2022-03-22

読んだ本,「アイルランド短編選」「ダブリンの市民」

 アイルランドはいつか行ってみたい場所の1つ。敬愛する詩人の建畠晢「ダブリンの緑」(2005)や酒井忠康「スティーヴン・ディーダラスの帽子」(1989)など,彼の地への憧憬を掻き立てる書物がすぐに思い浮かぶ。

 「スティーヴン…」を久しぶりに開いたら,ベケットの「いざ,最悪の方へ」をコピーした紙片を挟んであった。この詩集の口絵のルイ・ル・ブロッキーによるベケットのイメージは,一瞬フランシス・ベイコンの手によるものかと見まがうのだが,2021年に開催されたベイコン展と同時開催されたアイルランド美術展に彼の版画が出陳されていたらしい(神奈川県立近代美術館)。松涛美術館への巡回展を見に行こうとした矢先にコロナで途中閉幕となってしまい,二重三重に残念な思いをしたのである。

 さて,「アイルランンド短編選」(橋本槇矩編訳 岩波文庫 2000)。ユリシーズはたっぷり時間のある老後(もう間もなくのことだ!)にとっておくとして,マライア・エッジワースからウィリアム・トレヴァーまでおよそ170年をカバーする15編の短編からなる文庫本はとても有難い。 
 
 歴史的背景の知識が必要なものもそうでないものもあるが,詳しい解説が読書を助けてくれる。やはり印象深かったのはジョイスの「二人の色男」だろうか。松本の古書店で買った「ダブリンの市民」(高松雄一訳 1987)所収の「二人の伊達男」と読み比べてみるのも一興だった。原題はTwo Gallants(Dubliners所収)。

 ハープや日傘や月光と金貨などが暗喩として機能してダブリンの姿が浮かび上がる。行ったこともないその街角に繰り広げられる二人の男と品のない女中とのやり取りを,街灯の影からじっと見つめているような気がしてくる。灰色の夕暮れを背にして。

 「彼はもうだいぶ永いこと男友達や女たちと町をぶらついて暮らしてきた。友人がどんな値打ちのものか分かったし,女たちのことも分かった。にがい経験から彼は世間に背中を向けた。しかし希望がまったくなくなったわけじゃない。食べ終えると気分が良くなった。厭世観も薄らいで元気が出てきた。小金を持った純朴な娘と出会えさえすれば,どこかの居心地の良い片隅で幸せに暮らせないとも限らない。」(pp.139-140)

2022-03-18

2022年3月,東京六本木,「よみがえる正倉院宝物展」,「石川直樹 まれびと」,「水谷章人 甦る白銀の閃光」

 夜遅くの地震の衝撃に心が塞ぎます。先週まで4月になったら東北に桜を見に行きたいなあとのんきなことを考えていましたが,被害状況が伝わるにつれて心が痛み,復旧を願うばかりです。

 都心は何事もなかったかのように電車が動き,人々が足早に行きかいます。人の流れの中で取り残されたかのように,うろうろと賑やかな街を彷徨い歩いてきました。

 サントリー美術館で「よみがえる正倉院宝物」展を。連綿と受け継がれる日本の美と手わざに涙が出そうになる。伎楽面の迫力。
 フジフィルムスクエアでは水谷章人の写真を。スポーツ写真という括りでは収まらないモノクロームの世界です。広大な雪原に浮かび上がるスキーヤーの黒い影。この場所でなければ,という写真家の強い美意識に打ちのめされます。

 少し歩いてアクシスビルのamanaTIGPでは石川直樹の写真展「まれびと Wearing a spirit like a cloak」を。東北から波照間諸島まで,彼の民俗学的フィールドの活動の一端を見ることができます。

 仮面をまとうことで異界の人「=まれびと」となる普通の人々。日常と非日常が交錯するその時間と場所を,石川直樹は共同体の中へ入り込んで写真に撮る。その瞬間,人々にとって写真家は一体どんな存在なのだろう。写真家もまた,カメラという仮面をまとう異界の人ではないか,とそんなことを考えてしまう。

2022-03-13

2022年2月~3月,東京・横浜,東京国立博物館と神奈川県立金沢文庫

 

   2月から3月にかけて,でかけた展覧会の記録を残していなかったので忘備として。東京国立博物館で「イスラーム王朝とムスリムの世界」展を。東洋館の地下が会場の特別展示ということだけれど,規模も内容もすばらしい展示に大興奮でした。マレーシア・イスラーム美術館の所蔵品の展示です。

 イスラムの歴史と世界各地の王朝の美術を,まさに時間を縦軸に世界地図を横軸に紹介するお手本のような展示。やはり思い入れというか,現地で見てきたムガール王朝の豪華な装飾品に目を奪われます。ああ,あのジャイプールのシティ・パレスで見た宝剣を思い出す! また行きたいなあ,インドに再び旅ができる日はいつ訪れるのだろうか。。

 2月の東博はとにかく盛り沢山でした。ほかに「趙孟頫とその時代ー復古と伝承ー」,「琉球王国の文化」,それから考古の常設展示で青森の遮光式土偶を。昨年秋の津軽旅行で見れなくて,そうか,東博にあるんだ,となったのでした。会えてうれしいよ。。
 3月に入って,金沢文庫で開催中の「春日神霊の旅 杉本博司 常陸から大和へ」展を見に行きました。春日大社の鹿神が好きなので楽しみにしていた展覧会。2018年の東博「国宝 春日大社のすべて」展で見た鹿島立神影図の数々や,鹿座仏舎利及び外容器を再見することができてまたまた大興奮。
 
 ただ,杉本博司や須田悦弘の補作によるいくつかの鹿像には,古物にこうやって手を加えて春日大社のお宝と並べちゃっていいんだ。とちょっと(かなり)びっくり。

読んだ本,「このページを読む者に永遠の呪いあれ」(マヌエル・プイグ)

 久しぶりにマヌエル・プイグを読む。「このページを読む者に永遠の呪いあれ」(木村榮一訳 現代企画室 1992)読了。2人の男の会話が延々と続く。まるで登場人物が2人だけの映画か舞台を見ているようだ。プイグの小説ってこんなに面白かったか,としばし読書の愉悦にひたる。

 2人の男は74歳のラミーレスと,彼を介護する36歳のラリイである。2人のやりとりは時に現実なのか妄想なのか,過去なのか現在なのか,そしてこの物語は悲劇なのか喜劇なのか。読者はこの2人に,そして作家プイグに試されているのかもしれない。

 小説の最後は数通の書簡の引用である(ネタバレになるので差出と宛所はここでは伏せる)。訳者解説によると,プイグの小説作法の試行錯誤の時期の作品ということだが,この書簡の存在によって,読者はこの不思議な物語の(ほぼ)全貌を知ることになる。つまり,プイグは読者を突き放しはしないのだ。

 以前も書いたことがあるのだけれど,プイグの来日講演を聴講したことがあり,次作の構想などをほがらかに語る姿を目の当たりにしたその数か月後,新聞の逝去欄にマヌエル・プイグの名前を見つけたときの驚きと悲しみは今も忘れられない。

 訳者解説の最後はこんな一文で締めくくられる。「僕たちはこのうえもなく優しい一人の小説家を失ったのである」(p.396) そう,まさにその通り,と深く首肯する。この本のページを読む者には永遠の悦びが与えられる。

 「口をひらけば,仕合わせ,仕合わせとおっしゃいますが,そう簡単に手に入るものじゃないんですよ」/「彼はどんな顔をしている?」/「神様ですか?」/「そうだ」/「深い皺のきざまれた厳しい顔立ちをしています。それでいて穏やかなんです、造りは大きいですね。厳めしくてしかもやさしい,厳しさの中に穏やかさが秘められています。(略)彼にはそれ以上のなにかがあったんです。とにかくなにかがありました。なにを言ってもけっして拒まなかったでしょうね。ただ,ほとんどなにも持っていなかったので,人に与えることはできなかったんです。とほうもなく善良な人でしたが,それがいちばん大切なことだったんです。彼からなにを期待していたのか。自分でもよくわかりません。」(pp.208-209)