2012-11-21

番外編・お知らせ

 8月から始めたブログが思いがけず,日々見てくださる方が増えて感謝しています。ありがとうございます。


 来月初にかけて,休暇をいただいて旅に出ることにしました。晩秋のロンドンとクリスマス市が始まるミュンヘンに行ってきます。

 ロンドンではウィリアム・クラインと森山大道の写真展やラファエル前派展,北方ルネサンス展など楽しみが目白押しです。もちろん大英博物館も。アンティークフェアも1箇所予定しています。ミュンヘンではアルテピナコテークでデューラーを見るのが楽しみ。

 しばらく更新をお休みしますが,戻りましたら旅行記としてアップする予定です。懲りずに遊びにいらしてください。では,行ってまいります!

2012-11-19

2012年11月,東京恵比寿,操上和美写真展「時のポートレイト」

 東京都写真美術館で操上和美の写真展「時のポートレイト」を見てきました。「ノスタルジックな存在になりかけた時間。」という副タイトルがついています。スタイリッシュでかっこいい広告写真で有名な写真家です。先月の首藤康之ダンス公演の映像作品「The Afternoon of a Faun」の映像監督もこの人。

 今回の展覧会はコマーシャルフォトの展示ではなく,1970年代から撮りためたシリーズ写真の〈陽と骨〉,〈NORTHERN〉が2階の展示室の広いフロアを一つの空間として使って展示されています。

 〈陽と骨〉の最初の方のモノクロ作品はトイカメラで撮影したものを大きく引き伸ばしたということで,粒子が荒くコントラストが強い写真。魅力的だけれど,風化したように見える写真はどれも「スタイリッシュ」で「かっこいい」写真に見えてしまう。

 対照的に〈NORTHERN〉は,自らのルーツの北海道を見つめる写真家の眼に圧倒される写真が多く,父を看取った病室とその横に並んだ港の写真,そして近影の「冬の庭」などからはこれらの写真を撮らずにはいられない写真家の想いが伝わってくるようです。

 その〈NORTHERN〉の最初の方に,外国人のおじさんが列車の窓に手をかざしている写真があって,なんとなく見たことある人だなあ,と思って出品リストを読むと,ロバート・フランクだった!1994年の来日時に操上和美が富良野を案内したということ。そうとわかると,手をかざしたのは何をしようとしたのだろうとか,この時列車の窓から撮影した写真があるのだろうか,とか興味はあらぬ方向へ。

 1995年2月に横浜美術館で開催されたロバート・フランク回顧展Moving Outの展覧会図録を探して年譜を見てみると,「1994年4月,北海道に旅行」とあって,この短い1行の記述と美術館で見た1枚の写真とが頭の中で交錯する。そして,敬愛する年上の写真家の横顔を,手を,魂を,フィルムに収めようとした操上和美の衝動みたいなものに心が熱くなる。

2012-11-18

古いもの,中国のもの,鼻煙壷

 中国の美しいものの展覧会を見たので,手元に集まった鼻煙壷のことを少し。鼻煙壷(びえんこ)は嗅ぎ煙草を入れておく小さな入れ物で,素材は金属や玉,陶器,象牙,ガラスなど様々。ガラス製のものはヨーロッパからの技術が入ってきた清朝以降に作られたそう。大阪の東洋陶磁美術館には沖正一郎コレクションというあらゆる素材の精緻で美しい鼻煙壷ばかりのコレクションがあります。


 はじめて骨董市で手頃なものを見つけて以来,旅先などで求めるようになりました。手前の乳白色のガラスに緑色の鳥の文様が浮彫になっているのは台北の骨董店の店先で見かけたもの。ガイドブックには骨董に見せかけた巧妙なコピー品がたくさん出回っているので注意すべし,とありましたが,それはそれで旅の思い出に。

 いくつか気に入ったものを窓辺に並べて,気軽に一ページずつ読める「選りぬき一日一書」(石川九楊,新潮文庫)などを開けば,気分はすっかりシノワズリです。

2012-11-15

2012年11月,東京上野,「中国 王朝の至宝」展

 東京国立博物館で開催中の「中国 王朝の至宝」展に行ってきました(12月24日まで)。中国の歴代王朝を,ほぼ同時代の王朝を対決させるという手法で紹介する展覧会。たとえば「第一章 王朝の曙 蜀vs夏・殷」,「第三章 初めての統一王朝 秦vs漢」といった具合で「第六章 近世の胎動 遼vs宋」までを中国各都市の博物館から借り出した資料で展観することができます。

 実はこの9月,楽しみにしていたユンディ・リのピアノコンサートが中止になってしまい,この展覧会も無事に開催されるかちょっと心配だったのですが,杞憂でよかった。きっと双方のたくさんの関係者の方々の大変な苦労があっての開催なのでしょう。
 
 国宝級(中国では「一級文物」と言うそう)がずらりと並んでいて圧倒されますが,やはり第3章に展示されている兵馬俑はいつどこの展覧会で見ても魅力的。今回は「跪射俑」と「跪俑」が1体ずつ展示されています。360度眺めることができるので,後ろに回って髪型とか足の裏とかじっくり見てみる。

 これらの像は,もともとはすべて彩色されていたというから,色鮮やかな俑がずらりと並んでいる様子を想像するだけでも見ていて飽きない。2体を前にしてこうなのだから,秦始皇帝陵博物院を訪れることができたらどんなに楽しいだろう。ぜひいつか訪れたい博物館の一つです。

(遼の文物の展示の様子。写真は特別開館時に主催者の許可を得て撮影しました。)
 
 今回,心ひかれたものの一つが遼の時代のもの。澄んだ緑色が美しいガラスの四脚盤はイスラムのガラス。遼は契丹族の国です。解説文には「イスラームガラスは当時東アジアで人気を博していた。契丹は西方地域とさかんな交易活動を行っており,この盤もウイグル商人によってもたらされた可能性がある」とあり,一気に頭の中の地図が西に広がりました。

 どんなルートで何を取引していたのだろう,とかこれほど保存状態のよいイスラムガラスが他にも中国でたくさん出土しているのだろうか,とか知りたいことが次々に思い浮かびます。それはさておき,この緑色のガラスはどんな人が大切にしていたものなのか,この美しさを何に喩えればいいのだろう。

 ところで始皇帝の壮大な狂気についてコンパクトに学んだのが「酒池肉林」(井波律子著,講談社現代新書 1993)。インパクトのあるタイトルですが,「贅沢三昧」をキーワードに中国三千年を縦横無尽に駆け抜けて,その精神世界を読む楽しみを与えてくれる本です。

2012-11-13

読んだ本,「海に落とした名前」/「容疑者の夜行列車」(多和田葉子)

 多和田葉子の本を2冊,読む。「海に落とした名前」(新潮社,2006)はNYから東京に向かう飛行機が海に不時着し,助かったもののすべての記憶を失った「わたし」の話。手がかりはポケットのレシートの束。「わたし」はいったい誰なのか。

 「後藤はいつの間にかわたしのことを過去形で話している。まるでわたしはもう死んでしまったとでも言うように。/自分を過去のものにしてしまってはどうだろうと思ってみた。思い出せない「わたし」のことはあきらめて過去に葬って,新しく始めてもいいのではないか。あの人はああいうひとだったと,お通夜に集まった人たちのような話をして,区切りをつけて,過去の自分を葬ってしまえばいいのではないか。(略)でも,身体はこの身体一つしかないのに,一体何を葬ればいいのか。この身体,と思って、右手で左の腕を触ってみる。それから左の手を右の腕に載せる。身体だけは確かにそこにある。逆の場合だってありえたのではないか。つまり,身体が不時着の時に砕け散ってしまって,羽の生えた意識だけがかもめのように太平洋の上を彷徨い始めるというような。」(pp126-127より引用)

 他に3つの短編が収められている。「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」はNYのロシア式サウナとバーを訪れる話。a.b.c.とか(1)(2)(3)とテスト問題のような箇条書きで「わたし」の思いが挿入される。何が正解で何が間違い?

 「わたしはサハリンにいた/わたしはサハリンにいる。過去形で語れることはすべて現在形でも語れる。だから,時制の問題は鼻紙でぬぐって終わりにしよう。」(p76より引用)

 「道がないのにアレクセイは迷わずに,どんどん草をかき分けて進む。わたしはふうふう息を切らして,あとを追う。「だいじょうぶ?だいじょうぶ?」とアレクセイが少年の声になって呼ぶのが聞こえる。それは一度死んでしまった少年の声なのだ。なぜここにいるのだろう。」(pp76-77より引用)

 「容疑者の夜行列車」(青土社,2002)は旅人である「あなた」が夜行列車でいくつもの国境を超えて旅をする話。街の住人や列車の乗客たちとの奇妙なやりとり。旅の目的は読者にはよくわからない。そして旅は唐突に,必然性もなく,終わる。

 「スカーフで頭を包んだ女が一人,身体を丸めて,しゃがんでいた。たらいの中で手を動かしている。洗濯でもしているのだろうか。女は人の気配を感じたのか,頭を上げて,道に突っ立っているあなたの顔を見たが,微笑みもせず,驚きもせず,まるでその場にあるはずのないものを見てしまったかのように,首を左右に振って,すぐに盥に目を戻した。自分はそこにいる理由がないので,いないも同然なのだ,とあなたは思った。」(『ベオグラードへ』 pp47-48より引用)

 「眠りの中では,わたしたちは,みんな一人っきりではありませんか。夢のなかでは,窓から飛び下りてしまう人も,出発地に取り残されたままの人も,もう目的地に到着してしまった人もいます。わたしたちはもともと同じ空間にはいないのです。ほら,土地の名前が,寝台の下を物凄いスピードで走り過ぎていく音が聞こえるでしょう。一人一人違うんですよ,足の下から,土地を奪われていく速さが。誰も降りる必要なんかないんです。みんな,ここにいながら,ここにいないまま,それぞればらばらに走っていくんです。」(『どこでもない町へ』 p163より引用)

2012-11-12

2012年11月,東京日本橋,北川健次個展「密室論 – ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で」

 日本橋高島屋6階の美術画廊Xで開催中の北川健次個展「密室論 – ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で」を見てきました。コラージュ作品が中心の,幻想的なイメージにあふれた展示です。(11月19日まで)
 

 作品の中には作家自身の短い詩篇が添えられたものもあり,作品の強度をさらに高めています。いわば空間全体が作家の紡ぐ《詩集》になっているという印象の展覧会。

 次々と立ち上がる様々なイメージ同様,作家自身,自作やアートを饒舌に語ります。珍しく来場者が途絶えた短い時間,会場でしばし愉快にお話を伺う。ルオーやデューラー,靉光などの作品にまつわる興味深い逸話を縦横無尽に。

 個展のタイトルは毎回,想像力をかきたてられます。9月の銀座中町小西のオブジェ作品が中心の個展のタイトルは「立体の詩学 – 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で」。昨年刊行された「サン・ラザールの着色された夜のために」(沖積舎,2011)は初の写真集で,写真に詩が添えられている美しい本です。

2012-11-10

2012年11月,東京竹橋,「美術にぶるっ!」展

 東京国立近代美術館60周年記念特別展「美術にぶるっ!」を見てきました。第1部「MOMATコレクションスペシャル」と第2部「実験場 1950s」の二部構成の展覧会です。(2013年1月14日まで。)美術展としては変わったタイトル。チラシには「美術を体感すること。深く感動すること。知的に考えること。それらすべての出発点である衝撃を「ぶるっ!」という言葉で表しました」とあります。(そうですか,としか言いようがない…)

 第1部はリニューアルした4階から2階の所蔵品ギャラリーを使って,選りすぐりのコレクションが展示されています。旧来の広い空間が小スペースで区切られて,テーマと順路がぐんとわかりやすくなりました。なるほどこうすれば鑑賞者の動線が整理できるんだ,というお手本みたい。

  展示の数が多いので,各フロアで心動いたものを1点ずつ忘備録的に。4階ハイライト室の横山大観「生々流転」,3階写真展示室の牛腸茂雄「SELF AND OTHERS」より2点の展示,2階「海外作品とMOMAT」展示室のジョージア・オキーフの花の絵とアルフレッド・スティーグリッツの「三等船室」など4点が並んでいるところ。

 さて,会場を1階に移しての第2部「実験場 1950s」は,コレクション展ではありません。独立した特別展という趣の充実した展覧会です。1950年代を現代の原点ととらえ,展示は川田喜久治と土門拳の原爆写真で始まります。絵画,彫刻,版画,映像,写真,書籍などが「実験場」のキーワードのもと,10のコーナーに分けて展示されています。
(小島一郎展示風景。写真は特別開館時に主催者の許可を得て撮影しました)

 7番目の「『国土』の再編」コーナーで木村伊兵衛の写真を眺め,後ろを振り向いた瞬間,足がふるえました。そこには小島一郎の写真。強いコントラスト,何気ない東北の農村風景をドラマチックに変貌させる雲間からのぞく逆光の太陽。荒々しくも,しかし決して観るものを拒絶しない静けさに圧倒されて言葉も出ない。

 2009年に青森県立美術館で個展が開催されて話題になったときに,はじめて知った写真家です。ぜひ見たいと思いながら巡回展のない遠方の展覧会だったので諦めてしまい,それ以来名前を思い出すこともありませんでした。調べてみたら,2010年,2011年にもNHKで特集番組があったり東京のギャラリーで小規模展もあったようです。

 この展覧会の一室では,木村伊兵衛の徹底したリアリズム写真による東北と,小島一郎の東北を同時に見ることになります。暗室で焼きこんで生み出されるという小島の写真は,「東北」という個性に頼らない,写真家の魂そのものの表出といえるのではないだろうか。
 
 2009年の展覧会当時,あっという間に完売していた図録(写真集)が重版されていて,早速注文しました。もっと詳しくこの写真家のことを知りたい,と首を長くして届くのを待っています。
 
 と,軽く興奮しながらここまで書いてふと気付きました。展覧会場で小島一郎の写真に出会って,深く感動して,もっと知りたくなって本を注文した。その最初の衝撃を一言で言うと?なるほど,「ぶるっ!」ときたわけでした。

2012-11-09

2012年11月,東京赤坂,カナダ大使館「グレン・グールド・トリビュートの夕べ」

 冷たい雨の降る一夜,カナダ大使館オスカー・ピーターソン・シアターで開催された「グレン・グールド・トリビュートの夕べ」に行ってきました。今年はグールドの生誕80年,没後30年を迎える年ということ。この日はガブリエル・バンサンの絵本「UN JOUR, UN CHIEN」を映像化したショート・ムービー「アンジュール」の上映と,宮澤淳一氏のレクチャー,映画「Glenn Gould's Toronto」の字幕付き上映の3本立てのイベントです。

 「アンジュール」はグールドのピアノ演奏が彩る約10分の大人のアニメーション。モノトーンのクロッキーだけで構成された,一匹の犬の長い一日を描いた絵本の世界がそのまま再現された美しい作品です。グリーグのピアノソナタ7番,ベートーヴェンのピアノソナタ13番,バッハの平均律クラヴィーア曲集より前奏曲とフーガ22番が流れ,そしてバッハ/グノーの「アヴェ・マリア」がメインテーマ。

 映画のラストシーンに流れる「アヴェ・マリア」は,坂本龍一のプロデュースにより,グールドの演奏に宮本笑里のヴァイオリンの旋律が重なったもの。「時空を超えたコラボ」はなかなかセンセーショナルなコピーですが,何の違和感もなく詩情あふれる画面に寄り添う美しい調べからは,携わったすべての人のグールドへのリスペクトが伝わってくるようです。

 ところでイベント後に映画のHPを見てみると,「最後の『アヴェ・マリア』,犬が少年に会えた喜びにとてもフィットしていましたね」と坂本龍一氏がコメントしていて,びっくり仰天。

 というのも,私はラストシーンを見たとき,最後に少年の幻影を見た犬が死を迎え,「アヴェ・マリア」は神に召される喜びを表しているのだろうと思いこんで(フランダースの犬的な?),落涙寸前だったのです。誤解だったとわかり,自分の思考回路はなんてネガティブなのか,とちょっと落ち込んだものの,犬の未来にほっと一安心。

2012-11-04

2012年11月,東京三鷹,中近東文化センター附属博物館

 三鷹の「中近東文化センター附属博物館」に行ってきました。この建物は古代メソポタミアの神殿ジグラットzigguratをイメージしたものだそう。ジグラットとは日乾煉瓦を数層階積み重ねた聖塔ということで,内外装とも,壁面は乾いた色の煉瓦が積み重なったイメージです。入口正面の階段にはこの煉瓦色の壁面に,17世紀のイズニックタイルがさりげなく展示されています。藍色,ターコイズ,そして強烈な赤の色彩の取り合わせが壁の色に映えてとても美しい。

 展示室に足を踏み入れると,「パンと麦」,「文字の歴史」などのテーマに沿って,遠い(時間も空間も)文化に生きた人々の息づかいが聞こえてきそうな展示が次々に繰り広げられます。

 「工芸の歴史」のコーナーで青銅器やガラス,陶器などの「古くて美しいもの」たちを見るのはまさに至福の時間。ガラスの歴史はメソポタミアの護符の展示から始まります。12~13世紀イランの「ラスター彩」の皿の彩色は,「金色」を表現しているのではなく「金属」を表現しているのかと思うばかりの輝きです。

 特集展示は「中近東のむかしのファッション」で,工芸品に描かれた人々の姿から当時の服装などを見ていきます。本の挿絵に描かれた18世紀イランの貴公子は,水色のコート風の衣装と黒い帽子とブーツでばっちり決めポーズ。

 この博物館ではこれらの「古くて美しいもの」たちを,落ち着いて安心していつまでも見ていることができます。それはきっと,長く遠い旅をしてきた彼らにとっても,ここはとても居心地のよい居場所だからなのだろう,とそんなことを考えました。

 古代ガラスについてとても興味深く読んだ本。「正倉院ガラスは何を語るか」(由水常雄,中公新書 2009)。

2012-11-03

2012年11月,東京渋谷,「古道具、その行き先」展

 松濤美術館で開催中の「古道具、その行き先 坂田和實の40年」展を見てきました。「新しい美の発見」と絶賛する評価の声が多い展覧会。渋谷の喧騒を抜けて住宅街の中にある重厚な建物を目指します。


 天井高の高い地下1階の展示は,確かにこの「骨董商」(と言えばよいのか)の眼で選んだ「古いもの」そのものの魅力が伝わってくる空間になっていて,キャプションのない展示物と出品リストを照らし合わせながら,しばし愉悦の時間を過ごしました。

 「マリ ドゴン族 祈祷用階段」は実用の梯子のミニチュアで,個人が祈祷に使うものということ。持ち主だった人の思いがつまった佇まいに,思わず掌中に収めたくなります。

 2階の第二会場はがらりと雰囲気が変わります。ここに展示してあるコーヒーフィルターや雑巾などの「古いもの」は,観る人によって受け取り方がちがうだろうなと思います。私は一巡してそそくさと展示室をあとにしました。

 ちょっと複雑な思いで帰宅してから「芸術新潮」の2009年4月号「パリと骨董」特集を書棚に探しました。「古道具坂田のパリ」という特集記事をざっと振り返りつつ,「世界のムラカミ,骨董を語る」という村上隆氏に取材した記事を読みました。「坂田さんの骨董はコンセプチュアルアートだから」という村上氏の談話が心のすみにひっかかっています。