍岩素心。今頃たった二輪ですが開花しました。ほっとしました。スマホでの撮影がどうにもうまくいきません。重いカメラはもう持ち歩くのがしんどいので,スペックの高いコンデジがほしいと思うこの頃。

2025年8月・9月,東京上野・京橋・乃木坂,「スウェーデン国立美術館素描コレクション」・「彼女たちのアボリジナルアート」・「二科展」

 ここしばらく展覧会の記録を残していなかったので忘備として。国立西洋美術館で「スウェーデン国立美術館素描コレクション ルネサンスからバロックまで」展を見てきました。海外で所蔵されている素描作品を日本で公開するのは難しいとのことで,同館の素描コレクションを日本でまとまって見れるのは初めての機会だそう。眼福でした。

 おお,デューラー! レンブラント!という感じで,まさに巨匠の手元の動きの感触を楽しんでいる感覚。イタリア,フランス,ドイツ,ネーデルランドの地域別の4章構成になっています。印象に残る作品がたくさんありましたが,雀や馬や犬など身近な動物たちが主役に収まっているのが楽しい。あと,コスチュームのデザインと考えられるらしい「蛙男」なんていうのも。 


 アーティゾン美術館では「彼女たちのアボリジナルアート オーストラリア現代美術」展を見ました。アボリジナルアートを見るとき,キーワードになるのは「脱植民地化の実践」であり,「そしてそれがいかに創造性と交差」しているのかということ(チラシより)。

 確かに7名と1組の女性アボリジナル作家の作品はどれも単純ではなく,多面的な様相を見せるものでした。イワニ・スケースの「ガラス爆弾シリーズ」。マリィ・クラークの顕微鏡写真の連作。タイトルは「私を見つけましたね:目に見えないものが見える時」。

 9月に入って,国立新美術館では第109回二科展を。坪田裕香さんの「water in the bottle」のシリーズ。不思議な形態と色彩のバランスが面白く,「これは何?」という疑問をねじ伏せる迫力があります。根木悟さんの「on the corner」。山岡明日香さんの「OTOWA POND」は奥村十牛の「醍醐の桜」の本歌取りに見えてしまうのは私だけだろうか? 

2025-08-29

読んだ本,「国宝」(吉田修一)・2025年8月,東京歌舞伎座,「八月納涼歌舞伎」

 「国宝(青春篇・花道篇)」(吉田修一 朝日新聞出版 2025)読了。映画は封切直後に見に行って堪能したのだが,これだけ大ヒットして話題になっているのだから原作も読んでみよう,と思い立つ。朝日新聞に掲載時は,冒頭の場面があまりに凄惨で早々にリタイアしたのだった。

 文庫本上下巻を一気読みして,映画も原作もどちらもめっぽう面白い。至高の芸道小説と読んでもよいし,圧巻のエンタメ小説と読んでもよいのでは。私は後者だったな。ここで物語の筋を追うのは無粋の極みだと思うので,こんな女形についての一節を引用しておしまいに。

 「生前,先代の白虎はよく言っておりました。女形というのは男が女を真似るのではなく,男がいったん女に化けて,その女をも脱ぎ去ったあとに残る形であると。/とすれば,化けた女をも脱ぎ去った跡はまさにからっぽであるはずなのでございます。」(「花道篇」p.258)

 「国宝」に影響されてというわけではないのだけれど,久しぶりに歌舞伎座に。やはり七之助の女形を見なくちゃ,でしょう。「八月納涼歌舞伎」二部は完売なのでこれまた久しぶりに幕見席のチケットを取って(幕見も予約できるようになってた!),いざ4階へ。「日本振袖始」を楽しむことに。七之助の岩長姫実はヤマタノオロチを染五郎のスサノオノミコトが退治する! スカッとすることこの上なし,の酷暑の午後でございました。


 

2025-08-21

読んだ本,「十七八より」(乗代雄介)

 乗代雄介「十七八より」(講談社 2015)読了。既読だと思い込んでいたが,未読だった。もしくはすっかり忘れていた。「二十四五」の景子とゆき江の関係がこれですっきりした。いや,何もすっきりしていない。冒頭,語り手の少女(=十七八の景子)は,叔母が臨終を迎えたときに自分ひとりに「遺言」を残したことを書く。しかしこう続けるのだ。「叔母の遺言について,ここへ書くには及ぶまい。」

 こうして読者は叔母の遺言とは何だったのか,この小説を通して何を読むのか,何を摑めばよいのか,最後まで忍耐強く読み進めても「謎を解くには及ぶまい」とひらりと煙にまかれた感触しか残らない。

 それでも,世阿弥論を説く古典教師とのやり取りや,老女の抗議が延々と続く病院の場面などは読後の余韻として心の深いところに残る。そんな断片としての古典教師の言葉から。

 「純粋に死者と語ろうとする時,私はこの世を離れる努力を強いられているような気がしますが,もう一つ,そんな気分になる時があります。本を読む時です。文字という自然を離れた意味だけができることです。この無機質な記号の海から浮き出す雲に翻弄され,夢中になり,苦悶している時こそ,質的に,死者と語らうことに比肩すべき時間なのではないかと考えるのです。」(p.59)

2025-08-16

2025年8月,東京表参道,三島由紀夫・読んだ本「近代能楽集」・「奔馬」など

 表参道GYRE GALLERYで「永劫回帰に横たわる虚無 三島由紀夫生誕100年=昭和100年」を見てきた。どこから書き起こせよいだろうか。

 今年の春から,某私大のオープンカレッジで「能と文学」という講座を受講している。能を見始めてかれこれ10年近くなるけれど,その都度ネットで詞章を検索して現代語訳を予習して,ということの繰り返しで,一度きちんと「文学としての能」を学んでみたいと思っていたのだった。まだ前期の数回しか受講していないが,すばらしい内容の講義に学ぶ喜び!を感じているところ。

 で,「卒塔婆小町」の謡曲の精読の回に,立ち寄った図書館で「三島由紀夫研究」(鼎書房」という雑誌に三島由紀夫と卒塔婆小町に関する論考が掲載されているのを発見。おや,そうか,三島由紀夫の「近代能楽集」(1968)は未読だった。「卒塔婆小町」を含む8つの戯曲が含まれている。早速新潮文庫版を読了。

 で,件の「三島由紀夫研究」の第7集(2009)は近代能楽集の特集である。巻頭の「能と三島由紀夫」という座談会(松岡心平・松本徹・井上隆史・山中剛史)の記述がとても興味深く,浅学の身に大変勉強になった。

 松岡氏「(略)ただ,三島自身も言っていると思いますが,強度だとか身体の問題を考えたときに,死の場所から生への照り返しということが非常に大きい。能舞台というのは一種の二重構造なんですね。(略)つまり二つトポスがあって,演者は「鏡の間」という死の場所から「主舞台」という生の場所に出て来る。(略)三島の『奔馬』に「松風」が出てきますが,「松風」のような亡霊劇ではこうした舞台の二重性が生きてきますね。(略)」(p.5)

 というわけで,ここで「豊穣の海」が導き出されてきた。通読したのは随分前なので,「奔馬」の新潮文庫版を「松風」が出てくる19節を中心に再読。本多が「松風」の謡いを耳にして輪廻転生に思いをめぐらせる場面。「仏教では,こういう輪廻の主体はみとめるが,常住不変の中心の主体というものをみとめない。我の存在を否定してしまうから,霊魂の存在をも決して認めない。ただみとめるのは,輪廻によって生々滅々して流転する現象法の核,いわば心識の中のもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり,唯識論にいう阿頼耶識である。」(p.226)

 うなされる(?)ように読み進めていたところ,ちょうど新聞の文化欄に表参道の展覧会の紹介記事が掲載されたのが今回のきっかけというわけ。今展は「三島の遺作となった小説「豊穣の海」は,三島にとって一世一代の「反小説」的実験であった。国内外の現代美術家によって三島由紀夫のこの壮大な小説のテーマ「阿頼耶識=相関主義」の一端を浮かび上がらせることが,本展覧会の趣旨である」ということ(チラシより)。

 新聞記事には平野啓一郎の作品(自著「三島由紀夫論」を暴力でねじ伏せている)写真も掲載されていて,その異様な書物の姿にかなり動揺する。会場でも異彩を放っていた。他には中西夏之,ジェフ・ウォールほか。それぞれに作家自身の解説が付されているので,理解の手引きになる。炎暑の一日,実に刺激的な体験だった。

 

2025-08-10

読んだ本,「編むことは力」(ロレッタ・ナポリオーニ)


  「編むことは力」(ロレッタ・ナポリオーニ著 佐久間裕美子訳 岩波書店 2024)読了。新聞の書評欄で見て面白そうだったので読んでみた。編み物はごく基本的な物なら趣味の一つと言ってもいいかも。嫌いじゃないけど,何しろ集中力が続かない。

 この本は編み物の歴史とか,社会的な意味づけを解説するのかな,と思って読み始めたらちょっと趣が異なる。著者やその知人たちの個人的な「物語」を通して「編むこと」が語られる。読み終えて,何かを編みたくなってくるような,いや,もう編み物はこりごり,と思えるような不思議な力を湛える本。

 全8章のうち,特に興味深く読んだのが2章「糸の檻を開ける」と4章「フェミニズムと糸の愛憎関係」。前者には,家庭の中で自分を主張することなく家族のために生きてきた女性が登場する。決して自分を語らず,強迫的に編み物を続けてきた彼女が人生の最後に取ったある行動に家族は動揺するという物語。

 彼女にとって編み物は「都会での新しい生活を改善し,与える者という,自ら選んだアイデンティティを築く助けになった。けれど同時に,編み物は,孤独という現実の独房に,自分の手で作った,鍵穴のない,中からも外からも開けることのできない,子どもすら入ることを許されない檻に,彼女を閉じ込めた。」(p.33) …息苦しくなる描写だが,彼女とともに過ごした家族やコミュニティにとって,彼女がいかに大きな存在だったかが語られるくだりは感動的ですらある。

 4章「フェミニズムと糸の愛憎関係」にはこんな一節。「男性,クィア,トランスジェンダーによる編み物は,特に公の場で行われる時,その時代に対して,マスキュリン,フェミニンの定義に対する疑問を投げかける先頭に立ってきた。編み物は,日常生活の中で,ジェンダーはこういうものだという社会の目線に挑戦することができる。」(p.82)

 そしてエピローグ「必要なのは愛だけ」には,著者自身の人生と編み物についての語りが綴られる。「これまでの混乱は,実は幸福をもたらすものだったのだろうか? 夫,とても快適な生活,二軒の美しい家,富裕社会における特別な場所といったすべてを,私は本当に失ったのだろうか? または反対である可能性もある。私はいま自由を手に入れていて,四〇年間編み続けてきたものが安心な毛布ではなく,拘束服だったのだとしたら?」(p.149) この問いかけに対する彼女自身の答えはあまりに美しく,読む者の心にストレートに響く。

2025年8月,川崎,「トゥランガリーラ交響曲」(神奈川フィル)・読み返す本「遠い呼び声の彼方へ」(武満徹)

 フェスタサマーミューザのプログラムの一つ,メシアン「トゥランガリーラ交響曲」(沼尻竜典指揮 神奈川フィル)をミューザ川崎シンフォニーホールで聴く。まさに音楽を体感する時間だった。プログラムによればサンスクリット語で「トゥランガ」はリズムの推移,「リーラ」は神々による創造と破壊を意味し,「トゥランガリーラ」は「愛の歌,リズムの研究,喜びの賛歌」を意味する造語だそう。

 沼尻氏は「宇宙を揺るがす愛の賛歌」というキャッチコピーをつけている。プレトークで沼尻氏は「エロスの賛歌」としたかったと冗談交じりに語っていたが,なるほど全10楽章,最終楽章に至るまで壮大な「愛の主題」がクライマックスの官能的な熱狂へと導かれる。ピアノ(北村朋幹)とオンド・マルトノ(原田節)が独奏楽器として演奏される。舞台上のオンド・マルトノが珍しくて開演前には写真撮影の人だかりができていた。神奈川フィルのもの凄い集中力と気迫あふれる演奏に感動。踊る指揮者とコンマス石田泰尚から目が離せない。 

 興奮さめやらず,書棚から武満徹の著作を引っ張り出す。若い頃,大いに影響を受けて草月会館の現代音楽講座などにも通ったことがある。「遠い呼び声の彼方へ」(新潮社 1992)にはメシアンが85年に京都賞を受賞したときの祝辞と,92年の逝去を悼む新聞への寄稿が収められている。

 「メシアンの音楽から私はたいへん多くのことを学んだが,そのなかで時間の色彩と形態という観念について学び,またその実証に触れえたことは,得難い経験として消えることはない。」(p.146)
 

2025-08-05

読んだ本,「ティータイム」(石井遊佳)

 「ティータイム」(石井遊佳 集英社 2025)読了。芥川賞を受賞した「百年泥」(新潮社 2018)がとにかくツボだったが,次作の「象牛」(新潮社 2020)には今一つ没入できなかった。そして久しぶりに新刊が出たというので読んでみたところ,これがまた見事にツボにはまってしまった。

 帯の惹句には「注意:本作はまったく優雅ではありません。まず思いつかない,ぶっ飛んだ設定の奇想文学の集合体です。(略)この奇妙さに一度吸い込まれてみましょう。…ちゃんと戻ってきてくださいね。」とある。

 四つの短編には「やたら大人びた兄妹,インドから脱出できない日本人,電車の網ダナの上で生活する女性,恐ろしいサンタクロースが登場」(帯)する。確かに,「奇想」という便利な言葉で一括りにはできそうだが,どれも人間の業が怖ろしいほどの筆力で迫ってきて,頁を繰る手が止まらない。

 著者は東大院のインド哲学出身で,やはり小説を書く行為のすべてを通底するところにインドがあり,仏教があるのだろう。「網ダナの上に」の特急列車の名前は「借馬」と書いて「カルマ」とルビ。「奇遇」で主人公に話しかけてくるインド人の男の名前は「クリシュナ」,彼の思い人の名は「ラクシュミー」。いちいち拾っていくと枚挙に暇がない。読書は私をヴァーラナシーへ,ガンガーの流れへと運んでいく。「ちゃんと戻って」これるのだろうか。

 クリシュナがラクシュミーにヒジュラの「ニルヴァーン(去勢)」について尋ねる場面。「『なんでニルヴァーンをしなければならないの?』『本当のヒジュラになるためよ。以前の身体が一度死に,性力が与えられて生まれ変わるの。わたしたちは神の媒として,赤ちゃんや結婚した人々に祝福を与えるでしょう? それはわたしたちが特別な力を持っているから』『特別な力って?』『〈ニルヴァーン〉とは〈涅槃(ニルヴァーナ)〉,繰り返す輪廻から解放され自由になるの』」(「奇遇」p.136)

2025-08-04

2025年7月,東京渋谷,「レオ・レオーニの絵本作り展」・「アイヌモシリ」

 7月の記録。暑い一日に,渋谷で2つの展覧会を見る。まずヒカリエホールで「レオ・レオーニの絵本づくり」展。「あおくんときいろちゃん」とか「スイミー」とか,やはり名作絵本の原画は気になる。会場は親子連れも多くて和やかな雰囲気。楽しく進んで,おや,と思わず立ちどまる。「平行植物」! そうだ,レオ・レオーニだった。もう釘付けである。

 一見普通の植物画に見えるのだけど,すべて平行世界に棲む植物たち。1つ1つに不思議な名前が付いてるんだよな,家に帰って本棚を探そう,と心に決める。…しかし,見つからない。ちくま文庫の「平行植物」,誰かに貸したままかな,それとも不要な文庫本を処分するときに一緒に段ボールに放り込んでしまったかな。ふと,平行世界へ旅立ったのかも,と思えてきた。ひょっこり帰ってくるかも。そういうわけで買い直すという選択肢はいまのところない。ヒカリエの9階からの渋谷の空。



 國學院大學博物館では「アイヌモシリ アイヌの世界と多様な文化」展を見る。この博物館では2022年に「アイヌプリ」展を見たことがある。今回はウポポイの国立アイヌ民族博物館と共催の特別展。小規模な展示ながら,充実した内容でわくわくする。美しいイタは19世紀後半のシタエーパレ作。
 
 文献類は國學院大學図書館金田一記念文庫の所蔵が多い。これは松浦武四郎の「久摺日誌」の展示。キャプションに「阿寒周辺にて『山中種々の異草有』と記す。延胡索と赤沼蘭の絵図。」とある。時空を隔ててはいるけれど,これはこの世界の植物たち。

2025-07-25

2025年7月,東京六本木,「死と再生の物語 中国古代の神話とデザイン」

  泉屋博古館東京で27日まで開催されている「死と再生の物語 中国古代の神話とデザイン」展を見てきました。「物語」には「ナラティヴ」とルビが振ってあります。中国古代のすぐれた技術によってつくり出されたさまざまな文物の「斬新で刺激的な」(チラシより)デザインをたどり,それらを生み出した思想や物語を展観する,というもの。館蔵の青銅鏡が展示の中心です。

  展示は「動物/植物」「天文」「七夕」「神仙への憧れ」という4つのセクションで構成されています。泉屋博古館学芸員の山本堯氏のスライドトークの日に出かけたので,詳しい解説を聞けてとても面白い体験となりました。古鏡の文様といえば四神とか三足烏くらいしかピンと来なかったけれど,こんなにも饒舌な物語が背景にあったとは。

 特に面白かったのが伯牙(はくが)と子期の「伯牙絶弦」のエピソードなんだけど,それはそうとしてなんで鏡の文様に? それは鏡とは陰のものなので,「伯牙」の発音が「丙午」に通じてとても陽の気にあふれているから,とのこと。「丙午」はよいイメージはなかったけど,「丙」も「午」もどちらも強い陽の気を持つ字なのだとか。ちなみに来年は丙午ですね。

 もう1つ,尾竹国観「黄石公張良之図」は能曲「張良」の元ネタの逸話を描いたもの。これはワキが大活躍する演目らしいので,ぜひ,福王和幸師のワキで見てみたい。