2013-03-28

桜の季節に読む本,「そのハミングをしも」(建畠晢)

 例年,この時期は日程に追われる案件を抱えるのだけれど,今年はいつになく込み入った事態に陥り,気分も鬱ぐ。桜もそろそろ見ごろを過ぎようかという今日この頃,ようやく局面打開の道筋が見えてきました。ほっとする。

 この季節になるといつも思い出すのが建畠晢の詩集「そのハミングをしも」(思潮社, 1993)所収の「反・桜男」という一編の詩。「桜男はあらゆるところに居る。」で始まる散文詩で,2ページ見開きの真ん中にすとんと収まる短い一遍。後半部分を引用します。

 「つまり傷つきやすい心で明日に備える人たちは皆,桜男である。昨日は平積みにされた桜男たちが,出荷されていくのを見た。平時ならではの,歌のない,静かな光景であった。彼らの傷はうっすらと赤く,今日はどこかの街角で風に舞っているであろう。しかし。私は彼らを注釈しない。私は反・桜男だ。あちこちで,いい加減なあいさつを繰り返してはいても!」(pp.70-71)

 何度繰り返し読んでも,すかっと爽快になります。反・桜女として生きたいものだ!ところで建畠氏の詩のファンといいながら,この詩集しか読んでいない,しかも20年も前の出版と今頃になって気付いて,あわてて「零度の犬」(書肆山田,2004)を注文する。届くのが楽しみです。

 鬱ぎから解放されて(わりかし,単純にできている),ほかに楽しみにしているもろもろ。エドワルド・メンドサの講演(セルバンテス文化センター),スタイケンとジャコメッリの2つの写真展(世田谷美術館,東京都写真美術館),エル・グレコ展(東京都美術館)とルーベンス展(bunkamura)。はじめての川村記念美術館(BLACKS展)。

2013-03-22

2013年3月,東京松濤,「当麻」

  彼岸の中日,「櫻間右陣之会」にお誘いいただいて,松濤の観世能楽堂にでかけてきました。能は「当麻」(櫻間右陣ほか),狂言は「宗論」(野村万作,野村萬斎)という豪華な演目です。渋谷の喧騒をぬけて,閑静な街並みに入ると桜もちらほら,能楽堂の前庭のこれは辛夷の花でしょうか,薄曇りの空にま白の花。
 

 能曲の「当麻」といえば,すぐに小林秀雄と連想が浮かぶのは,いまだに大学受験勉強の呪縛だろうか。書棚の奥の「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)はあまりに色あせてページを開く気がしないので,書店で新しいものを買い求める。文庫本の奥付を見ると,初版は昭和36年,平成18年に75刷改版,そして購入したものは平成25年2月85刷とあり,いつの時代にも読み継がれているようです。(「当麻」初出は昭和17年「文學界」)。)

 物語の筋もここから引用させてもらうと,「当麻寺に詣でた念仏僧が,折からこの寺に法事に訪れた老尼から,昔,中将姫がこの山に籠り,念仏三昧のうちに正身の弥陀の来迎を拝したという寺の縁起を聞く,老尼は物語るうちに,嘗て中将姫の手引きをした化尼と変じて消え,中将姫の精魂が現れて舞う」(pp.74,75から引用)というもの。

 脇正面,橋懸りにいちばん近い席に座っていたので,老尼の面や中将姫の白い足袋などが鮮やかに眼に入ります。小林秀雄が見たものと同じものを時空を超えて見ていると思うと,眼前で展開する舞台に集中できず,むしろ彼の書いた文章がぐるぐると頭の中を回りだす。

 「仮面を脱げ,素面を見よ,そんな事ばかり喚き乍ら,何処に行くのかも知らず,近代文明というものは駈け出したらしい。」(p.76),「中将姫のあでやかな姿が,舞台を縦横に動き出す。それは,歴史の泥中から咲き出た花の様に見えた。人間の生死に関する思想が,これほど単純な純粋な形を取り得るとは。」(P.77)

 永遠に続くかと思われる笛の音,大鼓の音に乗って,白い袖を翻し舞う中将姫=櫻間右陣という現代の肉体に魅入られて,やがて舞台は終わる。

 能楽堂を出ると,俄かに雨がぽつりぽつりと落ちてきました。ほのかな照明に雨粒と白い辛夷の花が浮かんでいます。この一節で彼岸の一日をしめくくるのはあまりに出来すぎというものではないかと思いつつ,「美しい『花』がある,『花』の美しさという様なものはない」(pp.77, 78)と呟いてみる。

2013-03-17

読んだ本,「キャパ その青春/その戦い/その死」(リチャード・ウィーラン)

 横浜美術館でロバート・キャパの展覧会を見てから,アンドレ・フリードマンその人の人生がとても気になって,文春文庫の「キャパ その青春」「キャパ その戦い」「キャパ その死」(リチャード・ウィーラン著;沢木耕太郎訳)を読んでみました。さすがに文庫本3冊分,ずっと集中力を保つのは難しかったけれど,最終章に至るまでの緊迫した展開に惹きこまれて,読み終えてちょっとした脱力状態。


 沢木耕太郎氏の訳文はとてもテンポよく読みやすく,戦場写真家としてのキャパの「光と影」がとてもドラマチックに伝わってきます。スペイン戦争取材時の自分が撮った難民についてのルポルタージュに添えたキャパの言葉を引用した部分「バルセロナの難民センターの前で撮った,袋の山の上にぐったりと座っている,黒い瞳の美しい少女を描写したあとで,彼は書いている。《いつだって,ただ傍観し,人の痛苦を記録することしかできないことは辛いことだった。》」(単行本「キャパ その青春」 p.282より引用)は,展覧会場で見た少女の瞳を思い出し,胸が痛くなります。

 ところで,この文庫版は,文藝春秋社刊の単行本「キャパ その青春」と「キャパ その死」(1988年)の2冊を3分冊にして2004年に刊行されたもの。知人に借りた文庫本3冊を読み終えてから,手元に置いておきたくなって調べたところ重刷されていないようで,「その死」は某マーケット・プレイスでもかなり高額になっています。結局,単行本を某古書ネットで2冊購入。

 沢木耕太郎氏による「原注,訳注,雑記」も,感傷に流れそうな読後感をぐいっと現実に引き戻してくれて,とてもおもしろい。キャパの人生に関する沢木氏の思い入れは今,新刊の「キャパの十字架」(文藝春秋)に結実しているようです。あまりに完成度の高いテレビのドキュメンタリーを見て,これ以上活字で確認する内容はないのでは,と迷っていたのですが,やはり読んでおこうと思い直したところ。

2013-03-13

2013年3月,東京上野,国立西洋美術館常設展と「十二の肖像画による十二の物語」(辻邦生)

 思ったより混雑していなかったラファエロ展の会場をあとにして,余力を残して(?)常設展へ。2階に上がり,14-16世紀の絵画のコーナーで「ある男の肖像」(ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(派))とゆっくり向き合うことにします。

 この絵は辻邦生「十二の肖像画による十二の物語」(文芸春秋,1981)の第一の物語に選ばれた肖像画で,その物語のタイトルは「鬱ぎ(ふさぎ)」。

 ヨハネスは冬のある日,宏大な彼の屋敷の中庭で縮こまっている,銀鼠色の柔毛の小動物を拾いあげます。寝室の暖炉のそばで蹲り,日を追うごとに大きく,醜くなっていくその動物。都会に住む妻は寝室に入ることも許されず,彼にとってその動物は激しい羞恥と憎悪の対象となります。そしてついに牛ほどに大きくなった動物を裏の納屋に運んだ後,ヨハネスは病に倒れます。病床から脱け出したある日,納屋の扉を開けた彼の目に映ったものは…。

 このストーリーはこの肖像画の歴史的事実とは何の関連もない,小説家の創作です。「物語のはじめに」には「肖像画は(略)どんな風景や静物より,なま臭い人間のドラマを感じさせる。それは果てしない闇との対話とさえ言ってもいいものだ。十二枚の肖像画を選んで,それに物語をつける機会にめぐまれた。次の物語が果たして〈闇〉を解読しているかどうかはわからないが,すくなくとも,〈十二の肖像画〉が一人の小説家の心の中を通過した際に発した共鳴音のごときものである,とは言えそうだ」とあります。小説家が選んだのはほかに,ポライウォーロ,ブロンツィーノ,レンブラントなどなど。

 辻邦生を夢中で読んでいた(若い)頃は,世界は「真・善・美」で成り立っていると信じていて,その裏側にはこんな〈闇〉があるのかとショックを受けたものでした。時を経て,ヨハネスの心に棲みついたこの動物の存在こそが彼の人生だったのでは,と思えてきます。(思えば遠くに来たものだ。)

 この物語で一番惹かれたのは次の一節。「そのくせ妻はヨハネスを棄てきれなかった。彼の財産にも魅力があったが,それより何より,ヨハネスが都会の女たちのあいだで噂されるような,どこか官能的な容貌の持ち主だったからである」(p.9より引用)
  
 肖像画を前にして,なにかひんやりと湿った空気を感じながら,ヨハネスの妻に深く深く,共感する。

2013-03-11

2013年3月,東京上野,ラファエロ展

 上野の国立西洋美術館にでかけてラファエロ展を見てきました。「ヨーロッパ以外では初となる大規模な個展」ということで,これは混雑しそう。開幕早々に足を運ぶことに。
 展覧会の目玉になっている『大公の聖母』が圧倒的な魅力でした。18世紀末に所有者だったトスカーナ大公フェルディナンド3世は,生涯手放すことなく寝室に飾っていた,とキャプションにありますが,この1枚を所有しているというだけでなんと幸せな人生だったのではないか,と思えてしまうような美しさ。このような絵のことを「珠玉」というのだろうなあ,と思う。

 ところで,黒一色の背景が聖母子の気品と美しさを際立たせて,なんてドラマチック!と感激していたら,もともとは背景には窓のある室内が描かれていて,後世に塗りつぶされたものだということ。絵具の層が深すぎて復元は不可能ということですが,復元しなくてもよいのではないかな,と感じてしまう。それは巨匠に対して失礼というものではないか,と思いつつ。

 レオナルドに影響を受けたという『無口な女(ラ・ムータ)』の表情もとても印象に残ります。『聖ゲオルギウスと竜』,『エゼキエルの幻視』などなど,フィレンツェやパリからやってきた名作の数々を前に,贅沢な時間を堪能しました。

 ところで「画家の規範」と称えられ,名だたる画家の美の規範となってきたラファエロですが,19世紀半ばの英国で「ラファエロ以前に戻ろう」という決意のもとに結成されたのがラファエル前派The Pre-Raphaelite Brotherhood。P.R.Bのファンとしては,彼ら若き画家たちにとっての「因襲的」「アカデミズム」という乗り越えるべき壁として眼前に立ちはだかっていた巨匠の希有な展覧会を見て,なるほどこれは偉大なる壁にほかならないわけだ,とあらためて実感した一日でした。

2013-03-08

2013年3月,東京神保町,「みづゑ 1968年11月号」とハンス・ベルメール

 虔十書林で買ったみづゑ1968年11月号には澁澤龍彦による「ハンス・ベルメール 肉体の迷宮」が掲載されています。調べてみると,これはのちに「幻想の彼方へ」(河出文庫)に収められています。

 ハンス・ベルメールは,銅版画もよいけれど球体人形の写真にも惹かれます。エロチックな,という形容はもはや凡庸な言葉でしかない。一度目にしたら忘れられない人形たちの形態,ポーズ。そして澁澤龍彦がシュルレアリスムのデペイズマンの効果を出そうとしているものだ,と指摘している唐突な背景(=情景)。

 写真家としてのベルメールを日本に広く紹介したのが澁澤龍彦その人とされていて,「写真家ベルメール」(『世紀末画廊』(河出文庫)所収)には「なるほど,これまでにも私たちはベルメールの人形の写真をよく眺めてはきた。彼がみずから人形の写真を撮ることをよく知ってはいた。しかしその写真を,どちらかといえば私たちは彼の人形を知るための手段と解してきたような気がするのであり,写真それ自体として眺めてこなかったような気がするのである」とあります(p.170より引用)。

  生温かい強風とともに冬から春へと突然切り替わった日の夜更け,一人書斎の明かりを暗くして古い雑誌のベルメールの版画や写真を見ていると,何かひどく背徳的なことをしているような気分になる。

 ベルメールはパートナーであるウニカ・チュルンの肢体の(これまた)エロチックな写真も撮影していますが,彼女の「ジャスミンおとこ」(みすず書房)はいつか読もうと思い続けてずっと書棚に眠っている本。「分裂病女性の体験の記録」という副タイトルのついているこの本は,みすず書房の心理・精神医学関連書籍に分類されています。かなりハードルが高そうなので,いずれ強靭な精神状態のときに読むことにしよう。

2013-03-05

2013年3月,東京神保町,「みづゑ 1968年11月号」と瑛九

  2012年度の後半期は,週1回御茶ノ水に出かける用事があったので,神保町の古書店をいくつか新規開拓(?)することができました。明治通りと靖国通りを結ぶ富士見坂の途中の路地にある虔十(けんじゅう)書林も覗いてみました。店舗の前の古い美術雑誌やムック本,映画のパンフなどを物色して店内に入ると,右手奥には中井英夫,澁澤龍彦,稲垣足穂など幻想文学がまとまったコーナーも。

 店頭にも「みづゑ」のバックナンバーがワゴン売りされていましたが,澁澤龍彦によるハンス・ベルメールの記事が掲載された1968年11月号は澁澤本として店内の棚で別格扱い。鮮やかな表紙絵に吸い寄せられるように手にとると,おや,これは瑛九ではないか!特集は「生きている前衛 瑛九」です。2011年の埼玉県立近代美術館「生誕100年記念 瑛九展」がとても面白かったので,迷わずレジへ直行。500円。

 難波田龍起による寄稿や,池田満寿夫,オノサト・トシノブ,早川良雄,細江英公の4人による対談など,1960年に亡くなった瑛九の活動を「前衛」というキーワードで振り返る特集。さすがに半世紀近く前の雑誌なので退色や傷みはありますが, それがまた時代の雰囲気をそのまま伝えているようでわくわくします。これだから古書店めぐりはほんとに楽しい。

 2011年の展覧会では油彩やフォト・デッサン,版画などだけでなく,文筆家としての瑛九の活動を紹介する数々の評論なども展示されていました。1953年に神奈川県立近代美術館で開催されたクートーという作家の個展の評が,何というか実に痛快で心に残ります。

 「クートー展の会場に足をふみいれたとたんに,ぼくの心の中で座をしめているはっきりしない低俗な習慣的な感情がぐーとおしかえされるのを感じた。」で始まる一文は「低俗,習慣こそ拒否する」というタイトル(『社会タイムス』1953年2月3日/瑛九展図録P40掲載)。「低俗な習慣的なもの」の例として「正直でなければなりません」,「ざんこくであってはいけません」,「自然にさからってはいけません」などを挙げ,「このような保守的な,所有的な感情はつねに現状維持か,過去への退きゃくにもって行くための有力な道具である」と切り捨てるのです。痺れます。

2013-03-03

2013年3月,メイプルソープを想う,パフィオペディラムの花

 家の近くの生花店の店先でパフィオペディラムの開花鉢を見かけました。もう開ききっているので,来年の株として販売しているようで,値札は赤い字で書き直してあります。

 以前にも一度開花株を買ったことがあるのだけれど,夏に枯らせてしまいました。今度こそはと思って買って帰ることに。
 

 パフィオと言えば,メイプルソープの写真を思い浮かべます。何か言いたげな花を窓辺に置いて,栽培方法をちゃんと調べなきゃと思いつつ,まずは写真集をながめて暖かい春が待ち遠しい一日を過ごします。

2013-03-02

2013年2月,東京銀座,鈴木理策写真展「アトリエのセザンヌ」

 銀座のギャラリー・コヤナギで鈴木理策の写真展「アトリエのセザンヌ」が開催されています。鈴木理策の写真は改装前の同ギャラリーで2003年に吉野桜を見て以来,気になってあちこちに足を運んでいますが,好きな写真か,と自問したときにYesとは即答できない。うまく言葉にできないけれど,向かい合ったときに心がざわざわする感じが気になる,だからじっと見てしまう,という写真なのです(私にとって)。「熊野、雪、桜」は2007年の東京都写真美術館での個展の公式図録。
 

 今回は,St. Victoire山を望むレ・ローヴの丘にあるセザンヌのアトリエを撮影した写真が並んでいます。(別コーナーに雪のシリーズの展示もあり。)三つの髑髏,セザンヌのコートやステッキ,棚の上のアルコールランプやガラス瓶など,セザンヌが配置してセザンヌが見ていたものなのだけれど,写真家のカメラのレンズを通してここにある写真を前にすると,「写真を見る私」はいったい何を見ているのか,この画面のどこを見ればよいのかがわからなくなってしまうのです。

 会場では堀江敏幸のテキスト「灰白質のありか」を手にすることができます。助けを求めるように活字を追うのだけれど,堀江敏幸という作家の強烈な個性がこの文章にはあって,私はますますどうしてよいかわからなくなってきて,会場の中をいつまでもぐるぐると歩き続けてしまう。