2013-06-30

2013年6月,東京恵比寿,「写真のエステ」展

  東京都写真美術館では「写真のエステ」展も開催中です。「エステ」と略して表記すると写真の修復とか保存に関する展覧会かと錯覚するけれど,Aesthetica=「美学」ということで,この展覧会のテーマは「写真の美しさはどこにある?」。
   「光」「反映」「表層」「喪失感」「参照」という五つのエレメントに分けて展示されているのは29,000点を超えるという同館のコレクションからの選りすぐり。展覧会チラシには企画・構成の学芸員が「企画者である私が感じている写真の美の在り方を選びとり,五つのエレメントに分けて紹介します」「美をめぐる数々の表現に目を向け,そのたたずまいを味わい,趣きを愛でてください」とあります。ここまで企画者の「私」を前面に押し出した紹介文も珍しい気がする。

 「美」は限りなく主観的なものだから,ここにある写真の数々を「美しい」と感じるかどうかは観客に委ねられるはず,とへそ曲がり根性全開で会場を回りましたが,わりと「普遍的に美しい」写真が選ばれていて,ちょっと拍子抜け。見応えたっぷり,普通に楽しい展覧会でした。

 この展覧会の中で私が一番「美しい」と思う写真はどれだろう,と考えながら会場をぐるりと回る。ハリー・キャラハンのエレノアEleanorかなあ。ロバート・フランクのセルフ・ポートレイトもとてもよかったのだけれど,出品リストのタイトルに誤植があって,正誤表の扱い。(誤)Beyond Self-Portrait(セルフ・ポートレイトを超えて)→(正)Beyruth, Self-Portrait(ベイルート,セルフポートレイト)と書いてある。わからない気もしないではないけど,それはないんじゃないか,という間違いっぷりが妙におかしい。

2013-06-29

2013年6月,東京恵比寿,「日本写真の1968」展

 東京都写真美術館で開催中の「日本写真の1968」展を見てきました。シンポジウム開催日にでかけて,開催時間前の1時間くらいではとても全容を見ることができず,後日あらためてじっくり見直した次第。
 
  「1968年を中心にして,1966から74年の間で,日本で「写真」という枠組みがどのように変容し,世界を変容させていったかをたどり,「写真とは」「日本とは」「近代とは」をさぐります」(展覧会チラシより)という展覧会。入口の「プロローグ」,出口の「エピローグ」はいずれも東松照明。東松照明に始まって東松照明に終わる展示です。

 昨年11月,ロンドンバービカンセンターで見た1960-1970年代の写真展で日本の写真家から東松照明が選ばれていたことも併せ,あらためて日本の,そして世界の写真史において「東松照明」の存在の大きさを実感します。

 第1部の「写真100年」,第4部「写真の叛乱」では「アノニマス」(無名性)の写真に光が当てられ,特に第4部では今までまったく知らなかった「全日本学生写真連盟」による「集団撮影行動」の成果を目の当たりにして,胸がざわつく。第3部の「コンポラ写真」は牛腸茂雄,鈴木清などをなるほど,こういう「括り」の中で見るのか,という新たな発見。

 そしてやはり今展でいちばん魅かれるのは第2部「プロヴォーク」の展示でした。さまざまな展覧会でさまざまな切り口で見てきたけれども,必ず新しい発見があります。今回は何と言っても中平卓馬が撮影を担当した映像作品「ロープ」(浜田徹監督, 1969)。一瞬一瞬の鮮烈な映像がいつまでも残像として眼前に浮かぶ。そして今回展示されていた作家蔵の「無題」と題する4枚は「来るべき言葉のために」のイメージの別バージョンか(航空機のイメージは写真集のものと同一のように見える),初めて見たけれどとにかくかっこいい。しびれます。

 ところで,6月15日に開催されたシンポジウムは「無名性」ということ,東松照明の写真の意味などなどとても深い内容のものでしたが,途中「沖縄写真」の扱いについて真剣な議論が続くさなか,登壇者の一人が「ぼくにとって沖縄写真がこの展覧会に含まれるかどうかなんてどうでもいいことだ」と言い放ち,不穏な空気が流れました。一体あの発言の真意は何だったのか,他者への敬意のかけらも感じられない発言に,なかば悔しい思いを抱く。

2013-06-26

読んだ本,「本を読む本」(M.J. アドラー, C.V.ドーレン)

 講談社学術文庫の名著フェア2013の1冊。出版年は1997年です。翻訳は外山滋比古氏と槇未知子氏。米国での初版が1940年,この翻訳の底本は改訂版1972年の出版だから,時も場所も遠いところで書かれた本。にもかかわらず,現代の私たちにHow to Read a Bookというこの1冊が教えてくれることの,なんと深く示唆に富んでいることか。
  「読書の意味」「分析読書」「文学の読み方」「読書の最終目標」という章立てを目次で見た瞬間,これはHow to Live a Lifeということかもしれないと腹をくくって読み進める。

 情報処理的な「読み方」にもページが費やされているが,第3部の「文学の読み方」の章はちょっと趣が異なる。以下は「抒情詩の読み方」からの引用です。

 「詩の読みかたは,第一に,一息につづけて読むことである。これは小説や戯曲の場合と同じだが,詩の場合は他のどれよりもそれが大切なのである。」
 「第二に,繰り返し,また声を出して読むことである。目だけで読んだときには見逃しがちな語句も,耳を通せばはっきりとらえられることがある。」
 「本当に詩を理解するには,繰り返し繰り返し読まねばならない。一篇の詩を味わうのは,一生の仕事である。(略)すぐれた詩は,汲めども尽きぬ泉のようなもので,何度読み返しても味わい尽くせるものではない。その詩を離れているあいだにも,読んだことによって,知らず知らずのうちに,多くのことを,われわれは学んでいるのである。」(pp.217-218より引用)

2013-06-24

読んだ本,「零度の犬」(建畠晢)

 桜の季節に注文した「零度の犬」を少しずつ読み進めました。タイトルの「零度の犬」に現れる,犬,少女,灰色の駅,低く暗い池…。建畠晢のイメージはどこまでも果てしなく続き,どこにも収斂しない。詩の言葉は世界のどこか(それは読み手の脳の中かもしれない)へ着地するとは限らない,と詩人は知っていながら,「さあ,よい光景を見つけに行こう。腕の細い灰色の少女を探しに行こう。」と嘯く。そして「その距離で今,零度の犬が吠えている。」(p.41より引用)と続ける。
 
 「歴史姉妹」では詩人の問いかけに絶句する。「どう思う?私たちは反省する者なのか,歴史の中では誰が反省すればいいのか,どう思う?/『自己の形而上学はずいぶん庶民的になってきました』『きょうから新しい抒情が始まります』『これが今日,あれが明日のモダンだと言っている』」(p.61)詩の言葉が抒情の誕生の瞬間(それは読み手の生の瞬間かもしれない)に着地するとは限らないと詩人は教えてくれる。
 知人から,雑誌PENの6/15号の建畠晢氏のインタビューが掲載された記事のコピーを頂きました。建畠氏は埼玉県立近代美術館の館長を務めていて,「社会に一定の割合で存在する異質なものは,社会全体の狂気を抑える。それが健全な社会構造だと思うのです。美術は,その一端を担っている」(p.164より引用)という発言に瞠目する。
 
 「私にとっては詩作が本業」とも語り,7月には新しい詩集が刊行されるらしい。首を長くしてその日を待つことにしよう。

2013-06-22

古いもの,天神市で買ったもの(2),藍色切子鉢

 梅雨だから仕方がないのだけれど,蒸し暑い気候には体力も消耗します。日常のあらゆる場面で「効率」の二文字が停滞もしくは著しく低下してしまう日々。新刊にしても古書店の店先にしても,面白そうな本を見つけて次々と買い込んでは積み上げています。

  そんな鬱陶しさをしばし忘れさせてくれる爽やかな藍色のガラス。先月,京都北野天満宮の天神市で手に入れた直径16センチほどの鉢です。

 手に取ったとき店主はずっと携帯電話で通話中。「朝から全然売れへんわ!」と誰かにぼやきつつ,値段を尋ねる私とも小声で交渉し,成立すると「おねえさん(!),そこに新聞紙と袋があるから,自分で包んでって」。

 「あ,はい」と答えて梱包しながら,なんだか可笑しくてしようがない。いつ頃のものか聞きたかったけど,もうすっかり電話モードに戻ってしまった店主に向かって「それじゃ」と一言声をかけて店先を離れました。

  昭和の中ごろのものかなあ,という感じ。冷たくしたスモモなどが合いそう。枝豆も。

2013-06-20

読んだ本,「音を視る,時を聴く [哲学講義]」(大森荘蔵, 坂本龍一)

 2007年にちくま学芸文庫に再収録された1980年代の傑作対話。哲学専攻の人が薦めてくれて通読してみたけれど,大森氏がわかりやすい日常語で説明する〈哲学〉をどれだけ理解できたかはまったく怪しい。進行としては,大哲学者が一方的に講義をするというのではなく,坂本の言葉を受けとめて対話を繰り広げるという感じ。読者はその場に居合わせて,哲学者の提示する「今」「知覚」「私」などなどを注意深く聴き取っていくのだ。
 
   「(略)しかし〈今現在〉は幅がゼロの点時刻ではありません。もし時間を線と考え,その線上の一点でその線を切ったのが〈今現在〉だと考えるならば,それはヨーカンの切断面にはヨーカンがないように,〈今現在〉は何もない虚空のようなものになりましょう。」(p51より引用)

 この後に,「〈今現在〉の明確には表現できない性格に何がしかの暗示を与えてくれる」ものの比喩として「ピントのはずれた写真のボケ」が提示される。図を用いて説明されるこの「写真のピンボケ」の比喩のくだりには思わず引き込まれ,何とか理解しようと必死になって文字を追う。80年代はアレ・ブレ・ボケ写真の出現がまだ記憶に新しかったのではないだろうか。
 
 そして若き日の坂本龍一の言葉を受けて,音楽を哲学するくだりは刺激的という言葉しか浮かばない。

 S「バロック教会でパイプオルガンを弾くと音源がわかんない。空間全体に音が充満するというか,(略)定位を判別できないような状態になりますね。」:O「同時にその空間のヴォリューム感を増したり縮めたりですね。(略)音楽もその意味では,言葉とあるつながりがあって,そして世界の変貌をそのままそこへ作り上げるんじゃないでしょうかね。」(略):O「作曲家というのは,その意味では建築家とまた似てくるんじゃないですか,ある空間を作り上げるわけですね。一時的であるとしても。」(pp170-171より引用)

2013-06-14

2013年5月,横浜みなとみらい,山本直彰の日本画

 ひと月も前のことになるけれど,横浜美術館で東南アジア現代美術展を見てから,コレクション展の「賛美小舎-上田コレクション」も見てきました。自邸を「賛美小舎」と名付けて若手美術家の作品をコレクションした上田國昭・克子夫妻が2011年に寄贈した146件を展示する展覧会。夫妻は,「若い美術家の可能性を共有しようと,1987年から「新しい日本画」を,1989年から「現代美術」を蒐集し始め」たということ。山本直彰のPIETA 20071の展示。
  何で今頃かと言えば,このコレクション展を見たあと,パズルの断片が符合するような体験を二つばかりしたのです。その一つは大阪の国立国際美術館で見たフルクサス展に出展されていたヨーゼフ・ボイスの作品。キャプションを見て,あ,と思わず声をあげそうになる。「賛美小舎寄贈」と書いてありました。

 もう一つは銀座資生堂ギャラリーの椿会展。第5次のメンバーの中に山本直彰さんの名前があります。かなり前から山本さんの日本画の大ファンで,上掲のPIETAのシリーズやIKAROSのシリーズ,そしてプラハ滞在中に打ち捨てられていたドアを支持体として描いたのがきっかけで展開されたDOORのシリーズも,理屈を超えて惹かれるのです。「賛美小舎」という素敵な響きを持つコレクターの眼と自分の嗜好=思考の断片がわずかでも重なってうれしい。

 ところで2009年には平塚市美術館で山本直彰個展「帰還する風景」が開催されました。ずらりと並ぶ作家の内面が昇華された作品を前に,足がすくむ思いでいつまでもいつまでも見入っていたことを思い出します。この人は書く文章も鋭く禁欲的。なんと深く「生」と「芸術」に向き合っている人なのだろうか。

 個展図録に「帰還」と題した文章が寄せられています。一部分を引用することはあまり意味がないとは思いつつも,最後のくだりを。「人生の大半は後ろめたい。伴奏ばかりで歌はない。『何もない。その何もないところに風だけは吹いているのか?』/生の欲望,そして死への欲望。その休憩時間を6月の風がそよぐ。紅い葉が小きざみに揺れる。ああ,ああ…と僕はつぶやく。」(平塚市美術館個展図録p.64より引用) 

2013-06-12

2013年6月, 東京東銀座,柿葺落六月大歌舞伎

 5月の観劇の勢いにのって(?),6月第2部を見に歌舞伎座へ再び。これは木挽町広場の天井の提灯。「鳳凰丸(ほうおうまる)」は歌舞伎座の「座紋」と言うのだそう。歌舞伎座のHPを見ると,法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた文様が原形になっているとのこと。調べてみるとこれは東京国立博物館の法隆寺宝物館に収蔵されています。展示される機会があったら見てみたいものです。
 
  さて,第2部の演目は「壽曽我対面」と「土蜘」。どちらも華やかな舞台がとても楽しい。「対面」は曽我兄弟を菊之助と海老蔵。この二人と後ろに並ぶ七之助の化粧坂少将の姿がオペラグラスの視界にぴたっと収まったときには,これぞ浮世絵かと思う美しさでした。海老蔵はなにしろ美しいのだけど,せりふの響きがひっくり返ってしまってて,よいのでしょうか?と通の人に聞きたくなる。

 「土蜘」は菊五郎の蜘蛛の精。蜘蛛の糸がぴゃーっと舞台に捲かれ,それをまたぴゃーっと片づける後見の動きも面白くて,あっという間に時間が過ぎていきました。子役の藤間大河くんがとてもかわいい。
 

2013-06-11

2013年6月,東京銀座,椿会展2013

 銀座の資生堂ギャラリーで椿会展が開かれています。ギャラリーのHPによれば,第1回椿会展は1947年に開催されたとのこと。メンバーも変遷を重ね,今回から第7次となるのだそう。青木陵子,赤瀬川原平,伊藤存,内藤礼,畠山直哉の5人です。

 赤瀬川原平の「ハグ1」は60年代の千円札の写真をぼかして拡大した写真。前衛への初心という意味なのか,さすがの貫録でこのメンバーの中では少し浮いてる印象を受けてしまう。「襖サイズ」に拡大した,というのが何となく意味不明で面白くはありました。

 畠山直哉の写真が圧倒的に面白い。「CAMERA」は宿泊したホテルの部屋の一部を撮影した連作。カメラはラテン語で「部屋」という意味で,イタリア語では今もそのままの意味で使われているそう。2枚組のUntitledは道路にチョークで書かれた西洋哲学者のリストの写真。こんなの,一体誰が何のために書いたんだ?と写真家と同じ視線でわくわくする。
  内藤礼のガラス作品は「1階ビル外壁の小ウインドウ内に展示しています」と書いてあるのですが,「ビル外壁の小ウインドウ」はいくつもあります。資生堂パーラーのチョコレートを「これが作品か」とじっと見てたら,ギャラリー入口正面の小ウインドウにちゃんとわかりやすく花を生けたガラス作品があった。現代アートを解せぬ輩のマンガみたい,とこれは自虐的な意味で。

2013-06-07

2013年6月,東京恵比寿,BOOK Chapter 1

 恵比寿にあるMA2 Galleryで開催中の「Book Chapter1」と題された展示を見てきました。先日,京都で訪れた古書店Books & Thingsに案内ハガキが置いてあり,店主の小嶋康嗣さんもセレクトした本を出展されていると聞いて興味津々。

 ギャラリーの案内文には,「(略)本というテーマを9人の表現者に投げかけてみました。9 人の作品でライブラリーになったMA2 Galleryの空間をぜひお楽しみください」とあります。9人の表現者はほかに寺崎百合子,松原健,横内賢太郎,村田真など。村田真氏は評論だけでなく,実作も手掛けているとは知りませんでした。藤堂のガラスを使った本の彫刻はとにかく美しい。本とガラスの組み合わせにわくわくします。
  小嶋康嗣さんのセレクトした本は階段を上がった正面に。Westvaco 社から刊行されたAmerican Classic Book Seriesの中から4冊。あとでBooks & ThingsのHPを見ると全26巻が出展されたそうだけれど,展示替えがあったのだろうか,それとも私が他の本の展示に気づかなかったのだろうか(何たるおマヌケ)。

 HPによると,このシリーズはアメリカのグラフックデザイナーBradbury Thompsonが装丁を手がけて,1958年から1983年にかけて毎年クリスマスに出版社の顧客や友人たちに贈られた非売品らしい。古書店主がアーティストとは違うアプローチで「美しい本」を表現しているのだから,本の「姿」だけでなくやはり本の「宇宙」も味わいたいものだなあ,と思う。4冊の下から2番目はHenry JamesのDaisy Millerです。

 Henry Jamesは学生時代,米文学の講義でThe Portrait of a Ladyの原書購読がありましたが,今となってははるか忘却の彼方です。静かなギャラリーの2階にぼんやりと佇み,久しぶりにホーソーンやポーの短編を繙いてみようかとか,ノスタルジー以外の何ものでもない,大学の午後の教室や若き日の学友たちの姿などを思い浮かべたりした午後。

2013-06-06

2013年5月,東京六本木,「貴婦人と一角獣」展

 六本木の新国立美術館へ「貴婦人と一角獣」展を見に行ってきました。パリの国立クリュニー中世美術館の改装に合わせて,「フランスの至宝」と言われるタピスリー6点が来日しています。

 ちょうどNHK日曜美術館で紹介された直後で,会場は混雑気味です。テレビで会場の様子をばっちり見てしまったせいか,今一つ気分が揚がらず。作品はともかく,展示風景というのは事前にあまり見ない方がよいな,とあらためて認識する。
『「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」に続く最後の「我が唯一の望み」に込められた意味は?』というこの展覧会のキャッチコピーも,繰り返し読んだり聞いたりした上に,この作品を題材にした小説も読んでしまったせいもあり,今一つ新鮮味を感じない。

 それでも,実物の美しい千花文様や,貴婦人たちの表情の質感にはさすがに驚かされます。中世のお邸の壁にかけられていた様子を想像してうっとり。

2013-06-01

2013年5月,東京東銀座,柿葺落五月大歌舞伎

 隈研吾の設計で改装なった歌舞伎座の五月公演千秋楽にでかけてきました。歌舞伎座閉場中は新橋演舞場や浅草新春歌舞伎にごくたまに出向くだけでした。わくわくしながら新しい歌舞伎座へ。

 新しくできた地下の木挽町広場からエスカレーターで地上へ。タワーを背にした歌舞伎座正面。新装というより,伝統を生かして化粧直しといった雰囲気。夕方開演の第三部の演目は「梶原平三誉石切」と「京鹿子娘二人道成寺」です。
 
  千秋楽のロビーは役者夫人たちも勢揃いで華やか。暑い日だったので,和服姿の観客は少なめだったかも。エスカレーターが設置されて動線は便利になっていましたが,ロビーや売店の雰囲気はそのまま残されていて,むしろ懐かしい。そして座席は前の座席との間隔が広がったと書いてありましたが,3階席はあまりその恩恵は感じない程度。3階ロビーの「めで鯛焼き」は健在です。

 肝心の舞台は「梶原平三誉石切」は吉衛門の景時,「京鹿子娘二人道成寺」は玉三郎と菊之助。華やかな舞台にうっとり。玉三郎の踊りは,この世のものではない白拍子花子が玉三郎という現実の肉体を借りて舞台に舞い降りたよう。「妖艶」という言葉がぴったりの舞姿にくぎ付けになります。

 歌舞伎はやっぱり歌舞伎座で見るのが一番だなあ,と。閉場前によく出かけた4階幕見席もエレベーター完備で復活したので,これからまたちょくちょく見たいものです。歌舞伎座ギャラリーはまたの機会に覗いてみよう。