2024-11-13

2024年11月,東京日本橋,「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」展

 だいぶ体調も回復してきて,三井記念美術館の「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」展の最終日に何とか駆け込んできました。展覧会場を歩き回るのが不安だったけど,帰宅後も翌朝も身体に痛みが出なくて一安心。自信も回復中。

 バーミヤンの東西二体の大仏の壁画には「太陽神」と「弥勒」の姿が描かれていたということ。この展覧会は特にその「未来仏」である弥勒信仰の流れをたどるもの。楽しみにしていたのはインド・ガンダーラの仏像群です。うっとりするばかり。 
 出品目録を見ると,京都や奈良の古寺の仏像・仏画も多いのですが平山郁夫シルクロード美術館の所蔵品がたくさん。気になってる美術館の一つなので,是非行ってみたい。とにかく右も左も魅かれるものばかりなのですが,弥勒信仰のインドから中国・朝鮮を経て日本へという流れがわかりやすくてとても面白かった。

 朝鮮の菩薩半跏像を見て,おお,去年の今頃は元気に韓国の古都めぐりをしていたなあ,と思わず嘆息。健康は何ものにも代え難いものと痛感している今日この頃。

2024-10-30

2024年10月,東京東銀座,錦秋十月大歌舞伎

 歌舞伎座にでかけて錦秋十月大歌舞伎の夜の部を観劇。ぎりぎりで取れた席は3階の袖の席。半分くらいは見切れるかと思ったけど,意外とよく見えます。オペラグラスは必携ですが。お目当てはなんといっても「源氏物語 六条御息所の巻」。染五郎が光源氏,六条御息所は玉三郎という組み合わせ(年齢差は不問に!)。染五郎の光源氏は,新聞評で「時分の花」と書かれていた通り,まさに花であり光であり。とにかく二人が美しかったことは言わずもがな,舞台セットが幻想的で感動。


 

2024-10-27

読んだ本,「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋)


  すっかりラテンアメリカ文学モードに入っていたら,図書館に予約していた芥川賞受賞作の順番がきた。「サンショウウオの四十九日」(朝比奈秋 新潮社, 2024)を読了。朝比奈氏を読むのは初めて,ストーリーなど事前知識もなし,唯一知っているのはこの作家は医師だということ。

 読み始めてすぐに,その奇抜な身体性の設定に驚き,これからすごいものを読むのではないかと期待が高まったのだが。哲学的な思索が印象的なエピソードとともに読みやすい言葉で綴られていて,そればかりが読後の記憶に残る。

 そして、物語は今一つ盛り上がらないまま,終盤はちょっと肩すかしの印象。結合双生児の杏と瞬の刺激的な「物語」が読みたかった。ただ,「意識の死」についての考察のくだりは刺激的だ。「肉体を離れても意識はある。死んでも,意識は続く。死が主観的に体験できない客観的な事実で,本当に恐れるべきは肉体の死ではなく意識の死ならば,どういったことで意識は死を迎えるのだろうか。」(p.123)

2024-10-20

読んだ本,「百年の孤独」(G・ガルシア=マルケス)

 文庫化されて話題になっている「百年の孤独」。マルケスの他の多くの作品に影響していたり,それらの解説やあとがきを読んだりしてすっかり読んだ気になっていたけれど,未読のままだった。体調のすぐれない日が続き,この本を読まないままでは終わるまじ,と真剣に思うようになったというわけ。私が読んだのは新潮社の「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの鼓直訳(2006)。美しい装丁の本。

 ペースをつかむまでは少し時間を要したが,この小説世界に一度はまると,文字通りどっぷりとはまって一気に読了。読後はしばし呆然となって,ただただすごいとしか言葉が浮かばない。

 マコンドの街の百年の歴史が,幻想と現実が溶け合って語られる。この不思議な街で起こる奇想天外というべき数々の出来事と,そして登場する男たち女たち。木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書 2011)では彼らのことを「途方もない人物たち」と指摘している。

 ここに何か感想めいたものを書いても,前述の書を始めラテンアメリカ文学の指南書からの受け売りになってしまうが,やはり衝撃を受けたのはラスト近くで語られる2つの出来事だ。1つははるか昔に亡くなったメルキアデスの残した羊皮紙が町もろとも吹き飛ばされていくこと。もう1つはアマランタ・ウルスラとアウレリャノの間に産まれたアウレリャノについて,「この百年,愛によって生を授かった者はこれが初めて」(p.467)という一節。物語はここで終わるけれど,読者は歴史とは何か,そして愛とは何かを考え続けなければならないのだ。
 蛇足ながら,「ラテンアメリカ十大小説」を読み返して,これも未読のコルタサル「石蹴り」も読まずば終わるまじ。次の一冊。

2024年10月,東京千駄ヶ谷,「天鼓 弄鼓之楽」



 体調がすぐれないまま,時間ばかりが過ぎてしまいます。暗いトンネルの中で行きつ戻りつしているような日々ですが,少しずつは前進しているよう。何か楽しみがなければ,と国立能楽堂の10月普及公演のチケットを予約して,楽しみに出かけました。

 晩夏のような陽ざしと気温でしたが,中庭には萩が開花していました。この日の番組は狂言が三宅右近シテの「舟渡聟」と,能は「天鼓 弄鼓之楽」。シテは梅若紀彰,ワキの勅使は福王和幸師。福王さんの美しい舞台を見ると沈んだ気分も吹っ飛びます!

 「天鼓」はたぶん初見です。素筋によれば「美しい音の出る鼓を持つ少年・天鼓は,帝の命に背き呂水に沈められます」とあり,となれば成仏できない魂が舞う哀しい話なのかと思いきや,これが正反対。弔いの管弦講に現れた天鼓の霊は,帝の御弔いによって成仏したことに深く感謝し,本当にありがたいと言って鼓を打ち,舞うのです。

 その舞楽はゆったりと始まり,次第に速まるテンポに乗って,少年らしい明るさに満ちています。老親との別れを嘆くというよりも,やがて輪廻転生してまた親子の縁を結ぶ日を鼓の音とともに楽しみに待つとでもいうのか,夜明けとともに消えていく姿は希望にも満ちて。

2024-09-16

読んだ本,「大転生時代」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊「大転生時代」(文藝春秋)読了。生涯読者(?)なので新刊が出れば速攻で入手。単行本で読みたいので文芸誌で連載中はぐっとこらえる。そして通読して,ああ,これぞ待ちかねていたのだと感激する…はずなのだが,今作はちょっと戸惑う読後となった。

 「転生」とか「生まれ変わり」のテーマは昨今のライトノベルやSFの定石らしい。そのあたりをよく知らなかったせいか,何だか不可解な場面にたびたび遭遇してしまい,頭の中ははて?の連続だったかも。「宿主」の肉体に「転生」する転生者が複数いた場合,宿主は多重人格になるということなのか? 異世界から転送されてきたゲノム情報を自分のボディに移植する(p.186),となるともはや想像も理解も追い付かない。

 帯の惹句には「ライトノベル的想像力の彼方へ読者を運ぶ『異世界転生』文学爆誕!」とあって,遠くへ運ばれてしまった一読者である私は呆然自失状態である。「ハニカミ屋」と横溝時雨の会話。「(略)私たちが『意識』と呼んでいるものは,実は自分が生まれる遥か以前からあるものなんです。かつて無数の肉体に宿り,乗り換えを重ねてきた意識を,ある日,突然,我が身に引き受けるのです。生きているあいだはその意識のユーザーになるが,死後,その意識は誰かの肉体に乗り移ることになる。それが転生というものなんです。」「自分というのは唯一無二で,この肉体は自分だけのものかと思ってましたけどね。」「(略)老化が進み,半分ボケてくると,自分が誰だかわからなくなったりする。それは意識が使い古した肉体から離れたがっている兆しなんですよ。」(pp.139-140)

2024-08-26

読んだ本,「アフリカのひと」(ル・クレジオ)

 「アフリカのひと 父の肖像」(ル・クレジオ 菅野昭正訳 集英社 2006)読了。ル・クレジオは大部の著が多いので,つい身構えてしまうけれどこの本は文字が大きいしボリュームも少な目で読みやすそう,と思って手に取った。

 確かにすらすらとは読めるのだけれど,あとがきには,小説家ル・クレジオはラウル・ル・クレジオ医師を「ひとりの父親の枠のなかに囲いこもうとしていない」,「《ポスト・コロニアリズム》の先駆者の像を見たのだった」,その点で,この「アフリカのひと」は一篇の回想記の域を越えるのだ,とある。(pp.169-172)

  そして全編を通して,彼の作品に通底する大地と自然への畏怖が,少年時代にアフリカという大地で身につけたものであることが伝わってきて感動的ですらある。「さまざまな身体の匂い,手ざわり,ざらざらしてはいないが温かく軽やかで,たくさんの体毛が逆だっている肌。私のまわりのさまざまな身体の大変な身近さ,その数の多さを私は今も感じている,なにかそれ以前には私の知らなかったもの,恐ろしさを取りのぞく,なにか新しいと同時に親しみやすいものを。」(「身体」p.15)

2024-08-17

読んだ本,「閉ざされた扉 ホセ・ドノソ全短編」


  ホセ・ドノソは長編「夜のみだらな鳥」で格闘(?)して以来,手に取るのを躊躇してしまいそうになるのだが,2023年に短編集が出ていたのを知って,短編ならばと読んでみた。実に面白く,満腹の読後感。水声社のフィクションのエル・ドラードシリーズの1冊で,訳は寺尾隆吉による。

 14の短編から構成されている。全短編ということは,これで全部なのだろうか(当たり前),どれも魅力的だが,標題作の「閉ざされた扉」,「散歩」,「サンテリセス」,そして最も短い「《中国(チナ)》」が心に残る。「夜のみだらな鳥」と同様に,狂気と妄想の渦巻く世界がコンパクトに眼前に現れるので,読みながら「行って帰ってくる」感覚とでも言えばよいのか,これぞ読書の醍醐味といった時間を堪能した。

 「散歩」は,書き手の叔母であるマティルデがある日みすぼらしい白い雌犬と「視線がぶつかった」ときから始まる。マティルデと白い犬は散歩に行く。何処へ? 私は彼らの後をそっとついていく。彼らは気付いていないはずだ。ずんずんと進む。彼らは気付いているのかもしれない,と思い始める。私は帰りたくなる。頁を繰る手が震える。
 
 「死は恐ろしいものではなく,整然として濁りのない最終段階なのだ。もちろん地獄は存在するが,私たちとは無縁で,この町の他の住人たち,損傷を引き起こして訴訟とともに我が家の富を増やしてくれる名もない船乗りたちを罰するために存在するだけなのだ。」(「散歩」pp.206-207)

2024-08-15

2024年8月,龍岩素心の開花


 今年もこの暑さの中で開花した龍岩素心。なぜ毎年この季節なのか不思議で仕方ない。日々,肉体と精神の老いに直面し,来年もこの可憐な花を見ることはできるのだろうか,とそんな滅相もない疑問もあながち非現実的なものではない今日この頃。


 
 

2024-08-02

2024年8月,東京日本橋,ジャッカ・ドフニ


 5月か6月だったか,どこかの展覧会のチラシ置き場でこの展覧会を知ってびっくり仰天しました。ジャッカ・ドフニの展覧会? もう閉館してしまったのではないの? その存在を知って,何が何でも行ってみたいと思ったけれども,それは永遠に叶わないと知ったのも同じとき。津島佑子の「ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語」を読んだときのことでした。この本を読んだのは2016年のことだから,8年ぶりに私の記憶も揺さぶられたということ。

 高島屋史料館で開催されている「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家」は小規模な展示ながら,ジャッカ・ドフニに収蔵されていてその後北海道立北方民族博物館に移管された資料の精鋭たちを紹介する展覧会です。「ウィルタとその文化に出会う場」が都会の華やかなデパートのフロアの片隅に出現するのも不思議な感覚。
 
 ウィルタを中心に,ニブフ,樺太アイヌなどサハリンに暮らした少数民族の歴史や生活文化を知ること。私の場合は津島佑子の小説が入口となって,主要な登場人物だったゲンダーヌさんがこの展覧会でもキーパーソンとして登場したことで,虚構の世界が一気に現実の世界へと変貌したみたい。真夏の一日,私は網走へ,サハリンへ,そして書物の中の世界へと旅をしてきたのだろうか。

 ずっと体調が思わしくなくて,9月に予定していたネパールへの旅もキャンセルしてしまった今,次の現実的な目標は網走の北方民族博物館へ行くことかな。実現しますように。
 展覧会場の前のジオラマの一部。

2024-07-08

2024年6月,東京世田谷,「民藝 MINGEI」

 6月某日,久しぶりに砧公園へ。世田谷美術館で6月末まで開催されていた「民藝」展を見に行きました。日本各地の民藝館や窯元も訪ね歩いたのだから,もう目新しさに驚くことはないかな,と思っていたのですが! 今展では世界へ,未来へ「ひろがる民藝」(第3章)がとても印象的で面白かった。

 1972年刊の「世界の民藝」(朝日新聞社 1972)で紹介された欧州各国,南米,アフリカなどの品々がとても魅力的。数に圧倒される国立民族学博物館も面白いけれど,こうした「美」の視点で精選された展示も心に沁みました。

 他にもイギリスのスリップウェアの展示が充実していて,改めて我がコレクションのウィンチコム・ポタリーの魅力を再確認。4年前にフェルメールで購入したものです。

2024年7月,東京新宿,文学座「オセロー」

 体調がすぐれない日が続き,すっかり更新を怠っていました。ちょっと回復しては出歩いてまた不調に,と何だか奇妙なループに陥った感覚の日々を過ごしてました。そんなわけでここしばらくの出来事を忘備として。思考は全然追い付いてません。(もともとですが。。)

 7月某日,文学座公演「オセロー」を見に新宿の紀伊国屋サザンシアターへ。これで今年は「リア王」「ハムレット(Q1)」に続いてシェイクスピア4大悲劇のうちの3つを立て続けに見てしまった。今回は小田島雄志訳による。白水Uブックスで予習をしてから出かけました。

 そもそも観劇のきっかけはオセローを演じた横田栄司さんの生の舞台をぜひ見てみたかったこと。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で和田義盛を演じていたのが強烈で,しばらく舞台から離れていたのがとても残念で健康が心配だったのでした。

 横田オセローは「帰ってきたぜ」と言わんばかり,生気とエネルギーに満ちてとにかく圧倒的。でもどこかユーモラスでもあり,観客席はみな,あの横田オセローに魅了されていたみたい。デズデモーナがそうであったように。

 ところでこの「オセロー」という演劇は,イアーゴーもまた主人公と言えるのではないかというくらい,この策略家の存在感も圧倒的だった。「嫉妬」と「狂気」の幾重にも絡まる糸をぐるぐると絡め続けるように,舞台上の装置をぐるぐると回すその手つきの鮮やかさ。

 久しぶりにシェイクスピアを3作も堪能して,はるか昔に読んだこんな本を本棚から発掘して再読。「シェイクスピアの面白さ」(中野好夫 新潮選書)。奥付を見てびっくり仰天。昭和42年刊,昭和61年29刷。40年近く前の本でした。

2024-06-06

読んだ本,「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(トム・ストッパード)

 
 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(トム・ストッパード,小川絵梨子訳,ハヤカワ演劇文庫 2017)読了。「ハムレット」の枠組みの中でローゼンクランツ(ロズ)とギルデンスターン(ギル)が彼らの不条理そのものの「死」へと向かっていく。

 彼らはなぜ死ななければならなかったのか,「ハムレット」という戯曲の登場人物と観客,そしてこの戯曲の登場人物と観客(私はこの舞台は見たことがないので読者ということになる)の複雑な関係の上に構築されるのは,あまりに不確実な現実世界とでもいえばよいのだろうか。「ハムレット」の舞台を見終えたときの衝撃と同じような読後感である。いつか舞台も見てみたい。

 (第三幕・船の上)ロズ「あいつらの狙いは俺たちだったってこと? そもそものはじめから。俺達ってそんなに重要人物?/ギル「でもどうして? 全てはこのため? 何もかもがこの俺たちのちっぽけな死のためなのか? だとしたら,俺たちは誰だ?」(p.217)

2024-05-20

2024年5月,東京八重洲・六本木,ブランクーシ展・マチス展

 大きな展覧会を2つ。国立新美術館では今月27日まで開催中の「マティス 自由なフォルム」展を見ました。「切り紙絵のあざやかな世界」という惹句の通り,大作の「花と果実」を始め「ブルーヌード」など切り紙絵を堪能できる展覧会ですが,それだけではなくとにかく盛り沢山の内容です。ヴァンスのロザリオ礼拝堂の再現展示には感動。

 ところでほとんどの作品がニース市マティス美術館の所蔵なのですが,現地は特に工事中というわけでもないようで,こんなに大量に貸し出してくれて有難いものです(現地は空っぽ?)。今まであまり見たことのなかった彫刻作品も興味深く拝見。色と形と。平面と立体と。

 会期終了が近いこともあって展示室はたくさんの観客。撮影可の後半展示室はカメラを構える人たちに遠慮がちになるのが不思議。こうなると,展覧会は撮らなきゃ損,みたいな感じになってしまってちょっと複雑。というわけで写真は撮ってないので,帰宅してからワタクシ所蔵の画集を開いてパチリ。

 そう言えば,ウン十年前の初めてのパリ。ポンピドゥーセンターのショップでマティスのブルーヌードのポスターを買って,持ち帰るために筒状のケースも買って,大切に抱えてきたのでした。しまいこんでいるけど,久しぶりにフレームに入れてみようか。

 さて,八重洲のアーティゾン美術館では「ブランクーシ 本質を象る」展を。展覧会チラシには「真なるものとは,外面的な形ではなく,観念,つまり事物の本質である」という言葉が引用されてます。うーん,なるほど。と思いながらブランクーシの立体を見て,私の理解力で納得できたのかは微妙。写真の展示が多くて,立体よりもわかりやすかったかも。ブ
ランクーシのアトリエの再現展示もあり,こちらも感動。

2024-05-18

2024年5月,東京渋谷,「ハムレットQ1」

 渋谷のパルコ劇場で「ハムレット Q1」を観劇しました。3月のリア王に続いてのシェイクスピア悲劇。今回もまた,こんなに悲惨なストーリーだったかという衝撃が大きくて,しばらく負のエネルギーを引きずってしまいました。

 現代はQ2とF1を元にした台本で上演されるのがほとんどで,Q1の上演は珍しいということ。確かに上演時間も2時間半ほどで,スピード感あふれる舞台だったような。と言っても通常(?)のハムレットを見た記憶はないのだけれど,とにかく観客は膨大なセリフを浴びることに変わりはありません。光文社古典新訳文庫にQ1が入っているので,観劇の前後に読んでみました。訳文が読みやすく,あっという間に読了。「生か死か」や「尼寺へ行け」のセリフは劇の前半に登場します。

 ハムレット役の吉田羊の演技を始め,舞台の登場人物たちのエネルギーたるや,その源は「狂気」の一言。とにかく「狂気,狂気,狂気」の世界が舞台上に現前するわけで,観客の正気もどこかに連れて行かれる感覚です。

 呆然と終演を迎え,現実に引き戻されながら,今まであまり関心のなかった2人の登場人物,ローゼンクランツとギルデンスターンに興味津々。確かこの2人の名前を冠した舞台があったはず。トム・ストッパードの「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」。2017年にシス・カンパニーで上演があったみたい。ハヤカワ演劇文庫で読めそう。 

2024-05-01

2024年4月,大阪,「福田平八郎」展・「シン東洋陶磁 MOCOコレクション」展

 今回の関西旅行の大きな目的は空海ともう1つ,中之島美術館で「没後50年 福田平八郎」展を見ること。福田平八郎の日本画はずっと前から大好きで,その装飾的かつモダンな世界を通覧できる展覧会には大興奮。いやあ,とにかく楽しかったとしか言いようがない。

 NHK日曜美術館でも紹介されて,来場者も多かったけれども混雑というほどではなく(モネ展の方が長蛇の列でした),「漣」の前では,こんなに手の跡を見ることができるのか,と印刷で見るのとはまったく異なるその「画の力」にしばし足が動かなくなります。

 集英社の「現代日本美術全集 第6巻 福田平八郎」(1981)は私が初めて買った日本画の画集(展覧会図録ではなく)なのです。40年以上前のこと。こうしてまた人生の旅のピースをうめていく!

 大阪ではもう1つ展覧会を。リニューアルオープンした東洋陶磁美術館で「シン東洋陶磁 MOCOコレクション」展。美術館のエントランスやカフェが新設されてとても気持ちのよい美術館に生まれ変わりました。展示室そのものの見た目は従来と変わりませんが,今回はとにかくオールスターの展示。工事中に泉屋博古館で見たコレクション展の記憶が生々しいので,おっ,またお会いしましたね!みたいな気分で展示室を回り,カフェにも寄って大満足。春の関西小旅行はこれでおしまい。

2024年4月,奈良,「空海 密教のルーツとマンダラ世界」

 GWの前に,人混みを避けて奈良と大阪に弾丸旅行。完治しない腰痛が不安で(とほほ度マックス),予定していた旅程は短縮して展覧会も3つに絞りました。まずは奈良国立博物館で「空海 密教のルーツとマンダラ世界」展を。

 思ったより混んでなくて,ゆっくりじっくり展示を見ることができました。マンダラ世界を体感できる五智如来像の立体展示がとにかく感激。大日如来を中心に東西南北の配置で,まさに金剛界が眼前に広がっているかのよう。

 少し古い本ですが「マンダラの仏たち」(頼富本宏著,東京美術 1985)がとてもわかりやすく鑑賞の手を引いてくれました。この本は西安に旅行する前に購入して読んだもの。そう,西安では空海が修行した青龍寺も訪れたのでした。歳を重ねて,いろいろな旅がこうしてパズルのピースを埋めるように繋がってくるのがとても楽しい。唐やインドネシアからの出陳物も興味深く拝見しました。

2024-04-13

2024年4月,東京田端,映画「カムイのうた」・「アイヌ神謡集」(知里幸恵)


 公開当初から気になっていた映画「カムイのうた」をようやく田端のミニシアターまで見に行く。「アイヌ神謡集」を編んだ知里幸恵をモデルとした,これは真実の物語なのだろう。2月に読んだ「和人は舟を食う」や,ジョン・バチラーの伝記「異境の使徒」でも言及される,おばの金成マツと幸恵との魂の交歓の記録とも言えるのかもしれない。

 差別を受ける場面は胸が苦しくなるが,ユーカラを記録するために幸恵がマツからローマ字を教わり,神謡を必死で書き留める場面が尊い。東京の兼田教授(金田一教授)宅で原稿を書き上げていく姿には,この仕事が彼女の成し遂げる全仕事の端緒であってほしいと願いたくなる。叶わないことと知りながら。

 この映画を見た後で「アイヌ神謡集」(知里幸恵編訳 岩波文庫 1978)を改めて手に取る。「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。」で始まる序文(pp.3~5)を読むだけで,幸恵の深い想いに触れることができるようだ。そして金田一京助による「知里幸恵さんのこと」(pp.159~162)の末文はあまりに哀しい。

 登別に「知里幸恵 銀のしずく記念館」というのがあるらしい。次の北海道への旅では是非立ち寄ってみたい。

読んだ本,「アフリカンプリント 京都で生まれた布物語」


  アフリカンプリント布は大好きで,好きな柄のカンガなどを見つけてエコバッグを作ってみたり(型紙さえあれば簡単なものは作れます(ドヤ顔)),面白い柄のボトムスはシンプルなシャツなどに合わせると楽しいのでいくつか持っています。

 で,書店の手工芸本のコーナーで「アフリカンプリント 京都で生まれた布物語」(並木誠士・上田文・青木美保子著 青幻舎 2019)を見かけたときは,ファッション本かと思ったのですが,京都工芸繊維大学が監修した学術的な内容も含む楽しい一冊でした。

 アフリカンプリントに興味を持ち始めた頃は,すべてアフリカ製のものが輸入されているかと思っていたのですが,オランダ製や安価な中国製など様々な製造地があることにも気づきました。そしてこの本を読んでびっくり。京都でも製造されていたとは! そしてそれらがアフリカに輸出されていたとは!

 2013年に京都工芸繊維大学資料館で開催された「大同マルタコレクション」の展示資料の成り立ちや意義の詳細な分析がとても面白い。合わせて豊富な美しい図版,実用的なショップ案内など,楽しい読書の時間を過ごして大満足。

2024-04-09

読んだ本,「掠れうる星たちの実験」(乗代雄介),「フェルナンド・ペソア短編集 アナーキストの銀行家」(フエルナンド・ペソア)

 
 乗代雄介が「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会 2021)の中でペソアの短編集を取り上げていて,その書評自体に惹かれたし,導かれて読んだ「フェルナンド・ペソア短編集 アナーキストの銀行家」(彩流社 2019)もとても刺激的な1冊だった。

 乗代雄介はこのペソア短編集の冒頭の「独創的な晩餐」についてこのように書く。「(略)彼が『独創的な晩餐』を,うっかり完成されてしまった完璧なものの不完全なコピーと考えていたことは想像に難くない。着想と書かれ始めた文章の間にはずれがある。異名者という形式が忘我の賜物だろうと責任逃れの手続きだろうと,それは着想をする『自分』と『書く者』のずれに由来するはずだ」(p.72)

 なるほど,ペソアは詩とか断片でしか馴染のない(タブッキの小説の中に現れる姿は別として)読者である私にとって,そうか,ペソアにはこういう短編があるのか,というのがまず驚きだったし,ペソアと書き手である異名者(「独創的な晩餐」の場合,アレクサンダー・サーチ)の関係性をこのように簡潔な言葉で表してくれるのは何より有難い指南だ。

 そうした前提を踏まえて,「独創的な晩餐」はあまりにも衝撃的なラストに言葉を失う。
ほかにも,この短編集には読者をすんなりとどこかへ誘う物語は1つもない。とりわけ「夫たち」は男性本位の世界に対して声をあげる女性の声を生々しく描き,現代的と言ってもよいのかもしれない。ペソアの文章がはらむ「ずれ」を「正しく」理解することは難しいが。

 なお,乗代雄介の「掠れうる星たちの実験」にはサリンジャー論である表題作と,書物の大部を占める書評と,9編の短編(目次には「創作」とある)が収められている。「旅する練習」や「それは,誠」に昇華する着想や断片なのかな,と思いながら面白く読んだ。「八月七日のポップコーン」は「独創的な晩餐」と比するくらいの衝撃的なラストだ。

2024-04-04

2024年3月,東京竹橋,「中平卓馬 火|氾濫」

 

 国立近代美術館に中平卓馬を見に行く。雑誌や写真集に発表された仕事のオリジナルの誌面の展示が新鮮で,それらを通して時代の空気をまとった写真と写真家の眼を丹念に辿る。初期から晩年まで約400点の作品・資料が展示されているので,かなり時間をかけて会場を回ることになる。

 プリントの展示では何といっても1974年の「15人の写真家」の出品作の原作品を見ることができて感激。ただ,2018年のモダンプリント作成時の展示は見に行ったので,その一つ一つの作品は既視感のあるものだ。モダンプリントも手前の部屋に展示されていて,否応でもオリジナルと複製について考えさせられる。

 サーキュレーションの復元展示もなるほどこういう感じだったのか,というのはおもしろかったけれど,ほんの数枚の当時のオリジナル写真の放つ圧倒的なオーラには叶わないな,とそんなことを考える。これらのオリジナル写真は横浜美術館の原点回帰展でも見たはず。

 そう,初めて見る資料ももちろん多かったけれども,白状すれば既視の作品の前では確認作業のようになってしまったのも事実。やはり横浜美術館で初めて「中平卓馬」を知ったときの衝撃があまりに大きかった。

 そういう意味で,今回驚いたのは中平卓馬の記録日記の存在だった。ホンマタカシの映画で睡眠時間などを記録した短い日記の存在は知っていたけれど,日常の出来事とそれに対する心情や製作への思考などが緻密に綴られた日記の展示に驚いた。

 図録によれば,1978年から90年前後までの膨大な日記が今回の展示の準備のために遺族から国立近代美術館に貸与されたのだという。経緯やその意義を知りたくて分厚い図録を購入。論考「中平卓馬『記録日記一九七八年』について」は倉石信乃氏による。

 詳細な分析と論考を時間をかけて読む。膨大な写真と膨大な言葉。その意味を考えながら。そして論考の最後に引用されている稲川方人の書評(「新たなる凝視」についての)の出典が「彼方へのサボタージュ」(小沢書店 1987)とあるのにちょっと驚く。書棚に眠っていたこの本に,そんな書評が含まれていたとは。次から次へと導かれるようにして読書の日が続く。

2024-03-31

2024年3月,東京池袋,「リア王」

 池袋の東京芸術劇場で「リア王」を観劇。段田安則のリア王,エドマンド役は玉置玲央。今年の大河ドラマに夢中なのでこの二人の生のお芝居を見てみたかったのです。ショーン・ホームズ演出の素晴らしいとしか言いようのない舞台。緊張感にあふれる3時間弱,古代英国が舞台のはずなのに,リア王をめぐる老人と兄弟姉妹の物語が孕む問題は,私たちが生きる現代社会が直面するそれと同じではないか。

 四大悲劇の1つなのだから,希望のある結末を期待する方が間違っているわけで,しかしながらあまりにも悲惨すぎる。学生時代に読んだきりなので,久しぶりに復習しなくちゃと岩波文庫を探し出す。野島秀勝先生の訳と解説が,講義を受けているよう。

 コーディリアの「申し上げることは何も。」には脚注として「原語は‛Nothing’の一語。この一語は全幕を通じてさまざまな劇的文脈で,こだまのように繰り返される。(以下略)」と言った具合(p.20)。そうだ,こういう話だったと思い出しながら,繰り返されるNothingを辿りつつ,観劇の余韻に浸る。



 

2024年3月,東京上野毛,「中国の陶芸展」

 上野毛に出かけて美しい中国の陶芸を堪能してきました。五島美術館で3月31日までの開催ということで慌てて駆け込む。体調がまだ完全には回復してないのですが,美しいものに慰められるというか。たくさん歩いたのに,本当に元気になってくるから不思議です。

 それにしてもこれだけの逸品がすべて館蔵ということで,蒐集の審美眼には感服という他ありません。どれか一つ持ち帰ってよいと言われたら(帰る前に心臓が止まりそうだけど),磁州窯の梅瓶かな,それとも唐の三彩万年壺かな,などと妄想全開。青と緑の釉薬が美しい唐三彩は,東博のもっと小さな類品が記憶にあるのだけれど,釉薬の色といい流れ方といい今の気分にどんぴしゃときました。同時公開の館蔵古鏡コレクションの特集展示も圧倒的な展示。

 こういう展覧会を見たあとは,古本屋や古書市で手に入れた古い書籍を繰るのが良き。平凡社の陶器全集「磁州窯」は昭和41年刊。つい,書棚に並べた後は埃をかぶってしまいがちだけど,時間も気持ちも余裕のあるときにゆっくりと眺めるのは至福の一時です。 

2024-03-23

読んだ本,「散歩哲学」(島田雅彦)

 島田雅彦の新刊「散歩哲学 よく歩き,よく考える」(早川書房 2024)読了。島田雅彦の散歩論といえば,2017年の日本近代文学館での講演「歩け,歩き続けよ」が真っ先に思い浮かぶ。あの講演の内容が1冊の本にまとめられたのかと思うと,参加したことが読者としてちょっと(かなり)嬉しい。

 講演では課題図書になっていたルソーの「孤独な散歩者の夢想」を詳しく取り上げていたけれど,本書ではほとんど記述なし。なぜだろう? 社会から締め出された親父のグチ,なんて言ってたから,もっと有益(?)な図書の紹介に努めたのか,などど勘繰りたくなってくる。

 第2章「散歩する文学者たち」も面白いし,都心や郊外の実際の飲み歩き散歩コースの詳細な記録も思わず辿ってみたくなる(こんなに呑めませんが。)。最初のページのこんな一節に快哉。「移動の自由はたとえ国家や社会,支配者からそれを制限されたとしても,決して譲り渡してはならない権利である。私たちは飢餓や暴力の恐怖に晒されたら,今いる場所から逃げ出す権利を持っている。差別やいじめに遭ったら,その不愉快な境遇から抜け出す自由を持っている。散歩はその権利と自由を躊躇なく行使するための訓練となる。」(p.3「プロローグ」より) 

2024-03-19

2024年3月,東京四谷,「壬寅進宴図屏のなかの朝鮮王室の踊りと音楽」

 


 久しぶりに展覧会に出かけてきました。他にもいろいろ見たい展覧会があるのですが,会期最終日だったので四谷の韓国文化院で「壬寅進宴図屏のなかの朝鮮王室の踊りと音楽」展を。こじんまりとした会場のすっきりと充実した展示に感動。まるで韓国の博物館の一室がそのまま再現されているよう。描かれた舞踊を再現した動画も美しい。奥のスペースは楽器や衣裳の展示でした。

 この図屏は韓国国立国楽院の所蔵だそう。2015年に訪れたソウルの国立古宮博物館でも楽器の展示が充実していたことを思い出し,たくさんの博物館めぐりをした初めての韓国旅行が懐かしい。韓国国立国楽院はノーマークだったな。またゆっくり行きたいな,とそんなことを思う午後。

2024-03-14

読んだ本,「ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男」(鈴木晶)

 

 「ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男」(鈴木晶,みすず書房 2023)読了。バレエ・リュスの「牧神の午後」のプログラムのイメージが好きすぎて,そこからニジンスキーに入っていったというと彼のファンには怒られそうだ。

 兵庫県立芸術文化センターの「薄井憲二バレエコレクション」のプログラム現物資料をいつか見に行きたいとずっと思っていたところ,今年1月には京都で「踊るバレエ・リュス」というイベントが,そして兵庫県立芸術文化センターでは3月10日までこのイベントの特別展である「レオン・バクストの衣裳」展が開催されていた。体調が悪くて,神戸も京都も行くことが叶わず,あまりに残念で痛恨の極み。

 そこでこのずっしりと読み応えのあるニジンスキーの伝記にじっくり取り組んでみたという次第。ダンサーであり振付家であるその生涯がとにかく詳細に描かれる。とりわけ南米公演に向かう途中の突然の結婚によってディアギレフからバレエ・リュスを解雇されるくだりや,一時的に復帰してもやがて狂気に陥り,ロンドンで死に至るまでの緊張感など,濃密な映像作品を見るように読み進め,読了後はしばし呆然。

 特に第5章の「振付家ニジンスキー」を興味深く読んだ。「牧神の午後」の振付に影響を与えたであろうルーブルの古代ギリシャの壺や,彼自身が記録した「舞踊譜」の図譜としての美しさなど,豊富な図版によりイマジネーションが刺激される。

 ディアギレフとの関係や,レズビアン的嗜好をもつ妻との関係など複雑な性向についても詳しいが,冷静で淡々とした筆致で語られていて信頼して読むことができた。なお,ディアギレフを中心とした共同体については海野弘の著作も併せて読んでみた。初めての知見が多くてこちらも読後は呆然。

2024-03-04

これから読む本,「十牛図 自己の現象学」

 十牛図にはずっと関心があって,随分と前に下鴨神社の古書市で手に入れた「十牛図 自己の現象学」(上田閑照・柳田聖山,筑摩書房,1982)を読もう読もうと思いつつ,なかなか進まないまま。

 まずはごく基礎的な知識を,と思って探してみたらこの本を見つけた。「あなたの牛を追いなさい」(枡野俊明・松重豊,毎日新聞出版, 2023)。序章に「十牛図は禅の入門書のようなもの」とあるので,まずはその入門の入門を,というわけ。

 枡野氏の禅の読み物はわかりやすくて読みやすく,「禅の言葉」「無心のすすめ」などを愛読。平明な言葉で十の図像の意味を学ぶことができたので,今度こそ腰を据えて読書に取り組もう。松重豊が禅の教えを自分の俳優業に展開していくのも一興,面白かった。(私は「孤独のグルメ」の大ファン。)

 

2024-02-23

読んだ本の記録,「和人は舟を食う」他

 長くこの場所を放置してしまっていた。思いがけず病床に伏して,時間はあっても思考はほとんど停止し,少し気分が良い時に頁を繰った本を忘備録として記録しておこう。内容についていずれ改めて文章にすることもあるかもしれない。

 「和人は舟を食う」(知里真志保 北海道出版企画センター 1985)。知里幸恵の生涯を描いた映画(カムイのうた)が公開中で,体調が恢復したらこれはぜひ見に行きたい。この本は確かアイヌの写真展を見に行ったときに参照図書として展示されていたもの。タイトルに惹かれ,池袋の古書市で見かけて嬉しくて入手したことを思い出す。1冊の古書には自分の物語があるのだ。

「詩人の旅」(田村隆一 中公文庫 2019)。既読のような気もしていたけれど,それは「インド酔夢行」だった。「詩人の旅」を読むことは「旅する詩人」を追いかける旅。

「新書版 性差の日本史」(国立歴史民俗博物館監修 インターナショナル新書 2023)。タイトル通り,展覧会を新書で見せるという書物。展覧会図録以外でこれだけ展覧会を楽しめるのは新鮮な驚きだった。

 小説は既読のものを何冊か読み返した。病める肉体には「知っている物語」が安心できる,ということなんだろうか。初読の小説は2冊のみ。「しをかくうま」(九段理江)と「共に明るい」(井戸川射子)。2人とも芥川賞を受賞したまさに「才気溢れる」若手女流作家だ。「しをかくうま」は面白かった。初めて多和田葉子を読んだときの驚きをちょっと思い出した。
 ここのところだいぶ恢復してきて,少しずつ思考も前向きになってきた。書は捨てないけど,外にも出よう。