「日向で眠れ」「豚の戦記」(ビオイ・カサーレス 高見英一・萩内勝之訳 集英社 1983)をようやく読了。途中,面白そうな新書や軽いエッセイ集に何冊も寄り道してしまい,集中力が続かず随分時間がかかった。というか,集中力が続かないから寄り道をしてしまったのかもしれない。
「日向で眠れ」は主人公ボルデナーベと精神病の妻の物語。妻の変化の真相をつきとめようと懸命に探究するボルデナーベはやがて深入りして恐ろしい科学の領域に巻き込まれる。そして読者も魔力に引きずられるように物語の結末を知ることになる。これは幻想的なSFと読めばよいのだろうか。すがるような思いで訳者解説を読む。「(略)じつは訳者のようにきわめて注意力散漫な読者にも本を投げ出さずおしまいまで〈読ませる〉だけの魅力もちゃんと仕掛けてある。それは〈愛〉だ。」(p.326 萩内勝之)
では「豚の戦記」も「愛の物語」と読めるのか。この小説の中では,ブエノスアイレスの若者たちがあちこち老人を殺す。若者対老人の戦争は1週間続き,初老の主人公イシドーロ・ビダルと老人仲間は凄惨な殺戮から逃れて身を寄せ合う。そしてビダルは戦いの中で息子を殺されるのだが,彼は娘ほど年の離れた若い娘ネリダを愛する決心をするのだ。
病院の医者はビダルにこう語る。「このたびの戦争を通して青年が深く痛切に認識したのは,老人すなわち自分たちの未来,ということです。おれたちもやがてこうなるというわけでしょう。さらに面白い事実があります。青年はきまったように,老人ひとりを殺すことは自分が自分を殺すことに相当すると思うようになっているのです。」(p.301)つまり,この物語は世代間の闘争を描くものではない。ビダルの老人たちへの共感と,青年たちに向けた受容の精神が共存する〈愛〉の物語ということなのかもしれない。
「老い」を実感する日々にこの物語を読み通すのはなかなかエネルギーが必要だった。ビダルのこんな独白はあまりに手厳しい。「老人は未来が残されていないばっかりに人生の大切なことをことごとく避けて通ろうとするのだが,青年にそれがどこまで分かっているだろう。〈病は即ち病人ではない〉ビダルは考えた。〈が,老人とは老いそのものであり,死ぬ以外に出口はない〉。」(p.302)
この後に続くフレーズに救われる読者は私だけではないだろう。「(略)ネリダの家へと足を速めた。悟りの境地が夢の記憶のごとく消え去らないうちに着くためだ。正確には,自分のような年寄りを愛するなど夢想にすぎない,と言ってネリダに諦めさせるためであり,それは彼女をあまりにも強く愛しているがゆえであった。」(p.302)