2020-12-30

読んだ本,「動物寓話集」(コルタサル)

  光文社古典新訳文庫の「奪われた家/天国の扉 動物寓話集」(コルタサル 寺尾隆吉訳 2018)を読了。「動物寓話集」は表題作を含む8つの短編からなる短編集だが,どの短編にも寓意としての動物が登場する。

 どの短編もぞっとするほど魅力的だが,一番惹かれたのは「キルケ」。思わずJ. W. Waterhouseのあの1枚を思い出さずにいられない。奇しくも短編の扉にはガブリエル・ロセッティの「林檎の谷」の一節が引用されている。ラテンアメリカリアリズムのミューズはラファエル前派?

 二人の婚約者を亡くしたデリアを愛したマリオは,求婚を決意してこう思う。「結婚まで至らずとも,こうして静かな愛を引き延ばしていれば,やがて彼女は隣に三人目の死者がいるとは思わなくなり,この恋人もやがて死ぬという予感から解放されるだろう」(p.125)

 男のこんなうぶな思いこみがいかに脆いものであるかが明らかになり,デリアの「予感」がいかに怖ろしいものであるかを知るとき,コルタサルの現実と虚構の境界,つまりは生と死の曖昧な境界を漂うのはこの短編を読む自分自身だと気付く。三人目の死者は私だったのかもしれない。

 さて,この年末年始はまたステイホーム期間となりそう。大掃除と読書で過ごします。拙ブログを見てくださる皆さま,どうぞよいお年を。来年はよい年になることを願いつつ。

2020-12-20

2020年12月,東京小平,「DOOR IS AJAR 山本直彰展」(武蔵野美術大学美術館)

  武蔵野美術大学美術館へ山本直彰展を見に行く。武蔵野の地に広がるキャンパスには美大生らしい個性的な若者があふれ,ちょっとした異世界のよう。

 展覧会のタイトルは"DOOR IS AJAR"。えっ,"ASK,SEEK, KNOCK"の次についにドアが開いたの?と驚いたが,日本語が添えられている。「ドアは開いている か」。問われているのだ。観る者としてドアに対峙する私たちに。

 1998年頃に初めてこの作家の存在を知り,閉ざされたDOORに惹かれ続けてきた。身体の芯から溢れ出る言葉もまた鋭く,今展の図録に収録されたエッセイ選を夜更けに読むと,私と世界の間のドアはバタンと閉じる。

 第2会場に展示された新作「我々はどこからこないで 我々はどこへいかないのか」を前にして,人をくったようなタイトルにめんくらいながらその意味を考える。2011年にインタビューに答えて「(生きることとは)前も後ろもないどこかへ向かっていること」と答えたという。

 私は作品の前で,右往左往しながらプラハ滞在時のドローイングやドアの写真を見て息を呑む。プラハではドアは開いて「いた」のか。いや問われているのは今,「開いている か」。

 いつまでもいつまでも考え続ける。

 冬の陽ざしが眩しい。前庭の植物たちが賑やかに迎えてくれる。

2020-12-06

2020年12月,横浜みなとみらい,三浦一馬 キンテート〈マルコーニ&ピアソラ〉・横浜美術館「トライアローグ」展

 一足早いクリスマス。久しぶりにみなとみらいホールにでかけました。前から三浦一馬のバンドネオンを生で聴いてみたかったんだ。「キンテート」は五重奏「クインテット」のスペイン語なのだそう。ヴァイオリンは石田泰尚。我らが(?)神奈川フィルの顔が,今やカリスマヴァイオリニストとして大人気!舞台でおじぎするだけで割れんばかりの拍手!

 第1部のマルコーニが昼の音楽だとしたら,第2部のピアソラは夜の音楽なのかな。ひたすらかっこいい。ずいぶんと前にヨーヨー・マのピアソラのCDを繰り返し聴いてたころがあったけど,生の迫力に興奮度マックスです。

 前半にネストル・マルコーニの6曲、後半にピアソラの「92丁目通り」,「プレエパレンセ」など6曲、アンコール最後にリベルタンゴ!

 帰りが遅くなりそうだったので,会場近くで1泊し,翌日は横浜美術館の企画展「トライアローグ」を見て帰りました。横浜美術館・愛知県立美術館・富山県美術館の20世紀西洋美術コレクションが大集合。それぞれの館の特徴が出てておもしろかった。

 特に同じ作家の作品が並んでると,観客としての好みの差が出るというか。私は富山のセンスが好きだったな。サム・フランシスは愛知のは派手,富山のはシンプルで。リキテンスタインは横浜のはステレオタイプで,富山のは斬新,みたいな感じで。 

読んだ本,「理由のない場所」(イーユン・リー)

  「理由のない場所」(イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 河出書房新社)を読了。イーユン・リーの著作は「黄金の少年,エメラルドの少女」を読んだことがあるだけ。どうにもアジアの作家が英語で書いた小説を日本語訳で読む,というのが私の中でうまく消化できない気がしてしまうのだ。

 この小説でも,読み始めてしばらくは,たとえばpp.62-63あたり,「たいしたことのない人間」に片仮名で「ノーバディー」とルビがふってある。「たいした人間」には「サムバディー」,逆にルビ「サム・バディー」の日本語訳は「何らかの肉体」である。いったい,作家の思考(そもそも英語なのか,それとも中国語なのだろうか?)を表す言葉は何で,それを英語で表したものを日本語に翻訳する訳者の仕事とは何なのだろう。読者は「たいしたことのない人間」を「ノーバディー」と再変換しなければならないの?

 しかし,母親とニコライという16歳の少年の淡々と続く対話を読み進めるうちに,こういうもやもやはどこかへ消えていってしまう。ニコライはすでに亡くなっている。母は彼に訊きたいことがたくさんある。しかし,ほしい言葉は返ってこないし,そもそも言葉を返してほしいとは思っていない。
 
 この対話はいつまで続くのだろうという読者の疑問は,母親とニコライにとっての言わずもがなの疑問だ。最終章はただひたすら,この二人の対話がどこへ向かうのか,息を詰めて読むしかない。

 「ママはフィクションを書くよね、とニコライが言った。/うん。/だったらどんな状況でも好きなように作り出せばいい。/フィクションはね,作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように,その中で生きなければならないの。」(p.192)

 「訳者あとがき」も一遍の小説のようだ。イーユン・リーのアメリカでの生活とヴィンセントという息子の死について知ることは,「小説を読む」という行為に伴う痛みとして,あまりに重く胸をしめつけられるものだった。

2020-11-23

2020年11月,東京新宿・恵比寿,石元泰博写真展

 今年は石元泰博の生誕100年なのだそう。オペラシティアートギャラリーと写真美術館で開催されている大規模な回顧展にでかけてきました(写真美術館は23日まで)。上の写真はオペラシティの会場の様子。1階と2階の両方を使った展示は見ごたえマックスです。

 私の手元に1998年に写真美術館で開催された「石元泰博展-シカゴ,東京」の図録があります。記憶が定かではないのですが,付箋を貼ったページがあって,なぜこの写真が気になったのだったか,それがずっと気になっていたのです。20年以上前の自分に会いに行くような心持ちで展覧会にでかけました。

 木の根元に一人の少女がいる。後ろを振り向く瞬間の大人びた表情が物憂げで,どきっとする。そしてよく見ると,その華奢な手首に巻きついたロープは大木に結び付けられている。何か不穏な空気を感じながら,目を背けることができない。

 「シカゴ シカゴ」に所収のこのカット,今回はオペラシティアートギャラリーで見ることができます。今回の展示図録を見てもこのカットの状況を説明するような文章はありません。どうしても気になって,1998年展覧会当時の展覧会評がないか,某新聞のDBを検索してみました。

 そして,この展覧会ではなく,米シカゴ美術館で開催されたA Tale of Two Cities展(1999)の展覧会評を見つけました。「50年目のモダニズム 石元泰博「二つの都市の物語」展:上」(1999/06/01朝日新聞夕刊)によれば,このカットは「手をひもでゆわえた少女がカウボーイごっこをしている初期の代表作」なのだそう!カウボーイごっこ!

 ああ,そうだったのか,よかった,と思わず拍子抜けのような,安堵のような言葉が脳裏に浮かぶ。このカットは「ファミリー・オブ・マン」展(MOMA 1955)にも出品されていたのだそうで,そうだったのか!の連続です。

 というわけで,展覧会の感想というより,自分の宿題の答え合わせみたいな話でした。それは置いておくとして,石元泰博の写真は「スタイリッシュ」という気恥しい形容詞がぴったりのかっこよさ。オペラシティは桂離宮と曼荼羅の充実した展示,写真美術館ではカラーの多重露光の斬新さにしびれます。来年度の高知の展覧会にも行きたくなってきました。

 なお,写真美術館では「琉球弧の写真」展も見る。山田實,比嘉康雄,平良孝七ら7名の作家たちの真摯な眼差し。平敷兼七の「火葬場 南大東」。

読んだ本,「象牛」(石井遊佳)

 「象牛」(石井遊佳 新潮社 2020)を読了。デビュー作「百年泥」があまりにツボだったので,第二作であるこの小説も期待度満点で読み始めた。

 表題作の「象牛」は南インドを舞台にした前作同様,インドで不可思議な物語が繰り広げられる。主な舞台はヴァーラナシー。今年2月にほんの1日滞在しただけなのに,あまりに強烈な経験が記憶としてよみがえる。

 およそありえない出来事と共に,「象牛」もあの街になら本当に存在するのではないかと思えてしまう。ガンジス河沿いのガートの名称を地図で確認しながら,小説の登場人物たちがあそこにいるのだ,と読み進める。

 ただ,インドの神々と性愛という小説のモチーフがどうにも読んでいて辛い。何か,無理やり「インドを描かねばならない」という強迫観念のようなものを感じてしまう。前作がインドを舞台に軽やかに仏教的世界を描いていたのに対して,重いのだ。「私」の愛も生き方も。

 少し戸惑いながら,併録の「星曝し」を読む。私にはこちらの方が面白かった。枚方をモデルにした「比攞哿駄」を舞台にして,死者と生者の境界の曖昧な物語が繰り広げられる。この小説でも川がこの世とあの世を隔て,「私」は七夕の夜に川ベりで煤に汚れた少年に出会う。「私」の少年への告白に読者である私は足をすくわれて,川の中に転がり落ちてしまう。そこはあの混沌としたガンジス河かもしれない。

 祖母のアパートで蚊取り線香に火をつける場面。「マッチ箱に手を入れて新しい一本を取り,しゅっ,ともう一度擦る。私は空いてる方の手を上げ,火をみつめながら,炎の熱のとどく境界の一線を指さきで薄闇になぞりだしてみる。恒星の引力の影響をうける運命的一線。惑星の崩壊するぎりぎりの生存の破線上を,漂うのだ,虚空に切り裂かれたマッチひと擦り分の光と熱のぎりぎり限界を人はさまよう,それが一生ということだ。」(p.168)

2020-11-20

2020年11月,東京新宿,「世界の藍」展

  文化学園服飾博物館で開催中の「世界の藍」展に行ってきました。入力すると「世界の愛」と変換されてしまった。何にしろ,幸せな気分になる展覧会でした。

 とにかく美しい,としか言いようがない深い深い藍色に染まった衣装や布が紹介されています。日本,アジア,アフリカや中米など約40か国の,それぞれの文化を写す色としての藍色。

 ベトナム サパの黒モン族の女性たちの衣装は,ほとんど黒に近い色。いつか行ってみたいベトナム山岳地帯の風景が目に浮かんでしまう。中国の鮮やかな文様は,数年前に下鴨神社の古本市で買ったINDIGO PRINTS OF CHINAのページを思い出して,うれしい。あの本をこの展覧会場にいる人たちに自慢したいなあ,などと一人にやにやしてしまう。
 会場には,服飾を学んでいるのか,和装の若い男性グループや,熱心にメモをとるおしゃれな雰囲気の学生さんたちがいっぱいでした。思わず気分が華やいできます。

読んだ本,「訴訟」(カフカ)


 光文社古典新訳文庫でカフカの「訴訟」(丘沢静也訳 2009)を読む。「審判」の新訳なのだが,「審判」を読んだのがもはやウン十年も前のことで,内容はおろかちゃんと読み通せたのかどうかも記憶が定かでない。

 なので,解説や訳者あとがきに記された「審判」との違いや,訳者の言うところの「負ける翻訳」の意味を味わうというよりは,カフカの未読の小説を読みやすい訳で楽しんだ,というところ。

 そして,ヨーゼフ・Kはなぜ逮捕されたのだろうか,この審理とは一体何なのか,わけのわからないまま,もやもやとした想いをかかえてヨーゼフ・Kの「終わり」を迎えるのだ。カフカの小説を読むときはいつもそうであるように。

 だが,この小説ではただ一つ,私自身にとって強く腑に落ちる場面に出くわした。「大聖堂で」の章。あっと思わず声を挙げそうになる。そうだ,短編「掟の門前」のモチーフは「審判」の中に出てくるんだった!

 「掟の門前」を短編集の中で読んだとき,大きな衝撃とともに私はこの話を知っている,と思ったのだ。どこかで読んだ,と。そうか,ちゃんと読んだかどうかも覚えていなかった「審判」の中で聖職者がヨーゼフに語っているのだ。そのことに気づいたという事実が,何よりもこの新訳文庫を読み終えた悦びだった。こんな読者がいてもカフカは許してくれるだろう。

 「…『どうして何年たっても,ここには,あたし以外,誰もやってこなかったんだ』。門番には男がすでに死にかかっていることがわかった。聞こえなくなっている耳に聞こえるように大声でどなった。『ここでは,ほかの誰も入場を許されなかった。この入口はお前専用だったからだ。さ,おれは行く。ここを閉めるぞ』」「門番は男をだましたわけだ」とKはすぐに言ったが,この物語に非常に強くひかれていた。「そんなに急ぐな」と,聖職者が言った。「他人の意見を鵜呑みにするものではない。お前には物語を,書かれてあるまま聞かせてやった。だましたなどとはどこにも書いてないぞ」。(pp.322-323)

2020-11-13

読んだ本,「族長の秋」(ガルシア・マルケス)

 「族長の秋」(G・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社 2007)を読了。何度も手にとり,何度も最後まで読んだつもりになり,しかし一体この小説は何なのか,とても言葉にするのが難しい。なんとなく書棚の前に立ち,呼ばれるようにこの本を手にして,秋の数夜を読書の愉悦に浸りつつ過ごした。そう,迷宮に導かれるとわかっていても,この書物を読むことは悦びであることに間違いないのだ。

 複数の語り手の声が錯綜し,「わたし」とは「わたしたち」とは一体だれなのか。1つの文の中でもその声は乱立するばかりか,改行なしに延々と文が続いていく。そして大統領の語る「わし」の声はどこにもとけこまないで迷宮の中をとぐろを巻くようにうねり歩く。

 そもそも大統領はこの小説の中でいつ生まれて,いつ死んだのだろう。私たち読者は何を読んでいるのだろう。答えはどこかにあるのだろうか。私はなぜ,この不思議な書物を何度も手にとるのだろう。

 新潮社「ガルシア=マルケス全小説」シリーズの1冊であるこの本には,「この世でいちばん美しい水死人」など6編の中・短編も収録されている。このシリーズの装丁はとても美しい。
 
 「しかし大統領は,涙のようにも見えるよだれの長い糸を口から垂らしながら,不吉な予感におびえて立ち上がったケッヘル卿を見ても,まばたきひとつしなかった。びくびくすることはない。それよりもわしに説明してくれ,なぜ,死をそんなに恐れるんだ。ホセ・イグナシオ・サエンス=デ=ラ=バラは汗のために型の崩れたセルロイドのカラーをむしり取った。バリトン歌手のようなその顔は醜くゆがんでいた。当然ですよ,とサエンス=デ=ラ=バラは答えた。死への恐怖はいわば幸福の埋火なのです。だからこそ閣下はお感じにならないのです。」(p.385)

2020年11月,京都,知恩寺・京都国立博物館「皇室の名宝」展

 さて,少し間が空いてしまいました。秋の小旅行の2日目は京都へ。JR奈良駅から東福寺駅で京阪電車に乗り換えて百万遍へ直行。知恩寺の古本まつりに行ってきました。下鴨神社の夏の古本まつりの楽しさを教えてくれた人がこちらも絶賛してたのでずっと気になっていたのです。今年は夏の市は中止になったようだし,この機会を逃すまじ。

 秋晴れの午前中,市は夏の半分かそれより少し少ないくらいの規模でしたが,熱心なお客さんでいっぱい。先日植物画を購入した際にCurtis's Botanical Magazineのことをちょっと調べたりしてたので,まずは欧文堂のテントで版画類を手にとる。

 おお,あるじゃないの。何枚か見つけたカーティスのうち,1796年のプリント,右上のNo202を購入。キンポウゲかな?オレンジ色が鮮やかでかわいい。しかし,こないだのトケイソウと比べると紙がペラペラで薄いんだ。紙質の違う版が何種類かあるということなんだろうか??調べてみよう。ほかに,インドのテキスタイルの洋書や,ウニベルシタス叢書の野島秀勝先生の訳書「宮廷風恋愛の技術」(アンドレアス・カペルラヌス著)など。相変わらず支離滅裂。
 次は旅の最終目的の京都国立博物館「皇室の名宝」展へ。先に昼食をとろうとレストランへ向かったら大行列。展覧会は日時指定だけど.食事はそうはいかない。。空腹をこらえて展示室へ。

 「蒙古襲来絵詞」を見るだけでも,と思っていたのだけれど,とにかく次から次へとまさに「名宝」が現れて,お腹いっぱい。思えば伊藤若冲の「動植綵絵」をこんなに空いてる会場でじっくり見たことなんて初めてかも。人気がありすぎて何となく敬遠してたけど,確かに凄い迫力だわ。と脱帽でした。
 というわけであっという間の小旅行はこれでおしまい。楽しかったなあ。やっぱり旅はよいですね。時間がなくなって省略した京セラ美術館はまたいずれ。しばらくはGo toも様子を見たほうがよさそうだし,ゆっくりとあれこれ計画を立てて楽しむことにしよう。

2020-11-07

2020年11月,奈良(3),奈良国立博物館「第72回正倉院展」

 そして旅の目的,正倉院展にいざ。ここまで早朝から動き回って,ついにたどり着いてほっとして,気が抜けてしまった。。

 会場は混雑もなく,ゆっくり見ることができましたが,如何せん,今年の展示は武器・武具と薬物がまとまって出陳されるのが特徴ということで,なんというか華やかさは今一つ。それに昨年東博で螺鈿の琵琶や瑠璃碗を見てしまったこともあって,今年の展示はちょっと地味に見えてしまったという。。

 とはいえ,美しい螺鈿の鏡や刺繍の幡にはうっとり。そして楽しみにしていた伎楽面の迫力にも大興奮です。

 さて,これで奈良の一日はおしまい。大充実の一日でした。翌日は京都へ向かいます。

2020年11月,奈良(2),春日大社と東大寺


 学園前駅から近鉄奈良駅へはすぐ。まだ正倉院展には時間があるので,シェアバイクを借りて春日大社へ一直線。二之鳥居の前まで自転車で進めるので,らくちんです(もちろん電動自転車)。

 いつか春日若宮おん祭で雅楽の奉納をぜひ見てみたいと思っているのですが,寒い時期なのでなかなか叶いません。今回はゆっくり参拝しよう。国宝御本殿の特別参拝では万燈籠再現を見ることもできて感激。国宝殿では森川杜園の彫刻展を。
 さて,春日大社をあとにして,まだ1時間ほどある。ここまで来たなら,と東大寺大仏殿へ足を延ばすことにしました。中学の修学旅行以来なので,ウン十年ぶりです(!)学生さんがたくさんいて,鹿に追いかけられて楽しそうにはしゃいでる。あんな時代があったなあ,と思わず遠い目。あっぱれの秋晴れです。

2020年11月,奈良(1),大和文華館「墨の天地 中国 安徽地方の美術」展

 
 連休を利用して1泊2日,奈良と京都に短い旅行に出かけました。旅の目的は奈良国立博物館の正倉院展と,京都知恩寺の秋の古本まつり。またGo Toを利用してLet's go!(わりかし単純な人間です。)
 
 正倉院展は,毎年ニュースで混雑の様子を見ているので,予約制の今年は狙い目かも!と考えた次第。早々に申し込んだのですが,希望の日は遅めの時間しか空いてません。新幹線は早い時間しかとれなかった。で,京都から近鉄でまずは学園前駅を目指し,大和文華館を訪ねてみました。

 ちょうど特別展「墨の天地 中国 安徽地方の美術」展が開催中。想像していたよりもずっと立派な(失礼)美術館で,秋晴れの一日,とても気持ちのよい時間を過ごしました。意外と(失礼)たくさんのお客さんの年齢層はかなりお高め。

 展覧会は,2017年に泉屋博古館で見た「典雅と奇想」展を思い出しました。黄山を有する安徽地方は文房四宝の名産地でもあり,墨や硯の展示も。文字通りガラスのような,「玻璃山水」と呼ばれた静謐な山水画の数々にうっとり。清の石濤がよかったな。京都国立博物館所蔵の黄山図冊が展示されていました。前期展示では泉屋博古館所蔵の黄山図巻が出陳されてたらしい。再会かなわず,ちょっと残念。

2020-10-25

2020年10月,Curtis's Botanical Magazine,時計草の植物画

 馴染みの書店の催事コーナーで時々,ボタニカルアートの販売会をやってるのをちらちら見かけることがあります。ルドゥーテのバラの豪華な額装画などは,ほんとにきれいだけど,マダムの居間を飾るインテリア然としてあんまり好みじゃない(←手が出ないというだけ)。この日はたまたまテーブルに並んでいる額装が目に入って足を止めました。おおお。大好きな時計草。

 そして,この構図。確かに見たことがある! 自ら収集家だという担当者の説明も上の空で家に飛んで帰って,書棚へ直行。澁澤龍彦の「フローラ逍遥」のページを繰るのももどかしく,時計草のページを開く。おおお。まさにあの1枚!
 
 落ち着け,と自ら言い聞かせて,まずはネットで情報収集(←お値段を確認したというだけ)。というか,ほとんど流通してない。紙の状態もとてもよかったので,ややお高めではあるけれど,これを逃す手はなさそう。ということで翌日,書店へ飛んでいって手に入れました。いやあ,うれしい。
 1787年 Curtis Botanical Magazine No.28  PASSIFLORA CAERULEA。画はJAMES SOWERBYによるもの。オリジナルテキストもついてます。

 「フローラ逍遥」によれば,16世紀の末ごろ,南米に渡ったスペインの伝道師たちがこの花をパッションフラワー,「キリスト受難の花」と名付けたのだという。それにならって澁澤がこの花を描写してこう書いている。「じっと眺めていると,トケイソウの裂けた葉は刑吏の槍に,のびた巻きひげは鞭に見えてきた。花の中心にそそり立つ子房の柱は十字架に,三本の花柱は,キリストの両手両足に打ち込んだ三本の釘にそっくりであった。(中略)花の白い部分は純潔,そして青い部分は天国にほかならなかった。(後略)」(p.135「時計草」より)
 
 不安な気分の続く日々,疲労の濃い夜更けにこの一葉を眺めていると,何か背徳的な気分がしてくるのです。そう,覗いてはいけない世界をこっそりと見ているような。

2020-10-24

2020年9月,北海道(5),ウポポイ 民族共生象徴空間

 ずいぶん以前のことだけれど,函館の北方資料館を訪れたことがあって,アイヌの手仕事やアイヌ絵には爾来惹かれてきたのです。なのでウポポイのオープンはとても楽しみでした。旅の最終日,札幌から白老へ。帰路はそのまま千歳空港へ向かう予定です。駅でコインロッカーに荷物を入れて,いざレッツゴー。

 施設に足を踏み入れると,美しい湖が目の前に広がります。広さは一日で回り切れないほどの規模ではありませんが,体験交流ホールや学習館,屋外ステージや工房など,プログラムがぎっしりなので,効率的に回らないと半日では時間が足りないかな,という感じです。

 アイヌの神カムイの視点を体験する映像「カムイ アイズ」や,伝統的な歌や踊り,楽器演奏の「シノッ」の上演などなど,整理券を求めて列に加わりながらプログラムを楽しんでいると,ちょっとテーマパーク的なワクワク感が。シノッでは鶴の舞「サルルンカムイ リムセ/サロルン リムセ」に感動。

 そして国立アイヌ民族博物館は久米設計による美しい建物です。1階はシアターとライブラリーやショップなど,2階に展示室が配置されています。常設展示は中心部に円形に代表的な資料を並べ,外周に詳細な展示を展開するというもの。テーマは「私たちのことば」「私たちの世界」「私たちのくらし」「私たちの歴史」「私たちのしごと」「私たちの交流」の6つ。すべてアイヌ語の表示が第一言語となっています。

 そうか,ここでは「私たち」=アイヌの人たちが主語なんだ。アイヌの人たちの美しい手仕事の展示を楽しもう,と呑気に訪れた私にはこの展示はかなり驚きの連続でした。アイヌが受けた苦難の歴史の展示では胸が苦しくなってきます。苦難の歴史は誰が行ってきたものかの視点がぼかされている,という評も耳にしますが,ここを訪れる人にとってはそれは自明のことであって,展示を見て人として深く考える場ではないのか,とそんなふうに感じたのでした。

 アイヌ植物園でみかけたオオウバユリ(トゥレプ)。ころんとした形がかわいい。湖のほとりの丸木舟。実演もあります。体験もできるのかな。ちょっと怖いかも。。


 ポロチセの内部の見学では,生活の中でのカムイとの関わりの説明が興味深い。イナウはこんなふうにも使うんだ。
 旅を終えて,「ジャッカ・ドフニ」(津島祐子)を読み返してみよう,と思う。アイヌの歌の歌詞が繰り返されるこの美しい小説を読むことは,「私たち」と「あなたたち」が近づく一つの方法だと思うから。「浜へクジラがあがってきた フンポ・エー/行ってみようよ! フンポ・エー/浜へ大きなクジラが フンポ・エー/白身の肉をどっさり背負って フンポ・エー/あがってきた フンポ・エー/行ってみようよ! フンポ・エー」(p.457)

2020年9月,北海道(4),小樽・運河・小樽芸術村

 余市から小樽へ戻ります。電車の本数が少ないので,事前に確認が必要ですね。小樽は想像通りの観光地という感じ。運河もきれいでした。意外と人が多くて(自分もその一人),ガイドブックに載っていたレトロな喫茶店は行列ができてます。

 小樽芸術村は,旧三井銀行小樽支店,旧北海道拓殖銀行小樽支店,旧高橋倉庫・旧荒田商会の4つの建物をリノベーションして日本や世界の美術品・工芸品を展示する施設。ニトリが運営していて,旧北海道拓殖銀行小樽支店はずばり「似鳥美術館」です。とにかくなんでもありで,横山大観からモネ・ルノワールからアールデコのガラスから,ニトリってお金あるのね,という感じの美術館でした。
 旧三井銀行小樽支店は広い空間を楽しめるようになっていて,建築図面などの展示も充実。ちょうど企画展の「川瀬巴水と吉田博と旅する日本」展が開催中でした(10月11日までで終了)。吉田博をまとめて見れたのはよかった。ただ,展示室部分が全体の建物に対して貧弱な印象で,もうちょっと何とかならなかったのか。みたいな違和感あり。
 
 その点,旧高橋倉庫・旧荒田商会のステンドグラス美術館は建物と展示がこれ以上ないというくらいぴったり収まっていてとても気持ちのよい場所でした。似鳥美術館も,あれもこれもと詰め込まないでテーマを絞った方がよいんじゃないかと素人目には感じた次第。
美術館を出てぶらぶら歩いていると,弱い雨があがってきれいな虹が。

2020-10-23

2020年9月,北海道(3),余市蒸溜所

 前から行ってみたかった余市蒸溜所。ウィスキーはウン十年前は嗜みましたが,お酒が弱くなって以来ほとんど口にしてません。とはいえ日本のスコットランドと言われる蒸溜所,雰囲気を楽しみにいそいそでかけた次第。札幌から小樽で乗り換えて小1時間ほどです。

 で,スコットランドに行ったことがないので,本当にそうなのかよくわからないけれど,駅に降り立った瞬間から確かに異国の雰囲気が。街灯もなんだかよい感じ。蒸留所の外観もすてきです。

 キルン棟や糖化室・発酵タンク室などは外からの見学ですが.蒸溜棟は中も見学できます。石炭直火炊き製法の作業期間中だったので,職人さんが石炭をくべるところを間近で見ることができて迫力満点!ポットスチルにはしめ縄が貼ってあった。神聖な場所なんだな。

 貯蔵庫にずらりと樽が並んでる様子はイメージ通り。ウィスキー博物館では熟成の進み具合による琥珀色の変化も見ることができます。熟成と共に蒸発する現象をエンジェルズシェアと呼ぶのだそう。いちいち素敵だ。
 最後にお楽しみの試飲コーナー。午後からの小樽観光に備えて(?)ジュースにしとこうか迷ったのだけど,せっかくなのでシングルモルトをおそるおそる頂いたところ!あまりのおいしさ!例によって重い荷物を増やしたくなくてミニチュア瓶だけ購入しましたが,旅行から帰ってすぐに某カメラのお酒コーナーに直行。以来,夜な夜な楽しんでいるのであります!
 蒸溜所を出て少し先へ進むと余市川。ほんとにきれいな川なんだ。

2020-10-18

2020年9月,北海道(2),北菓楼・北海道大学総合博物館・弘南堂

 また間が空いてしまいました。やっと少し余裕ができてきて、今頃になって9月の旅行の写真整理と忘備録などを。

 札幌で文学館の次に向かったのは北菓楼札幌本館。大正15年に行啓記念北海道庁立図書館として建てられて,三岸好太郎美術館など美術館としても使われてきた建物が2016年に安藤忠雄によってリデザインされたもの。2階のカフェの壁面は6000冊の本が並びます。天井のデザインがすてきだ。建物の歴史を大切にしたデザインは上野の国際子ども図書館にも通じる雰囲気があって,とても気持ちのよい場所でした。

 おいしいメニューにも大満足して次に向かったのは北大キャンパス。天候がよければ植物園にも行きたかったのだけれど,冷たい小雨の中,総合博物館へ。

 収蔵標本が展示された3階が圧巻です。最初はウケてた標本展示(階段の脇にクマが座ってる!)も,バンビちゃんと親鹿が佇んでるあたりからだんだん怖くなってきた。。アイヌ・先住民研究センターのブースでは,ここでもウポポイの予習に励む!

 あっという間に時間がたって,博物館を出たのは薄暮のころ。北大はキャンパスというより広大な森ですね。一人とぼとぼと北13条門へ向かう道のりはなんとも心細いものでした。

 さて,門を出て街中へ戻ると元気百倍。今回楽しみにしていた古書店の弘南堂は門の目の前です。「池澤夏樹の旅地図」(世界文化社 2007)所収の「旅先の本屋で」という短いエッセイに登場する古書店。目次ページには作家が書棚を眺める書店内景の写真も掲載されています。

 「旅先で本屋に入って裏切られることは少ない」(p.246)という教え通り,文学館の展示がそのまま書棚に展開されているような充実ぶりに興奮。美術書のコーナーではアイヌ文化の充実ぶりにまた大興奮。ただ,「旅の途中で本を買うことの問題点は荷物がどんどん重くなること」(同)とある通り,あまり見境なく買うのはやめておこうと決めました。

 で,選んだのが「蠣崎波響伝」(永田富智 道新選書 1988)と「北海道の樹木と民族」(伊達興治 北海道出版企画センター 1995)の2冊。これならバックパックの中で旅の伴にできる,と店を出たのですが,あとになって串田孫一の「北海道の旅」の初版函入りを棚に戻してしまったのを後悔しきり。取り寄せたり,神保町で探したりもできるだろうけど,「旅先で買う」というその行為を,本の重さのためにあっさり諦めた我が愚かさよ(おおげさ)。

 さて,北海道初日の札幌ぶらぶらはこれでおしまい。2日目は余市と小樽へ!